予約投稿第三段
ソルキャから神邑を昨年の9月に書いたのですが、サイトの改装が追い付かなくてその他の項目を作ることが出来なかったためにお蔵入りになっていたやつを追記に入れておきます。
ちなみに感想書いたんですがソルキャ自体は昨年の夏ごろから雪灯様の勧めで一気読みして、いろいろハマっています。話の後に前書きを置いておきます。前書きが長かったので前に入れるとちょっとあれだったので。
そういう訳で追記からソルキャの神邑。
Psalmi
その思念の数はいかに多きかな。我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。
(旧約聖書「詩篇」139節より)
「恵、リード買いに行かない」
「いいけど、切らしたの?」
連絡をしておいたから完全防備で玄関先に出てきた恵はいつもと変わらないような気もしたけれど、その声はどこか忙し気に聞こえた。12月、世間は年末かクリスマスだけれど、僕らは受験戦争という難題に向き合っている。……恵はちょっと違うか。行き先が決まれば早いもので、車道側に立った僕と連れ立って歩く従姉妹はマフラーに顔を埋めて、店に着くまで時折話しかけてくるくらいだった。その度、空気に白い恵の吐息が漏れる。季節はすっかり冬だった。彼女は本当はそんなに饒舌じゃない、と僕は思う。だからこれも普通のことだった。
「ちょっとメーカー変えようかと思って」
「はあ!?何年使ってると思ってんのよ!?」
暖房の効いた店内に入って、自動ドアが閉まるのと同時に玄関先で言われたことへの答えを言ってみたら、恵は目をむいてこちらを見上げた。
「うん、冗談」
「あんたがそんな冗談言うはずないじゃない。忍らしくない」
一刀両断されたその冗談はどういうものなんだろう、と。
僕は変わったのだろうか。
彼女は変わったのだろうか。
例えば僕らがリードを変えるように、リードの硬さを、製造元を、輸入元を、変えるように、世界は変わったのだろうか。
「リードを変えると、音がたちまち変わるね」
「……忘れてたわ、そんなこと」
あまりにも長く、僕らは同じリードを使ってきたからだろうか。
あまりにも長く、僕らは同じ世界に生きてきたからだろうか。
「どした?」
「……神峰くんはリード番号とか知ってるっけ」
「なんでここであいつが出てくんのよ!?」
ドスッと真っ赤な恵に肘鉄を喰らわされたけれど、生憎と僕は案外頑丈だからよろめいたりはしなかった。
「3か3半以外で吹いてるとこ聴かせたことないよね、確か」
「関係ないわよ!!あんたは4とか5とか吹くだろうけどあたしは女の子なの!あんまり疲れるの嫌なのよ!」
「吹けたよね、恵も」
「やだよ」
透明な声で恵は言って僕が見ていた棚の前にしゃがんだ。しゃがんで3半を手に取った。
「だってあいつの世界であいつが知らないあたしの音を出したくない」
「ここまで来てまだそんなこと言うの?」
「隠すのとは違うつもり」
そう言って、いつものメーカーの、いつも彼女が使う3半のリードを彼女は蛍光灯にかざすようにして眺めた。
「なんて言うのかなあ、あいつのおかげであたしは失ったものを取り戻した。だからあいつに全力で音を返したい。でも、あいつに嫌われたくない」
「音が変わったら神峰くんは喜ぶだろうけど、絶対嫌ったりしないよ」
「なんて、言うんだろうね。あいつにはさ、気持ちよりも音が伝わるから。『変わりましたね』、『良くなりましたね』、『いつもと違いますね』、『それいいですね』。そいうの全部予想できるけど、全部、イヤ」
でも神峰くんならきっと変わった音も、彼女の心境も見抜いてくれるんじゃないかと僕なんかは思うんだけど、恵は多分そういうことを見抜かれること自体が嫌なんだろうと思った。
「なんていうかさ、負担になりそうな気がするの」
