一個下の記事(「長くなるので」云々)は本当に長くなってしまったのですが、1月に書いた結局天国ってなんでしょうねの話ですが、本当に長くなってしまったので鍵をかけておきました。「yes」ですが、わりと自由に書いているので、合わないなと思ったらブラウザバックでお願いいたします。
そんなこんなでそれとも関係ないわけではないというか、「無償の愛」と「愛は見返りを求めない」ということをプッチが全否定してから何年経ったか覚えていませんが、「無償の愛がある」という映画が去年ありましたね、と改めて思いました。
ラクス・クラインですが、これも20年越しくらいに完結した話でしたが、それと同じ感じで20年前くらいに「愛は見返りを求めない」と言ったのが結崎ひよのという誰かさんでしたね。
ここらへんどうなんでしょうね、というのをそのうち元気になったらまとめて書きたいですね、と思う部分ではある。
ジョジョの6部以降、というか8部が特に分かりやすいけれども等価交換の概念が出てきますが、有形・無形を問わず、等価交換は経済の基本ですが、愛、というものに限定したときに、愛が無形であった時に、そこに「無償の愛は存在しない」とプッチは言っていたじゃないですか。
「無償の愛は存在せず、それさえも天国への見返りでしかない」としたら、無償のものは存在しないのだとしたら、それは等価交換とは少し違うと思うから8部の話とは違うと思うのよね、という話。
ラクスの言葉で有名になったけども「必要だから愛しているのではなく、愛しているから必要なのだ」というのがあったけども、これじゃないのか、というのが一つ目。
プッチの場合はこれの正反対で「天国へのチケットとして必要だから愛しているのだ」ということだよね。
それが意識してやっているとしても無意識だとしても、という部分はプッチにとってはどうなんだろうなあと思うけども、全てあまねく無意識などということは有り得ない、くらいには「人の善性」というものというよりも人の欲求への信頼が強そうではあるなあと。
人の欲求というか、彼は自分が天国を望む以上、周りの人間も天国を望むはずだという強い発想があるんですよね、これプッチにしては不思議だと思うんですけども。そうでもないのかな。DIOが「天国」が精神的なものではなくて、真実から世界を支配して、世界を書き換えたものだって言うときに「書き換えたい」という欲求が遍くあるはずだ、というそのために「愛」を持っているはずだ、というのはなんだろうねこれ、今更考えていますがこれはプッチのすごく深い歪みのような気がしないでもない。
自分にあるものは他者にもあるはずだ、という単純な発想とは違う気がするというか……なんつーか、それを通り越して無意識だとしても「無償の愛は存在しない」と言うのだから、あらゆるすべての人間は天国に行きたいと思っていると信じているし、「運命を受け入れる覚悟を持っている者はそれで救われる」という彼なりの「天国」の創造と世界の一巡が友人との悲願を果たすことになるとしたらそれはでも発想としてはプッチの中の陥穽だよね? エンポリオに最後、というか、あそこで失敗した最大の理由はその思考回路の陥穽だと何度か小説で書いてみたのですが、上手いこと落とし込めないのでもっと考えてみたいなあと思っているのですが、あそこDIOなら失敗しなかった気がするなあと何度か言っているのはそもそも失敗もなにもプッチは気づいていない気がするけれどもDIOとプッチの考える『天国』は重なっていないよね? という。DIOはそれを別に気にしていないし、それでいいんじゃないの別に、くらいに思っていそうですが、プッチは最終的に「自分が天国に行くこと、天国を創造し、世界を一巡させること」を目指したわけで、DIOがどうこうという部分は(日記には一応記載はあったものの)抜け落ちているんですよね。DIOはそこまで分かっていたから日記の件とか教えたんじゃないかなー、という話を書いたことがあるのですが、プッチはいずれ「自分の手で」そういうことをやろうとする時がくるとそこまで分かっていたのではないかな、というか、たいていの人間は「そうなるだろ」と思っていたのではないかなあー、と思います。何だかんだいってもDIO様、人を見る目というか、ひとに対する考え方や発想はかなりの観察眼ですからね。あとわりと普通。
