歌のお姉さん・肉じゃがの日

斎永♀現パロのうたのおねえさんパロ「テレビ」という連載書いてたんですけども(唐突によく分からんことを言い出すのはここの管理人にはよくある話)、それ自体は完結していて、https://privatter.me/page/665bfa88642a3

ここのぷらいべったープラスの「テレビ」という連載で全体は読めるんですが、(以前書いたXを削除した事情の関係でフォロー限定公開ですが、X登録等の制限はないので簡単に読めると思いますー、ご興味ある方はよろしくお願いします。)その完結後のおまけを書いて追記に入れました。
肉じゃが作って斎永の二人が食べる話なんですが、お世話になっているかなもちさんに肉じゃがの作り方を教えてくれるキラッキラのテレビ画面の向こうのお姉さん永さんとすっごい目をした中学生の斎藤君のイラストをいただいてからこの二人の料理というと肉じゃがになってしまって……ありがとうございます。イラストの掲載許可も頂いたので(本当にいつもありがとうございます!)、サイトの方に早く再録したい! という思いもあってぷらいべったーではなくこっちに置きました。こちらの追記だと小説ベタ打ちでも段落や空白の調整のHTMLタグを打つ必要があるので練習も込めて。

芹沢さん出したかったのと、傷の話もしたかったのと、シンパチお姉さんがワガママ言い出したらちょっと萌えるなと思ったけども、フジタさんにとっては致命傷レベルの萌えなんだと思います。良かったね。

そんな話が追記に入っています。

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オルタ斎藤×沖田さん

書いた。サイトのHTML弄るのが楽とか言いましたね、アレは嘘です!いや、本当に嘘でした。やっぱり構文の繰り返しの文字列見ていると段々気が遠くなってきまして、面倒だな、と思って止めました。根性がなくてすみません……。薬が変わったり、病院での点滴とかの投薬が変わったりの目に見える効果が出るまで2,3カ月かかるそうなので、それまでちょっと待ってくださいね。

誰だHTML構文楽そうだから今年サイト改装するとか言ったの。私だよ……

ということで、オルタ斎藤さん×沖田さんの現パロ、Xでつらつら書いていたものをまとめたやつを追記に入れておきます。増やしたりリライトしたりしていますが、WPに置くからそういう話はないですよ。
オルタ斎藤さんは池澤先生のあのポニテのやべぇお兄さんなんですが、そのお兄さんと沖田さんという組み合わせでお世話になっている妹子さんという方が(豊臣と石田三成強火の方。とても戦国時代と織豊期に詳しい博学な方でいろいろ教えてもらってる)オル斎×沖というのを書いていらして、栄養価高ぇ……うめぇうめぇ……と言いながら書いたもののまとめです。そう、つまりこれは三次創作です。ありがとうございます。いのちらすかる(怪文書)。

ポンデリングの話は斎藤さん(本物)があまりにも邪悪に笑うので一旦お蔵入りにしました。なぜオル斎をこんなに煽るのか。ひどい。
関係ないけどポンデリングとかフレンチクルーラーってカロリーヤバそうだけど、オールドファッションより美味しいのは(私の主観です)、結局カロリーは美味しさなんですよ。

そういう訳で追記からオル斎沖です。

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永倉新八・川中島24時置き場を作りました

タイトルのままというか、永倉さん関連の小説が多すぎる&イマジナリー永倉さんのページがある&委託通販をお願いしている最中のため、とりあえずですが永倉さん関連のなかで、永斎と斎永の特に通販に関連しているものを重点的に集めたページを作りました。
それで突貫工事で作ったので、通販ページのリンクは間違いなく作ったのですが、まだ小説本体のページはリンクが切れていると思います。申し訳ありません。あと階層の点検をしていないので、他のページから飛んだ時にリンク切れ起こしていたら、ウエーブボックスやブログ拍手からお知らせください。修正します。安定の他力本願ですみません。

通販関連ということで
永斎→「亡羊」「首を絞めて息を止めて」「雨の日」関連と通販ページ

斎永→「白たぬき捕獲計画書」関連と通販ページ

をざっくり作りました。ただ小説のリンクはちょっとまだHTML書いてないので待ってください。すみません……。

文字認識がどうこう言っていましたが、なんていうか、思った以上に構文の方が楽で仕方なくて、多分画面を動作確認で都度切り替えるタイプだから負荷がそこまで掛からないのだと思います。これなら今年サイト改装出来るんじゃないかなあ!