「負担?」
「違うリードで吹くことも出来るけど、新しいあたしの音を見せるのはあいつの負担になりそうだなって。あいつはほら、人の心に何でか敏感だから」
そんなこと、僕は考えたこともなかった。神峰くんが新しい音を手に入れて負担に思うだろうか。そんなことが、あるんだろうか。
「これはあたしの趣味の領域でしょ。本来一番いいパフォーマンスをするのにこの音は選ばないから。だとしたら神峰にこの音とか、あたしの気持ちは負担になるよ」
僕は彼女の言葉に一瞬言葉を失った。そうしてそれから、ああ、と思う。
「恵はやっぱりこういう時には指揮者と演奏者の立場で彼を見ているんだね」
「音楽をやるときは、ね」
「でもそれは少し悲しいな。音楽は僕らの生活でもあるから」
表現の場であると同時にそれが生活の場ならば、どんな思いも音も、あるのが当たり前じゃないか。
*
あいつの生活にってあたしは必要なのかな。
確かにあたしの生活には音楽があふれていて、向上心を失ったってあたしはいつも傍らに音楽を置いていた。いや、生活にあんな極限状態の向上心なんて必要なくて、だからあたしにとっての音楽は多分生活に根差した音を奏でることの方が普通だ。
コンクールや競うことがイヤなんじゃなくて、それは向上心を持てば確かにやろうと思ったことだけれど、やりたかったことだけれど、そうじゃなくて。
あたしには学校生活とか部活動とかそういうもの以前に普通の生活があって、生きている時にあたしの横には音楽があって、それを基盤に競いの場に向上心を持って接するだけのことで。
だから根本的にあたしの生活は音楽で、あたしの世界には音楽がある。
「だけど、神峰の世界とか、生活とかそういうものに音楽はなかったから」
彼は天才だ。
紛れもない天才。あいつ自身に自覚がなくとも、聞く音全てに色があり、聞く音全てを‘音楽’に昇華することを使命に生まれたような存在だ。だからあいつにあたしの生活の音楽を聴かせるのはひどくマイナスだと思った。
音楽なんてなかったまっさらな彼の「音」の世界に「音楽」は生まれた。そうして今、彼の世界には音ではなく音楽が鳴り響いている。その引き金を引いたのはあたしたちだから。だからあたしは余計にその音楽に不必要な音が混じるのを恐れる。
「生活の音楽かあ」
忍は不思議そうに、そうでありながら深く納得したように呟いて硬いリードを取った。
「競うための音楽と、生活の音楽が別にあるのは幸せなことかもしれないし、不幸なことかもしれないね」
そう、あたしの音楽と、あいつの音楽は違うから。
その違いは、例えば不幸を、或いは幸福を、生み出すかもしれないけれど。
*
「刻坂、それなに?ぷ、ぷさ?」
「ん?ああ、聖書だよ。旧約の詩篇だけど」
刻坂の手元の小さな本のタイトルは、英語とは微妙に違う気がして思わずオレはそれを口に出してしまっていた。だけれど上手い発音が思いつかない。
「これ、そのまま読んだら『プサルモイ』だな。……ああ」
ひらりとその本をオレに見せてから刻坂はとても楽しそうに笑った。
「お前にぴったりだな、このタイトルは」
「へ?」
「そうだ、お前も読むといいよ。詩篇を基に作曲をした音楽家は多いんだ。それもあって持ってるんだけど、貸すから」
「え、でも」
「ちょうどいいと思うよ。ほら、今度クリスマスコンサートやるし、やっぱり少しは知識あった方が指揮にもプラスな気がするし。お前こういうの全然だろ」
クリスマスコンサート、と言われてオレはその本を素直に受け取った。
