死海文書がどうとか突然母が言い出したのですが、え、なにこわいと思ったけどこのサイトというかこのブログには死海文書を読みながら書いた話が一話あるんだよなあとぼんやり思いました。これはひどい。
先週の金曜くらいから、暑かったからだと思うんですけども持病のいろいろが併発してずっと寝ていました。数値が下がると人ってこんなに眠れるんだあ(12hくらい眠っていた≒気を失っていたので)と言ったら雪灯様からは「たぶん片頭痛とか併発してただけで数値の低下が全てではないと思うよ」と冷静なお言葉をいただきました。なんか秋とかにまた入院するらしいので(主治医の先生にすべてまかせているのでいろいろうろ覚え)、いのちだいじにとかなんとかでずっと寝ていたのですが、この暑い中寝ていてずっと考えていたのが幹式(空の境界)と歩ひよ(スパイラル)ってたぶん根底が同じというかそういう部分があるよなあという妄言みたいなことでした。(実際にはそれぞれのCPについて暑苦しく語っているだけなんですけども!)
わりとどちらも最終話までのネタバレをバリバリ含むのと個人の主観が盛大に反映されているので追記に入れておきます。最終話っていうけどさ…どちらも何年前だと思ってんの…というところも含めて暑さで頭が沸いていたとしか思えない。
幹式と歩ひよの共通点をなぜか探してしまって、そこからいろいろと思考の深淵に落ちつつあったのですが、ここの二つの共通点って「恋することはできないが愛することはできる」っていう普通のCPの王道の逆を行くことなんじゃないかな、と思ったんですよ。普通、恋から愛への変遷とか、恋していたけど愛ではなかったとかいろいろこの恋と愛に区別をつける時って愛の方が比重が重いような気がしないでもないのですが、ここは「恋」することができないという結果愛することになるというなんかこう、逆説的なものを感じるんですよ。(言ってることがめちゃくちゃな自覚はある緋雨さん)(暑いですね)
幹式は「黒桐幹也は’両儀式’に恋をしたが、その恋は実るはずがなく、黒桐は式と識と両儀式を愛することしかできなかった」
歩ひよは「鳴海歩は結崎ひよのに恋をしたが、その恋は実るはずがなく、歩はひよのを愛することしかできなかった」
ってことじゃないのこれって私が高確率で陥る沼なんじゃないのとわりと本気で考えています。すごく今更ですが、歩ひよは私の男女CPにおける原点というか、こういう関係であってほしいとキャラの関係性に本気ではまったたぶん初めての二人です。いや、もっとあるんだけども、あきひとかあるんだけども、そういう漫画を同人的な目線で見たのは多分ひよのさんの偽りの献身が本当の本当に最初で、これたぶん今まで書いたことないよねって今ログ漁るのもなんなのでとりあえず告白しますが(ひでぇ)、歩君とあんた(名前を知らない結崎ひよのと名乗る女性)の関係というか、もっとさかのぼると失血死寸前まで腕を切ったときとか、あの時まだ読者は知らないんですよ。でもひよのさんは可能性を信じて(半分嘘)(清隆さんに言われて)やっただけで、歩君は名前を知らないまどかさんと同じでいつか兄貴に取り上げられる信頼だって分かっていて互いを最良の相手としていた二人が本当に好きで、好きすぎてもうほとんどすべての性癖の発端です。
そんなカミングアウトを織り交ぜつつ。
よく、FGOで剣式さんがマスターのためなら世界を作り変えられるのはコクトーに振られたからって聞くのですが、逆だと思うんだよなあと。便宜上剣式さんと呼んでいますが、恋に破れたのは黒桐君の方なんだと思うんですよ。「両儀式」に恋をして、雪の降る夜にそれはでも叶わなくて、でも叶わない最大の理由が黒桐幹也は両儀「しき」を愛しているからだと思うんですよ。この逆転的な感じだと思うんだ。さっきから思うしか言ってないめんどーなオタクですみません。
式が世界の何よりも大切で、ともすれば自分自身よりも大切で、式の語った殺人について式がそれを犯したなら式を一生許さないという形で自分もその罪を背負おうとして。本当にあの「君を一生許さない」はつまるところは「僕も一生その罪を負う」宣言だと思うんですよね。愛が重すぎてすごいけども、そのぐらい深く「両儀式」と「両儀識」と「’両儀式’」を愛してしまった幹也には、もう根源という’両儀式’の誘いには乗れないんだと思うんです。本当に思うしか言ってないな。だって根源に行ってもそこには「式」も「識」も「両儀式」もいないから。じゃああなたには根源接続の機会をあげませんと振られてしまったのはコクトーの方だと思うんだよぉぉぉ!