料理

作り置きの週末

ズッキーニとトマト炒めたやつ。たぶんパスタソースになった

にんじんの和え物。レンジしか使わないから火を使わないけど包丁は使うという。

炒り豆腐。白出汁がなかったから適当に出汁とって入れてみたけど味には問題なし
蒸し鶏の中華和え。鶏肉を鍋に入れて1時間放置するのが大変楽で好きです。

春雨の中華サラダ。作り置きの時に中華風の味付けにすることが多いんですが、単純にごま油とごまを入れておけば美味しくなると私が思っているからです(謎の確信)。

読書

読んだものの感想

「十二国記」小野不由美:著(新潮文庫)
「月の影 影の海」下巻
何回読んでもいいよねっていうか、下巻が楽俊との出会いのあたりからなんですけども、警戒心というか、この鼠は、から始まって、旅を始めて鞘を斬って、楽俊と雁で再会して。あまりにも長い旅だし、陽子の成長と一言で言えるけども、だってさぁ……異国で、そうだよなぁ……楽俊も言うけどもそういうんじゃないっていう体験をでもそうだ、と飲み込んで、そうだから「私は至らない」とはっきり言えるからこそ、尚隆だって王の器だと思える、嘘偽りやそそのかすわけではなく、それを具えている、自分のことを分かっていると言えるし、景麒だって「ずいぶん変わった」と再会した時に言うんじゃん。そうだと思う、陽子は変わった。旅の中で学んだ。だけれどそれは生来持ち合わせたものだと尚隆は言った。それを引き出したのは旅であり、裏切りであり、戦いであり、楽俊の純粋な優しさだったという。成長とかそういうレベル超えてるよね、すごく好きです。
そうしてこの年代の作家さんには小野不由美さんも村上春樹さんも高橋源一郎さんもだけれども安保闘争の傷がはっきりと刻まれているんだなというのが、そうだな、屍鬼を読んでも感じますが、もちろん1Q84 はもろにそうだし、なんていうか、目を背けたいけれどもそれを論じないで話を進めることは出来ないから話の中に入れておくけれど、それを論じること自体がタブー、というような忌々しさとどこかしらの神聖視の二律背反に似た何かを抱えているのかな、と感じるように思います。

「図南の翼」
これも何回も書いているから端折るけども珠晶にとって「私は必要」という人物が何人も到来する物語でもあるし、その運気に巻き込まれた、と最後に利広は言うけれど、そうして「天神、麒麟まで巻き込んでおいていまさら何を言う」と頑丘も言うけれど、頑丘も、利広も、更夜も、供麒も、みんなその王になるという珠晶の運気に巻き込まれ、引き寄せられながら、利広が言う通り一人一人がその珠晶の「王であるか、王とは何か」というものを試した。「もちろん私は試したんだよ」という利広の一言がすべてで、彼女は王になるために臣下の理であり、与えらえる者の理を踏み越えられるのか、そうして本当に「王」なのか、全員から試され続けたという話なんだよなあ……

「コモンの再生」内田樹:著(文春文庫)

形式的には対談というか、雑誌の編集長からの時事ネタの質問に内田樹が答えたものをまとめたもの。時事ネタ、政治経済、読書まで広く扱い、また著者が言っている通り、雑誌掲載時から抜粋などを行っていないため、5年ほど前のことであったりしても再録されている。