今年のクリスマスはコンサートが開かれる。10月からずれ込んだ先月の定期演奏会のチケットがすぐに売り切れてしまって、そのお詫びまではいかないけれどプチコンサートをクリスマスに、というのがその趣旨だった。そうは言ってもお祭りのようなもので、引退もしたし受験生である三年生の先輩たちは任意参加だったけれど、実質の引退だった定演から、あるいは全国の舞台からの余韻を携えたまま、参加してくれる先輩がほとんだった。1,2年生には今年も同じ時期に天籟ウィンドフェスがあって、だからそのことも考えれば3年生と‘一緒に’演奏できるのはこれが最後かもしれない。
だからこそ、これが本当に最後だとオレは思っているんだ。最後じゃないと思うけれど、今年、このメンバーでの演奏はこれで終わりだ。この先もずっと続いていくというようなことを伊調は言っていて、オレも今は音楽ってそういうものだと思うようになれたけれど、だけれどたくさんの思いを乗り越えて、呑み込んで、向き合ったこの演奏は、このクリスマスが最後だから。
「なあ、刻坂、プサルモイってどういう意味?」
ページをめくる前にふとオレにぴったりという刻坂の言葉を思い出す。
そうしたら彼はやっぱり笑った。
「心を動かすもの」
*
オレは刻坂から借りた詩篇を、家に帰ってからベッドに横になって眺めていた。
少し読んでみたが中身はあんまりにも難解で、ていうか聖書とか読んだことないオレにとっては猫に小判とかそういう類のものなんだろうとオレはここに至って理解した。
「や、でもそれじゃ駄目なんだよな」
パラパラと頭上でそれをめくりながら呟く。
詩篇、と言われればオレにも思い当たる節があった。
オレがピアノの運指練習をしている間、邑楽先輩が読んでいた本だ。運指練習といったって隣で邑楽先輩が見ていてくれなくたってできる範囲で、要は手を温めて本格的な練習に備えることだったから、邑楽先輩が本を読んでいたのを横目に見ながらオレはその練習をしていたのだった。
『あの、それ難しそうな本スね』
『これ?難しいっていうか、マイナーっていう感じね。音楽史だから』
音楽史、と言われてオレはひるんだ。今に至ってもそういった面ではどうしたってオレは音楽初心者で、専門的な知識はないから、そういう歴史的な重みのある物には引け目を感じてしまう。今の音楽を、演奏を楽しもうと思う一方でそういう思いがまだあるのがなんだか気恥ずかしくも悔しくもあった。
『久しぶりに本棚から出したの。来週、ほら試験だから』
そう言って邑楽先輩はパラパラと数頁をめくって見せてくれた。その時、詩篇曲という、曲のジャンルなのか題名なのかオレには不明なページの文字が見えて、頭に残った。
それが先月のことで、さすがのオレでもそれはまだ覚えていた。
「音楽史、か」
ぽつりと呟く。
邑楽先輩は、全国大会が終わったあとで音大に行く選択をした。もちろん前々から声が掛かっていたのもあるし、それは当然のことだと思うけれど、谺先生も他の先輩たちも、あるいは後輩たちもみんなその選択に驚いていた。彼女は普通の大学に行って、サークルで音楽を続けて、どこかの商社あたりに如才なく入って、余暇を地域の楽団で過ごす。音羽先輩の未来のビジョンに似ていなくもないけれど、そんな未来が彼女にはあるような気が、みんなしていたのだと思う。
だけど、オレと御器谷先輩にとっては邑楽先輩が音楽の道を進み続けるのは不思議なことではなかった。
先輩の挫折と苦悩、そして諦めと再起をずっと間近で見てきた御器谷先輩にとってそれはとても嬉しいことで、同時に当然のことに思えたと思う。
そしてオレにとっては。
オレには無窮の空に向かって歩き始めた邑楽先輩の心が歩みを止めることなどないだろうということが分かっていた。
彼女の世界には膨大な音楽があった。その一端をいつか切り落としてしまったけれど、それを拾い上げることが出来たのなら、それがオレの傲りでないのなら、ひどく嬉しい。
「駄目だ」
そう思って一瞬緩んだ唇をオレは縫い止めるように手で拭った。もう片方の手が支える詩篇がかさりと乾いた音を立てる。