とずっとFGOやりはじめてから思っていたわけですが、そこまで深く考えてしまうのってなに、って思った時にその類似性というか、正確には類似していないのですが、「恋することはできないが愛することはできる」というのの個人的な源流って歩ひよなんだよなあ、と。
自己肯定感ゼロっていうか、「あんた」ことひよのさんはまどかさんと同じで、いつか兄に奪われるものっていう確信があって日々を過ごしていた歩君にとって、ひよのさんという奪われるためにいる存在に恋することはできないけれど、その存在を愛することはできる(というか結果的に愛することが’できた’)のがスパイラルのラストだと思うんです。幹式より業が深いというか、ここの問題点は歩君は「自分以外」全員を「愛している」中で最後の最後の死ぬ間際に「一人だけ特別を作ってもいいかな」程度のことなんだよなあというところです。しかもそのたった一日にも満たない、もしかしたら明日死ぬかもしれない、だけれど「本当に特別を作っていいのか本当は俺は知らないしたぶんダメだけど最後だから」みたいな一世一代の賭けがそれみたいなね。本当に、君は、君は…。自己肯定感ゼロの歩君をひよのさんとブレチルを使っていい具合に持って行って自分を殺させるっていう清隆さんの企みは、けっこう歩君のカッコイイていうか、主人公的な「決意」によって覆されたみたいになっていますが、あれってさぁ…。歩君は清隆さんを殺していたほうがずっと幸せだったんだよって。清隆さんはヤイバ殺害からのブレチル計画からの壮大な自殺計画の一連の流れで歩も自分も救われる未来を目指したけれど、本当の本当に彼の行いは結局のところ歩君の『「自分以外のすべてを愛する(兄含む)」が「愛する中に決して自分だけは含まれない」』という最悪の自己否定を生み出しただけなんですよね。自分の自己否定によって救われる人がいるなら自分など必要ないではないかというレベルまで自己を否定すればいい、という「清隆に奪われるための存在」がウルトラ進化してしまった結果が「自分以外のすべてを愛する」なんじゃないかな…と。
その限界の中で、歩君はまどかさんに恋したように「あんた」にもたぶん恋をしたと思うんですよ。でも恋という感情は必ず兄に奪われるためにあるから、なんというか、自分に都合のいい存在である以上、もしくは自分が好きになる存在である以上奪われる前提だって知っていたから(ピアノその他趣味と同じ)、だからこその「あんた」なんですよね。個人認識しないのは名前を知らないからっていうだけじゃなくて、個人認識してしまったら後に引けないからなんだろうなと思うんです。
だからその恋は絶対に叶うことはなくて、でも彼はそれを知っていたから絶望しなかったというか、折れかけていましたがその実は「絶望のしようがない事実をもう一度突き付けられたこと」に対して折れかけていただけで、ひよのさんの存在を奪われたことに対して絶望していたわけでは決してないと思うんですよ。だって「あんた」が「あんた」である限りそれは神様に奪われるためにあるから、絶望したってしょうがないからね(こう書くと悲惨すぎる)。
「自分の未来は自分で決める」という提言(鳴海歩という未来を自分で決められないしそもそも未来なんてない自己否定すら許されない青年からの提言)という絶望的な提言によって世界が救われた(あるいは未来に救われることを期待して少なくとも歩が死ぬことが希望になる)という世界における最後の最期にその「あんた」が病室にやってきて、希望も何もない片手でしか紡げない音楽が「鳴海歩」にとっての最初で最後のオリジナルの愛なんだろうなと。
「あんたに恋していたけども、本当は愛することしかできなかった」という告白があの死の直前に紡いだ「孤独の中の神の祝福」なんだと思うんです。本当に、造物主も神も「歩が死ぬこと」をひたすらに望んでいたけれど、彼にとっての「孤独の中の神」であり「祝福」そのものが「あんた」というかひよのさんなんだよぉぉぉと思うと悲惨すぎて好き。だめ。好きってなります。
すみません、なんか類似性とか言いながら歩ひよの話しかしてなくてすみません。ほんと…スパイラルの絶望具合はほんと素晴らしいので…皆さん読んで…絶望して…そして「孤独の中の神の祝福」を感じて…
全然関係なくもないですが本当に山奥に住んでいたので(いつか最遊記のときも言いましたが)アニメチャンネルなぞ映らなかったからオール原作派なのですが、清隆さんの声を井上さんがやってたと言われるとフフッて変な笑いが出ますね。