個人的に感じたこと。
タイトルの通り、「これから資本主義が破綻した時に、コモン、コミュニズム、コミューンを形成することが必要になるのではないか?」という問いかけを大きく感じた。
コモン、コミューンは共産主義というよりはマルクスの考えた包括的な社会のこと。そもそもコモン・コミューンという用語自体が資本主義・共産主義等の近代の用語ではなく、古代からヨーロッパ等で用いられてきた「共同体の共有地」である。
著者が以前から主張している通り、緩やかで包括的な共同体の再生、中央集権主義、資本主義の終焉、アンチグローバリズムは現在進行形で進んでおり、特に資本主義経済はほとんど限界を迎えている、という論調が各所に感じられた。
マルクス主義、構造主義の研究者でもある著者の考えとして、共産主義はマルクス主義とは異なるものであり、そこの部分も。
別著作からの引用であり、同時にこの本の中にもあるが、マルクス主義はブルジョアであるマルクスがプロレタリアを解放することを目的としていた。
それは「私たちは彼らから奪ったものを返さなければならない」という「奪ったものを返せ」「○○(自由・平和・平等)を与えろ」という図式とはそもそも異なる。
富の分配とも違い、惻隠の情と著者は表現するが、疚しさのようなものから端を発している、と著者は考えている。

そうなった時に、マルクス主義とも違うけれども一方的に主張し求めるだけではなくて、最初は個々人の持ち出しであり、コモン(共有地)であり、共同体である小さな部分を作成していく必要があるのではないか、というもの。
そこに必要なのは、礼節であり、寛容であり、ある程度の規律は自分たちで決めるというじゅうぶんな知性である。

「東京奇譚集」村上春樹:著(新潮文庫)

大好きな短編集。読むたびに違うものごとが見える気がして、何か読みたいと思った時にはよく手に取る。
一編ずつ
「偶然の旅人」
作品の前に村上春樹自身が体験した『不思議な出来事』を語る部分。実際にあったことだろうが、同時にそれは『そこまで重要な出来事ではない』と著者自身が語っている。人生に大きな影響を与える『奇妙な出来事』が題材の作品集の前書きとして、著者自身に起こったアメリカでのジャズの偶然と、著者の知り合いに起こった(こちらが主題)不思議な出来事が語られる。
ゲイのピアノ調律師の話は、本当に偶然が重なった結果として彼が自分の人生の大切な部分を取り戻す話でもあり、とても好き。そこまで深刻なことではなく、ジャズの神様、ゲイの神様と村上は言うけれど、著者自身にあったジャズのことも、調律師の男性にあったことも、人生の中で重要な転機であったのだろうと思う。

「ハナレイ・ベイ」
何度か語ったことがあるので少し違うこと。
何度も語ってはいるけれど、村上春樹の作品でこの「ハナレイ・ベイ」よりも美しい文体の作品はないと思う、と思うくらいに好き。するすると頭に入って来るし、何よりも文章の流れが、センテンスが軽妙で美しい。
ということは今までも何度か書いたので、中身。
何度読んでも違う側面があると感じるが、とても印象的なシーンとして「アメリカン・エキスプレスで火葬の代金を支払っている」ということにサチが奇妙な非現実感を抱くシーン。クレジットカードで、自分自身の息子の火葬代を、息子を骨にして持ち帰るために。その非現実性と、それを理解する、息子の死を受け入れるためには時間が必要だ、とサチは思ってハナレイに行くのだけれど、その前に日系の警官サカタに「争いや憎しみの中ではなく、自然の循環の中で死んだのだ」と言われる。それは結果的にそのハナレイで息子の死について考え続ける毎年の3週間を10年以上続けた結果として、回想されたのだと思った。二人の若いサーファーが息子の幽霊に会った、ということ、どうして私の前には現れないのとサチが思うこと、それはそうなのだけれど、それ以上にその前のシーンだと思う。
元海兵隊の男がサチにピアノを弾けと言う。英語が分からない二人の若者はただその突っかかってきた男と、ピアノは弾かないと断るサチを見ていたが、その男は「日本人はどうして自分たちの国のために戦わない、イワクニでは」という台詞を言う。ここが全てだと思った。「イワクニ」は間違いようもなく岩国基地のことだろう。そうして「日本人はどうして自国のために戦わず、米軍に頼り、そうして安穏と過ごすのか」という深い傷口のようなものが晒される。
それは日本が「敗戦国だから」。ある意味で米軍基地は「植民地化されているから」
敗戦国としてそれを受け入れざるを得ない日本人、という見方が当たり前でありながら、「なぜ日本のために戦わなければならないのか」という感情は同時に「なぜ領土を回復しようと思わないのか」という米軍基地の問題をはらんでいるし、同時にそうやって米軍基地を受け入れることに日本は安全を担保しているのだと言えば、それは他国の領土のために命を掛ける米軍の軍人にとって耐えがたい苦痛でもあるだろう。もちろん、基地を抱える日本人にとっても耐えがたい苦痛、自国の領土を差し出し、同時にそこが治外法権であり、そしてそれがなければ国家の安全を保障できないのだとすれば、米軍を受け入れることは理論上『耐えがたい苦痛』でなければおかしく、むしろ『米軍に守ってもらっている』ということを誇ることはかなり屈折しているか論理破綻だと私は思う。政治思想は左派でも右派でもないけれど、苦痛でなければ敗戦からの歴史上の話の辻褄が合わない。
だけれどそれを、少なくともサーファーの若者二人は感じない。感じないことが海兵隊の男にとって憎むには充分な理由になる。
そうしてそれは先の大戦における敗戦、そもそもの第二次世界大戦がバックボーンであり、同じく日系人の警察官サカタが言うように「母の兄は、日系人の軍隊として編成され、ナチの大隊に殺された。そういったことではなく、憎しみも争いもなく自然の循環の中で死んだ」のがまさしくサチの息子のタカシだったのではないか、と思う。
だから息子の幽霊はサチには見えずに息子と同じ、サーフィンのためにハナレイに来た日本人の若い何も知らない二人には見えたのかもしれない、と今回読んでいて感じた。
もちろん、そんなことに関係はなく、サチはまた一年ピアノを弾き、毎年息子の命日の近くに3週間ハナレイ・ベイに行き続けるだろう。そのあまりにも悲しくて美しい文章が私は好きだ。