駄目だ。
これはオレの一番駄目で、一番脆い部分。
人の心がオレには見える。見えるから、一番関わりたくない心。それはオレ自身の心の時に一番に発揮される。
「迷惑、だから、こういうの」
気付いてしまった。気付いてしまったのに、オレは必死に蓋をしようとしている。今までもたくさん見てきた。自分以外の、こういう気持ち。もう相手の思いは傾いていないのに必死になる誰かに、それを見て傷つく誰かに、ふと助言しようとしたことが何度もある。まるで悪魔のささやきだ。
『その人、あんたに興味ないよ』
たった一言。たったこれだけの一言をオレは容易く心の裡に浮かび上がらせることが出来た。何度も何度も。口にしなかったのは深入りしたくないから、というだけで、そう思うこと自体がどれだけ恐ろしいことかオレは分かっていなかった。
「怖いな」
オレは邑楽先輩が好きだ。
だからすべては仮初。
無窮の空に彼女が踏み出すことが嬉しい?
違う。
本質は彼女が音楽を止めなければ、もっと言うなら彼女が音楽を生業とする道に進むのなら、オレはあの人のそばにいられるというそれしかない。
醜い。なんて醜い感情。
もっと純粋に祝福すべきだった。
あの全国大会で先輩が向けられたあの好意と同じものが自分の中にあるなんて思いたくなかった。
汚れてしまう。あの人の純粋で真っ直ぐな音の世界が汚れてしまう。
気が付いたのは全国大会が終わってからだった。切迫した音楽の競い合いから解放され、虹の音に辿り着いたそのあとに、あの人が音大に進むと聞いて、オレは言い知れぬ歓びに心が満たされるのを知った。
おかしいと思った。
こんなの違う、違う。
こんなの駄目だ。
「『主よ、汝は我を探り我を知り給えり。』」
読み上げた一節にオレは口の端を歪めてしまった。
ああ、そうだとも。オレは一種の全能感に囚われていたのかもしれない。
「人の心なんて理解できなければ良かった」
こんな葛藤からはもう脱していたんだと思っていた。
音楽が、音が、そんな葛藤からオレを抜け出させてくれたはずだった。
だけれどそれがひとたび自分の身に起これば、自分自身にふりかかれば、オレはオレ自身を知り尽くしてなどいないし、オレはあの人を知り尽くしたいとも思わなかった。
何故か?
そんなのは簡単だ。心は簡単に裏切られる。オレは人の心を知る以上にその最も単純な‘事実’の方を深く深く知っていた。
だからオレはオレ自身の気持ちに蓋をした。
だから蓋をしたオレにとって邑楽先輩が音楽の道に進むのは嬉しいことだった。
「微温湯みたいな関係を、続けられると思ったんだよ」
演奏者と指揮者として、これから先も音楽を通して心を通わせることが出来ると思っている。それが最善の道で、それが互いに傷つくことも傷付けることもない道だと思っている。
本当は、自分の気持ちを素直に伝えて一対一で向かい合いたい。
音楽は確かに心を伝えてくれるけれど、言葉にしなければ伝わらない心だってある。
そんなこと、オレは人の何倍も知っているけれど、だけれどそのプロセスを放り投げて、音楽という最もオレたちに馴染んだ方策で繋がれるならそれでいいと思った。
「馬鹿だな、オレは」
知っているんだ。
あの人の気持ち。
そういう思いを自分が持ったら見えてしまったんだ。
だけど。
「邑楽先輩は、それでもオレと対等に演奏者として向かい合おうとしてくれるから」
声が震えた。
ああ、オレはあなたの心を見透かすがゆえに、あなたの心を探りつくすゆえに、あなたの心を知り尽くすゆえに、あなたから逃げようとする。
自分自身から、逃げようとする。
「『その思念の数はいかに多きかな。我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。』」
