夢の時間

タイトルちょっと違うか。

お先に。拍手やブログ拍手ありがとうございます。柔蝮!!もうアニメ楽しすぎて可笑しくなってます。

昨日はよく眠れましたー!ついに、ついに生涯見ることはかなわないと思っていた坂東玉三郎の阿古屋を見ました。シネマ歌舞伎だけどっていうかインタビューにもあったけどシネマ歌舞伎になると思いもしなかったので、どんなに頑張っても生はおろか大画面でも永久に見ることがないまま終わると思っていました(わりとガチ)。プログラムを読んでいてびっくりしましたが平成9年から10回しか演じていないそうです。まず平成9年というのにビビったあと思いました。もっと前からやっていたのかなくらいに思っちゃうよねってプログラム見せた母にも言われました。その前は歌右衛門だったのも、何歳まで阿古屋やってたんだ…とそっちの意味でも恐怖。そして阿古屋の公演まで10年前後の隔絶があった、と。そのうえで10回というのが…20年ですか。20年でたった10回だけ、それもたった一人の役者だけができるっていうのはいろいろな意味で壮絶な演目だと思います。私はその一回を狙って歌舞伎座に行けるほどの余裕も運もなかったし、これからもおそらくないので、今回のシネマ歌舞伎は本当に本当にうれしかったです。

そういう訳で追記に感想。

あまり専門的な感想は書きませんというか書けませんというか。思ったままに書きます。

気力がみなぎっているなあと思ったのは重忠でした。絶対的に阿古屋の存在感があり、阿古屋の役者がすべてを支配している中で、全ての進行役であり、引き立て役であり、位が上だということを絶対に崩さない重忠の役どころがなければたぶんこの作品自体に入り込めないと思い、大役に挑戦する、と玉三郎さんが言っていましたがまさにそうだなと思いました。

解説とインタビューにありましたが、この場を支配しているのは阿古屋の純粋な美と愛でありながら、それは景清一人のためだけのものであるのです。その「いない存在」の圧倒的な質量に押しつぶされることのない、というよりも、景清という存在があり、言葉を借りるならばその影の部分、それがこの舞台のすべてなのだろうと。だからか、一番印象に残っているのは阿古屋が「どんな責め苦よりも、情に訴えるあなたの詮議が苦しく、もし本当に景清の居場所を知っているなら、今私はきっと言ってしまったことだろう」と言うシーンでした。この時の二人はまるで情人ですが、それは重忠の四相と情を知るからであり、阿古屋が遊女だからであるという、二人の要素の抜出だけ。本当に阿古屋が思っているのは景清だけだからこそ、ここからの三曲に繋がるのだと思いました。

玉三郎の阿古屋のなんと美しいこと。人間的な美しさからかけ離れる瞬間と人間に戻る瞬間のこの間が何より美しい。琴を弾く前に爪をつけるさまはあまりに人間的で、美しく怪しくさえありますが、弾き始めるとその音も手もまるで異界のことのようです。人形振りの岩永の方が人間的に見えるほどです。爪を外すところを見逃したのか、カメラがいっていなかったのか覚えていないのですが、「爪外すところ見てねええええ!!」って帰りの車で思ったのでもう一回見に行きたいです。そんなに重要じゃないんだけど、爪をつけるところがあの美しさだったので。琴三味線はさることながら、胡弓の美しさよ。引き絞った胡弓のギィっという音さえも悲鳴のごとく響き渡るのです。

しかし重忠がすごかったなあと思います。終盤になれば、胡弓すれ、の一言さえもすさまじく重いであろうそこで言える、演じることができる、これはすごいことだなあとぼんやり思いながら見ていましたが、劇場から離れると、ああ、この阿古屋に相応しい演技だったなあと思いました。玉三郎の阿古屋を見に行って思わぬ発見。

開演前は誰もが阿古屋に従う形の「阿古屋」になるのかなあと本当に思っていましたが、重忠も岩永左衛門も呑まれない演技というのが素晴らしかったです。若手!あくまで阿古屋の詮議の場である、というそれが覆らなかった、そうでありながら阿古屋の美ゆえに、奇跡ゆえに成り立つこの演目の恐ろしさ。

玉三郎を奇蹟と評したのは三島由紀夫でした。三島が見たその瞬間からいまだにその奇蹟が続いている、その素晴らしきと恐ろしきを目の当たりにしました。

あああーまじめにDVDなりブルーレイなりに早くしてくれないかあなあー売れるって!絶対売れるよこれ!

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