1Q84再読感想

文字認識のこともあり、読んだものを日記に付けています。今日はやっと1Q84BOOK2まで再読終わったから感想。

10年以上振りくらいに読んで、BOOK2まで、というか書き下ろしのBOOK3をなにかの拍子にもらったから再読しました。

話の筋立ても結末も細部も何もかも忘れていて、読む速度も例のことで遅く、しかし忘れていたからとても楽しく入り込んで読んで、19章あたりで『全部意図的に忘れた』ことを思い出した。

私はこの物語に耐えられなかった。あまりにも面白くて、楽しくて、それなのにあまりにも破綻していて、惨くて。

いつも思うが、なぜ村上春樹はあんなに綺麗で面白くて楽しい文体で、あそこまで陰惨な、ヒトの傷、あくまで暗部ではなく、誰かが抱え込んで自覚すらしていない傷を抉り出すような文章が書けるのだろう。すごく好きだけれど、あんなに美しく傷口を描写するのが全世界で受け容れられる意味が未だに分からないです(もちろん嫌味ではなく純粋な疑問ですし、私も好きな一人なので何も言えない立場ですが)。

BOOK3を読めば救われるのかと思ったけれど、少なくともBOOK2までの時点で青豆と天吾は救われている。作品としてだけれど救われているし、それは作者も意図していたと思う。

ふかえりもある種救われているんだよ、こんなにもいびつに。

システム、大いなる天蓋、神、天、父、世界を貫く鉄の法則、宇宙の原理法則とか、共産主義、コミュニズム、資本主義とか、宗教も哲学とかの学問も、化学や数学、文学も、今までもこれからも、過去も現在も未来も、ある意味で一つの正解や蓋然性を担保する意味的なものを要求して追求する。

それを文学的に「父」と呼ぶしその最も簡便な点は「父がこう言ったから世界はこうなった」という論理だと思う。それは「神がこう言ったから」「原理がこうだから」「システムがこうだから」という形で私たちの社会一般で普通に使われるが、その発想は父権制イデオロギーとかそういうのと紙一重というか、父というか神というか法則というかシステムというか、ある一点に責任と担保を求めるのは、それがマルクシズムだろうとコミュニズムだろうと共産主義だろうと資本主義だろうと民主主義だろうと宗教だろうと科学だろうと「父権制イデオロギー」だろうよ、と思う。拡大解釈ですが。