オレたちは神様じゃないけれど、あなたの心も、オレの心も一つじゃない。見せていたい心と、見せたくない心がある。共にありたい姿と、そうでない姿がある。
その全部を、オレは見てしまうから。
だから、あなたの葛藤を見るたびにオレは自分自身の汚さに震えるんだ。
正面から向き合おうとするあなたに対してオレは、いつも逃げるように紆余と曲折でもって逃げようとする。
それすら受け止めると言うことが、もしも出来たなら。
「あした…邑楽先輩と練習だ」
怖いな、とても。
あなたを好きになってしまったがために、オレはあなたを恐れてしまう。
*
「『その思念の数はいかに多きかな。我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。』か…あいつそのものだな」
「は?」
「あ、すみません」
思わず呟いたそれに反応したのは邑楽先輩だった。金工室で神峰にピアノの練習をさせることになっていた邑楽先輩と僕は、神峰を待っているところだった。大方、部室かどこかでどこかのパートにでも捕まっているんだろう。最近の‘いつも’と違うのは邑楽先輩が来てくれることだったから、出来れば早く来てほしかったけれど。
「何かの詩?」
「詩篇ですよ。昨日神峰に貸したんです」
「詩篇なんてアイツ読めるのかしら?」
心底不思議そうに眉根を寄せた邑楽先輩に僕は苦笑で返した。そう言われてみれば、そうかもしれない。
「でもまあ、クリスマスも近いので。邑楽先輩は出てくださるんでしたよね」
「あー…うん」
歯切れ悪く応じた先輩に僕は少し不思議になってその顔を覗き込んだ。
「見るな見るな!」
「珍しいですね、いや、珍しくもないか。神峰のことだと邑楽先輩って分かりやすいですよね」
覗き込むや否や真っ赤になった邑楽先輩をからかうつもりで言ったら彼女はひどく動揺したように楽譜で顔を隠した。
「先輩はもう大学は決まってましたよね」
「音大。声、掛かって。でも試験がさ、やっぱりピアノ弾けると違うね」
少し楽って意味で、と呟くように先輩は続けた。多分それもあって先輩は神峰のピアノの練習にこうして今も定期的に付き合ってくれるのだろう。
吹越先輩と、金井渕先輩と、それから邑楽先輩の3人が音大に行くと聞いた。一つの高校の部活から3人というのは大収穫だが、同時にたった3人というそれがひどく重い。指導者としての道や、その後音楽を続けないとしても、音楽大学に入れる人間はこんなにも少ない。音楽の門はあまりに狭い。
「『狭き門より入れ。滅びに至る門は大きくその路は広く、これより入る者多し。いのちに至る門は狭く、その路は細く、これを見出す者なし』これも聖書ね。新約だけれど」
楽譜を静かに下ろして先輩は言った。その声はどこか硬質だった。
「神峰の入る門はいつも狭い。だけれどあいつはその狭い門を笑顔でくぐれるようになった」
「そうですね」
聖書の意味とは違うその同じようなことを考えていた自分たちは、やはり音楽に魅入られていると僕は思う。あるいは、神峰翔太という音楽に愛された男に魅入られている、と。
「あたしは、もし神峰に出会わなかったら滅びに至る門の前で楽しく音楽を奏でて、楽しく人々をその門に導いたと思うわ。そうしてあたし自身もその門をくぐるの。滅びに至ると知りながらね」
「……僕もですよ」
小さく返したら、先輩はふと微笑んだ。冷たくもあり、硬くもあり、同時に柔らかくも、あたたかくもある複雑な笑みだった。
「すごく馬鹿馬鹿しいんだけどさ、あたし音大に進むのにまだ躊躇ってるの。神峰は天才で、もうすごい指揮者になると思う。プロになる。その隣に居たい、先に進みたいって思うのに、それとは別のところであたしとあいつの音楽は違うって思ってる」
ああ、邑楽先輩の言いたいことが分かる。