そうなるだろ、と思った時に「これは失敗するかもしれない」と思ったんじゃないかな、とは思う。DIOにとっての天国がなんなのかよく分からないのがほとんどの原因ですが、ほかの世界線のDIOが「真実の上書き」が能力でそれによってやろうと思ったのがあーでこーで、と考えても、じゃあそもそも一個前の日記で書いたけども「時間を止める」が能力のDIOの時点で基本世界のDIO様もそもそも承太郎のことを待っている必要はなかったわけで。
そのあたりの細かいことはいいんですが、天国へのチケット、という点で無償の愛を考えたプッチに対してDIOは何を思うんだろう、というのはありました。ダービー兄弟という「魂」という無形のものを有形にして保存できる配下を持っていたDIOにとって、まずもって有形・無形というのはあんまり意味のあるものではなかったと思いますが、それが有償・無償というふうになるとどうなんでしょうね。ていうかそうなると「神を愛するように」というその言葉自体はそのまま解釈できるわけです。「神≒天国を愛するように君のことを」「愛している」からそれでいいんだけども、やっぱりそれはプッチにとってのトロフィーとしての愛であって別段そこに愛らしきものは存在しないとはっきり分かるセリフでもあるんですよね、アレ。同時にプッチは隠れ蓑としてのと書かれていましたが神父という職業の範囲での神への愛ってのもどうなんだろうね彼。
その一方でヴァニラ・アイスやンドゥールはじゃあどうなるんでしょうね。DIOに対する愛というか。命の担保に等しい愛ですけども、それはンドゥールが分かりやすいという話をしましたけども「愛しているから必要」というそのままなんですよね、怖いというか困るんですけども。だから自害できるし、自害せざるを得ないという最期になるかと思うんですが、必要だから愛しているのではなく、愛しているから必要なため、自殺するしか方法がなかったのがンドゥールだった気がします。
それは「無償の愛」ではないのでしょうか? DIO側から見た時に特に。ンドゥールやアイスからしたらDIOに求めてしまうことがあったから否定しそうですが、それを含めてより無償と言えるのでは? と思ってしまう。
そうして「愛」という概念に「等価交換」という概念を持ってくることが出来るのだろうか、ということをダービー兄弟を見ているとさらに思います。DIO側だから余計に。
CLAMPの作品とかで流行ったし、魔術とか魔法とかいろいろ流行ったから「等価交換」の魔術的概念がいろいろと浸透して、それは「天国」でも同様? となるけども、それは違う気がしたようなしないような。もちろん8部のように明確に言われればそうなんでしょうが、ダービー兄の時の「魂を賭ける」行為は等価交換ではなかったですよね。レートを吊り上げて、賭けをどんどん進めていって、イカサマポーカーのチップを積み上げて、挑発の内容が「まだ賭けられるものがある」でホリィさんの魂でもまだだ、ということで「この場にいないけど花京院も入院してるだろ?」ということからどんどん吊り上げていくあれは、ジョセフとポルナレフの魂にも吊り合っていないし、DIOの情報を喋れ、という意味ではほんっとうに吊り合っていないワケです。もちろん、魂を賭けたポーカーゲームということ自体が詐欺みたいなもんではあるんですが、少なくとも等価交換ではない。
それはダービー弟でも同じことではあるんですよね。同じ話の繰り返しになるので割愛しますが、なんだかんだで等価交換ではない。
「魂」という不可視で無形かつ概念的なものを可視化して有形にして保存できる兄弟を知っていたDIOにとって「無償の〇〇」とか「無形の〇〇」というのはほとんど意味のないものだった気がすると上でも書きましたが、そこの〇に入るのが「愛」だとしてもそれは変わりがないと思います、という話。無償の愛とかそういう理想的なものではなくてもね。
というところから以前に書いた話でDIOが指摘しているのですが、プッチの考える「無償の愛」というのは「天国への見返りである」とするならば、それは「無償の愛」ではなくて、プッチにとっての「理想の愛」ではないのか? という。みんながそうであってほしい、そういう愛であってほしい、という「理想の愛」を求めただけの話ではないのかなあー、とは思います。その理想に何を思うかはまた別の問題ですけども。