1Q84はある意味で「父権制イデオロギー、あるいは父そのものに対するトラウマの克服」というか、そういう、ある意味で反文学的な話かもしれないですね。たくさんの世界中の作品はシステムの中でシステムそのものの話や父ってかシステムや法則への挑戦とか、そういうやつですが、これは「父からの傷がまずあり、父抜き、システム抜きの世界の構築」という途方もない話だと思います。

まず父(システム、親)に主人公の青豆、天吾は傷つけられ、棄てられる。ふかえりは父を棄てた、ように見える。

しかし3人とも「私が今こういう人間になったのは、親のせいだ」と説明する、もしくは親から与えられた傷が深すぎて説明しきれない。

じゃあそっからなんかシステム抜きの、父権制イデオロギー抜きの穏やかな意味での世界を勝ち取る物語か? とワクワクして読むじゃん。最後まで読むじゃん。

絶望的な、だけれど確かな救いが三人に与えられて、当時の書評を読むと「父抜きの世界」とか「バッドエンド」とか「システムを超越」とかアルベール・カミュの「神もシステムも十分に信じていません」を引いているのとかあるけど、違うじゃんという確かな絶望しか感じないのは私が馬鹿だからだろうか。

青豆はふかえりの父、つまり現在最も世界のシステムの要の人物を殺すことで、システムの側の主要人物になる。しかも、青豆自身は宗教システムによって人生を破壊されながら、宗教システムの教祖を殺し、そちら側に深く関わる主要人物になる。

天吾は父に棄てられ、自身の中にやっと「父というシステムと物語」を消しされたところで、今度は天吾自身が「父というシステムと物語」を書きはじめ、彼自身が「父になる」。

ふかえりは「父という宗教システム」から逃げ切り天吾に助けられたが、父が喪われた後に、「天吾という新たなシステム上の父を作り上げる」。

 

この物語は父やシステムから受けた傷を曝露し、さらけ出し、癒したあとに、その父やシステムと訣別して、あるいは破壊して、そうしてから、そうしたからこそ、ゆっくりと彼ら彼女ら自身がその代替システムとして組み込まれていく途方もないグロテスクさを感じます。

私が馬鹿だから読み違えていて、全員が父から離脱出来ているのかもしれないけれど、私には彼ら彼女らが代替システムとして組み込まれていく途方もないグロテスクさしか感じられない。

当たり前だけど世代じゃないから書物や歴史としてしか知らないけど、1Q84でも語られる安保闘争が第二次世界大戦敗戦からの地続きの精神的な学生の闘争だったと分析されることがあるように、どんな理念や考えがあっても、傷があっても、結果的に代替手段でしかなかったように。

今日の作り置き・失敗

これね、揚げ出し豆腐を作っておくつもりだったんですよ。
この、盛り付けというか容器に入っているのがなんかアレなのは容器の容量的に仕方ないんです、本当だよ!

だけども、形が明らかに崩れているのは本当に単純に失敗しました。
どうしてひさめさんは豆腐もまともに揚げられないんですか?
味はまともだったのと3日くらい持つので自分の馬鹿さ加減に泣きながら食べたいと思います。

歳三の生家・土方歳三資料館図録

土方歳三生家
土方歳三資料館様の図録の二章までの感想まとめです。

写真が相変わらず下手で本当に申し訳ありません。

一昨日くらいに書いた通り、一気読みは出来ないので二章まで。

前々から読みたいなあと思っていたのですが、現地に行く機会がないなかなのに通販を見逃したり、しっかり負けたりしていて悩んでいたのですが、フォロワーさんがまた始まるよーと教えてくださっていて、やっと買えました。良かったです。

まず図録の表紙カッコいいですね、と凡百な感想で申し訳ないのですが、緋色の表紙に鳳凰と鍔。カッコいい。色味が単純に緋と文字が黒で大好きな組み合わせなので嬉しくなりました。あまりにも好みでカバー掛けようか迷う……

1章「土方家と歳三」
写真資料としての土方家の外観写真や、間取りの図面がとても興味深かったです。
生家の資料館さんならではというか、前書きにもありましたし、途中のところに何度か出てきた「賊を~」の部分もそうですが、現実として知る人がいなくなったり、そもそも断絶ということもありえたというのがやはりなんというか重い……。