階層は、段階は、純度は違うかもしれない。違うかもしれないけれど、僕たちは皆思う。彼と共に演奏をすることを辞めればそれはより一層深くなるだろう。
彼の才能に僕たちは追いつけない、と。
「でもそれでいいのかな?なんかね、研鑽しても、頑張っても、神峰には追いつけない気がしてしまうの。こんなので、いいのかな」
「『その思念の数はいかに多きかな。我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。』」
答えになっていない言葉を返したら、先輩は驚いたように顔を上げた。
「あいつは、そんな砂粒みたいな思いさえ数えて、数えて、寄り添おうとするんだね」
僕の言葉を正確に読み取って、先輩は笑った。笑いながら、泣いていた。
*
「すいません!遅れました!ちょっと弦野たちに捕まっちゃって」
「神峰、今日はピアノの練習の代わりにあたしの聴いて」
あたしはまだ泣いていた。ボロボロ涙を零したまま神峰を見てそう言った。神峰はひどく驚いたようだった。そうだというのに、彼は何度か瞬いてそうしたらいつものように表情を引き締めた。
ねえ、どうして分かるの?
あたしがこんなにも泣いているのに、心がこんなにも凪いでいることがどうして分かるの?
ねえ、私の思いはあんたが寄り添ってきた思いの一つでしかないのかもしれないけれど、その数はもう数えきれないだろうけれど。
「あたしは、あんたを裏切らないわ」
数えきれないその音の一つかもしれない。
数えきれないその心の一つかもしれない。
「だから、もう一つだけあたしの音をあんたにあげる」
あたしの生活には音楽があった。
あたしの世界は音楽だった。
ああ、その門より続く道は狭く、苦しく、辛く、険しい。
だけれどあたしの世界の音楽が、あなたの世界にひびく時、その音は幸福になるだろう。
幸福になればいい。
「なんて独りよがりで、なんて傲慢な願いだろうとあなたは思うかもしれないけれど」
*
聴いたことのない音で邑楽先輩は泣きながら短い曲を吹いてくれた。
歓びの歌はいつかオレが片手でも練習できるようにと譜面をもらったから覚えている。
硬く、澄み切った音は彼女によく似合っていたけれど、今までオレはこんな音を知らなくて、だから楽しくて、悔しかった。
言いたいことが分かってしまった。
例えばオレがこの音を聴いたら、今まで知らなかった先輩の音を聴いたら、オレがどう思うか、邑楽先輩は必死に考えていたんだ。
そんなことも預けられないのがオレなのかと思う一方で、これがどんなに深いことなのか、今の自分なら分かる気がした。
オレは人の心が見えるけれど、心を動かすことは出来なかった
心を動かすことが出来たのは演奏者であるみんなだった。
そう、思っていたけれど、オレ自身も人の心を動かせるのだと知った。
そうして今、オレはもう何度目か知れないそのことを‘知った’。
オレも、みんなも、どちらも人の心を動かすものなのだと、知った。
このことを知るのは、何百回でも何千回でも足りるということがないと思う。
その道は果てしなく、その道は険しく、しかしその道は歓びと幸福に満ちている。
「新しい音を、オレにくれるんスね、邑楽先輩」
「全部、あげる」
微笑んだ彼女を静かに見つめた。
「あたし、まだ迷ってた。この音があんたにどんな影響を与えるか、この音があんたに相応しくないんじゃないか。でもあたしは全国のあの日から…うん、もっと前から、だね。あんたの傍にいたい。だからこの音も、いつもの音も、神峰にあげる」
何故、と問うことは愚かなことだろう。この道はとても狭い。
「あたしは音楽を愛している。生活を愛しいてる。世界を愛している。それと同じくらい、あなたを愛している」
形無しだ。こんなこと、言わせるなんて。
人の心を見ることが出来るなんて、出来たって、見たくないものは見ないんだ。