石田村や土方家のルーツの話や、コラムでの話も興味深く、村内では屋号で読んでいた、ということからの推測にはなってしまいますが、血縁や地縁が強固な土地だったのだろうなあと。それは幕末期に限らず、年来のものだと分かりながらも、それが後々に歳三を抹消せずにこうやって残った理由にもなるのかもしれないなあと感じました。
屋号や家紋の使い分けは古い村や共同体だとよくあるなあというのと、過去帳を持っているのがここということで、本家筋になったうえで信用されていたのだろうなあと思います。
稲荷社や伊勢参りのことを見るに、やっぱり御大尽だったんだなあと。商家として大きい、というか商家とも言えない部分はあるのでしょうが、江戸期~幕末、現在に至るところは分かりませんが、かなり大きな家であり、共同体の要になる家だったのだなと思うと、改めて歳三さんすごく……お坊ちゃんだね!(すごく略したまとめ)

2章「多摩の歳三」
とても個人的にですが、「天然理心流中極位目録」の資料がすごいなあと思いました。
そっかー……となってしまうのは東北の人間だからかもしれないのですが、賊を出した、ということで多くの書状や書物から歳三さんの名前を削った、というのがやっぱり辛いなあ、と。その中でも「天然理心流中極位目録」を残していたのがすごいなと感じたのでした。名前を変えていたものが多い、とはいえ、歳三さんと近藤さんの諱から取っているというのが、中にも書かれていました近親者にはそれと分かるように残した、ということで、本当に1章の所でも書きましたが、決して歳三や勇、新選組であったり鎮撫隊の活動を否定しなかったし、抹消もしなかった、というのは土方歳三の人柄もあるだろうし、土方家やその血縁・地縁の強固さもあるのだろうなあと感じます。

決して抹消しなかった、そうして今はこうして子孫の方が資料館の資料を大切にし、そうしてこやって図録にもまとめてくださり、伝えられていくのだとすれば、本当に素晴らしいことだと思います。

コラムの平家の話と2章で全体的に思ったこと
飾らないでいられる場所だったんだな、というのもあるし、ほんっとうに頭いいなこの人!? と思いました。利発とかじゃなくて普通に頭いいだろって思った。勉学にも励んでいたんだなあ、というよりも本当に頭いいな……それは俳句とかの風雅に手を出しますよ……

コラムの甥っ子作助さんの話
何度も書いていますが「土方歳三を恥に思っていない」というのはすごく、すごく大きいことだと思う。賊とかそういう扱いを受けると、やっぱり家が断絶したりすることもあるし、皆殺しにされることだってあるので、当主が出家するとかそういうこともあるし、そもそも「うちはその家のものを許容していない」という態度を表面上だけでも、場合によっては実を伴って言うことっていくらでもあるじゃないですか。個人的に知っている範疇の話ですけども。
それをしなかった、100%しなかった訳ではないから名前を削ったりはあったと思うけれども、土方歳三が本当に大切な存在だったんだなと思います。
だからこそ、今に伝わっているし、こうやって子孫の方が大切にしてくださって、語り継いでくださって、多くの人が愛しているのはこういう素地というか、根本的にその家の人たちにとって土方歳三、新選組、鎮撫隊というのが受け容れられ、大切にされていたのだろうと思います。

石田散薬
いろんな媒体で見た薬箱だー! って普通にテンション上がった。山丸印の箱背負ってる歳三さんのメディアミックスいっぱいあるから、そのオリジナルだってすごくテンション上がった。すげえしか言ってない(頭が悪い)

豊玉発句集
これも有名なやつだーと思いながら、一句ずつ丁寧に詳細が載っているのでゆっくり拝見します。

いったんここまでです。

ここからだいぶどうでもいいはなし。

なんだろうね、ここの管理人の話をすると司馬遼太郎の「燃えよ剣」を小学生の頃に図書館で読んで「この人カッコいいな」となったんですよね。町の図書館だったので、司馬遼太郎の全集だったんですが、全集系は作家問わず禁帯出だったのと、ガキだったので重くて、あと馬鹿だし子供だから分かんない漢字とか調べてたら読むのクソ遅くて、週末図書館行って読むしかなかったけどもあんまりカッコいいからずっと読んでたのが土方さん好きになったスタートでしたが、その後大河とか漫画とかのメディアミックスだけでなく、会津に行ったり(東北だからね、近いからね)、京都に行ったりとそういう感じで中学くらいまでの自由な時間をけっこう費やした感じですね。高校くらいからはいろいろきつすぎたので思い出したくないのですが(もやし)、今になってやっぱり新選組も近藤さんも土方さんも沖田さんもカッコいいな!! ってなっている中で、こうやって生の資料に出会えるのは本当に嬉しいです。
本当の資料という言い方はどうなんだろうと思うけども、メディアミックスだけではなくて、こういう子孫の方や伝来している、残っている史料から歴史に本当にいた人物に思いをはせるのはやっぱり楽しいです。ありがとうございます。

ED「去り際のロマンティクス」

映画「ガンダムSEEDFREEDOM」感想コーナーですよ。
今回はSee-SawのED「去り際のロマンティクス」について。

まずもってね、有名だと言うのもあるけれどSee-Sawの梶浦先生と石川さんのタッグがないと本当にガンダムSEEDシリーズは語れないと言っても過言ではない。
一番有名なのは「あんなに一緒だったのに」だとは思います。これはガンダムSEEDシリーズを見たことがない人も聞いたことがあると思う。それくらい有名だし、キャッチーでインパクトのある曲でしたが、今回の「去り際のロマンティクス」は、なんというか、この「あんなに一緒だったのに」や「君は僕に似ている」の流れをそのまま持ってきたような曲なんです。曲調や歌詞、ダイナミックなメロディとか全部。そうして、歌い方も何もかも変わっていないのが嬉しくて……。凄いことだと思います。20年だよ、私めっちゃ子供だったから、歌の凄さなんて分かんなかったけどさ、西川さんもそうだけども、20年後に聞いても「このシリーズにはこの歌が相応しい」ってなるか普通? いや、ならないと反語を使ってしまうよ。

そういう訳で、ですが、「去り際のロマンティクス」はエンディングですので、最後にオルフェとイングリットが倒れて、そうしてラクスのモノローグと共に入りますよね。
このシリアスな曲調と「最後に歌うよ…」という歌い出しとイントロをバックに「あなたの中に私はいますか」と問いかけるラクスなんですが、これなんだよなぁと。

ラクスとキラは、正直なところ互いの中に互いがいることを確認できた、20年越しに確認できた、愛していると言えたのがこの映画で。
カガリとアスランは、互いに互いのことを想っていて、想っているから最後まで戦えたし、一緒にいなくても通じ合っていたのがこの映画で。
シンとルナマリアは、シンが成長してルナマリアはそれを受け止めて、少しずつ前に進んでいっている、相棒としても恋人としてもというのが分かったのがこの映画で。
マリューさんと大佐はもうなんも言えねぇよ。昔のシリーズ見ていた時に、私は小学生とかそんなんだから、全然大人の事情、大人だから責任があって、だから出来ないことや言えないことがたくさんあって、なんて分かんなかったけども、マリューさんの言えないこと、出来ないこと、苦しいことを大佐は全部分かって受け止めてくれるから、ずっと、ずっと今までもそうだったからよぉ! やっと分かったよ、この二人の辛さと優しさが!

だとしたらさ、「あなたの中に私はいますか?」というラクスの問い掛けは、ある意味でイングリットからオルフェへの問い掛けでもあるし、ルナマリアからのアグネスへの問い掛けでもあったと思う。

イングリットは最後まで、それこそ生まれた時からでもあり、ラクスとキラが「目が見えなくても歌えなくても」愛していると言われて、自分の中にあるオルフェへの無償の愛を形にされた時に耐え切れなかったあの時からでもあり、ずっと「私はずっと苦しんでいたオルフェを見てきた、分かっているからもういいよ」と言ってあげられる唯一の存在だったんだろうし、そうありたかったんだろうな、と。
ラクスに対して喉を潰すと言い、キラに「歌えなくても愛せるのか」と問いかけたのは、ある意味でこの映画全体だし、過去からのシリーズ全体ともいえる「存在価値がなくなっても愛せるのか」という大きなものだったと思う。「歌姫」というカリスマ的な存在として今作でコンパスの総裁になったのは、その影響力の大きさで。歌姫ラクスクライン総裁、というインパクトと影響力のために権力の座についているラクスでもあるし、過去シリーズでも彼女が歌姫であることが物語の中核にはあって。
その歌姫から「歌うことを奪っても愛せるのか」という問いかけは、キラとラクスの間にある愛は「要不要の問題ではないのか」というとても辛い問い掛けだと思います。