見えたって、見なかったことにするんだ。
怖いなら、ふたをするんだ。
それは、多分オレだけじゃないから、今ここでこの思いを告げてくれた先輩への思いを隠すことはもう俺にもできない。
抱きしめたその人の心を動かせたことを、オレは幸福だと思うから。
*
「今になっても思うんだけど、結局邑楽先輩が告白したんだよな。ヘタレすぎてお前どうかと思うよ。だってお前、何だかんだはぐらかしてた割に邑楽先輩好きだったよね。ヘタレだな」
「うっせーな!ていうかクリスマスの度にその話すんなよ!!何年前の話なんだよ!!」
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雪灯様に乗っけられて神邑書いてしまったというあれ。
ほんとはもっと馬鹿みたいに話が複雑化してたんですがあまりにも邑楽先輩の悩みが深くなりそうだったのでバッサリカット。その結果この伝わるか伝わらないか微妙なあれですね。邑楽先輩の進路云々は完全な捏造っていうかこうなったらいいのにな、くらいのぼんやりしたものです。
たまたまソルキャ読んでたときくらいに旧約聖書というか正確には死海文書というかそういうものを読んでいたので(どんなだ)、たまたま思い出したように詩篇も読んでしまっていて、ギリシャ語の詩篇「Psalmi」の意味の「心を動かすもの」と、あと詩篇で個人的に好きな139節の一文「その思念の数はいかに多きかな。我これを算えんとすれどもその数は沙よりも多し。」これが本当にとてもとても神峰くんだなあと思っていたのでそこ周辺を拾いつつそんな感じで。
でも実は139節は言及する3人が3人とも解釈が違っているというアレなんですよ。ちなみに宗教的解釈は誰もしていませんし作中でもしていません。解釈が違うのに同じ部分を見ているという前提で話しているといういろいろとアレな状況なことに3人とも気付いていない、互いに「かかる知識はいとくすしくして我にすぐ、また高くして及ぶこと能わず」状態なんだけどあれですね、寸でのところで完全なる衝突を回避してるよね(他人事感)。心を動かすトリガーが違うのは当然だけど。人は前提を持って生きているセカンド。全員違うのだけれど全員そのことを承知の上or気づいていない。
いっそ聖徳セレナーデ。そんな感じで「いっそ セレナーデ」とか「OPERATICA」とかですかね。でもイメージに一番近いのは「ロマン」かなあと思ったりして。あんまり吹奏楽の曲でこれ!ってできないのでこんな感じです。オペラティカはたまたま聴いていたというあれですね。あと邑楽先輩は「シルエットロマンス」みたいなだと思うのでそんな感じですが曲がいちいち古いのはカバーアルバム聴いてたからだ仕方ないのだと思ってください。
あと阿近さん関連の話を書いている時ばりに文章が回りくどいのは途中から昔のラノベを読み始めちゃったからなんですよね(されどなんちゃらはなんちゃらと踊るライトノベルの移籍前のやつ)。アニメ化とか狂気しか感じないのですがそれは…。ちょっとした狂気を感じるんですが。どこをアニメ化するんだってばよ…どのエピソードでも等しくR18Gにすべきというか普通にライン下げまくってもR15だろ…深夜でも駄目だろ…1巻を引き延ばすのか…?個人的にはアナピア編のラストのガユスとジヴが別れるシーンを美しく書いてほしいですがそこに至るまでがひどすぎてアニメ化というか映像化とか狂気の沙汰だと思います(直球ストレート)。映像化しにくいとかそういう以前にエログロあり得んよ(本当にな)。ていうか上に書いたけどあれも小説ならではの美しさなんだよなあああ!!と改めて思いました。これを仮にセリフとして全部読み上げたらガユスさんがただの超絶アホになるからね、仕方ないね。