実際に救出に向かう前にアスランと殴り合うシーンではキラは「ラクスは僕たちを裏切った」「ラクスにはもう僕はいらない」「ラクスが喜んでくれない」と散々なことを言うワケですよ。アスランからすれば「ラクスはそんなことを言うはずがないし、そんなことをおまえに求めているとは思えない」ということだし、マリューさんからすれば「ラクスさんは平和をポンとプレゼントしてほしい訳ではないはずよ」という、一緒に歩んでいきたいのであって、キラが自分の生活を快適にするために必要だから愛しているワケじゃない、好きになったワケじゃない。それがきっとキラにも分かっているけれど、どうしても「ラクスに必要とされたい」「カッコいいって言われたい」「愛してほしい」という、先程の「FREEDOM」で書いた「理想の愛」を求めてしまっていた部分はあると思っていて。

だからそれを超えて「歌えなくても見えなくても愛している」と言われた時に、イングリットはどう思ったかなあと。ずっとずっとオルフェは「ラクス・クラインが必要だ」「必要だから愛しているし、愛しているのが当然だ」と言い続けてきたそれを覆されて、同時に「そうやって自分もオルフェを愛してもいいのではないか」と思わせる出来事だったと思う。
だから最終戦でオルフェが「その愛を寄越せ」と叫んだのは、オルフェだってそんなこと分かってたよ、とも思ってしまいます。
だからこそ最後の最後で「オルフェのことを私はずっと見てきたから、私はあなたの中にいるからね」と彼に言えるのはイングリットだけだろう、と。アコードとして、優秀な存在として、歯車として必要な訳ではなく、あなたのことを愛しているよ、と。

それは月光のワルキューレ、アグネスに対するルナマリアもそうだと思いました。エンディングでスタッフロールの前に本編画像が入るところで一番くらいに好きなのがルナマリアがアグネスに手を伸ばすところ。コンパスが勝っているし、ファウンデーションに与したアグネスはあそこで殺されても何も言えないのに、殺さずに助けたルナマリアと、それを複雑ではあっても少し笑っているような顔で観ているシンというのは、シンとルナマリアの関係や本人たち自身の成長でもあったと思うし、それと同時にアグネスに救いがあって良かったな、と。

アグネスってさ、この映画で初めて出てきたけれど最初から「誰かに必要とされたい、認められたい」という感情でいっぱいだったんだよな。だからキラ・ヤマトという英雄に愛されているという存在になりたい、認められたいし、もっと序盤でシンに機体を寄越せと言う時だって、「私の方が上手く使える」という「強い」と「認められたい」という感情じゃん、そんなの。ルナマリアに絡むのだって「ルナマリアはそれでいいのか」という裏返しで、「あんただってもっともっと認められるはずなのに、どうしてそこで妥協するのか」という感情でもあったと思う。嫌味じゃなくて、もっと純粋に。
だからシュラが「月光のワルキューレ」と呼んで、「強き者は美しい」とその強さを「認めて」、「必要とされた」ことが何よりも嬉しかったんだろうな、と思ってしまって。

だけれどルナにとってアグネスの存在は「強い」とか「必要」とかじゃなくて、仲間であり、同年代の友達であり、そういう相手じゃん。だからあのエンディングが入ってからの映像でもそうだし、ラストの喧嘩みたいな二人の戦闘もそうなんだけども、「アグネスの中に私がいなくても、私の中にはアグネスがいるから帰ってきなよ」とルナマリアが言っているように見えて、大好きです。ルナマリアは本当にすごい女だよ。

ここまでが映像のシーンですが長いな。すみません。

「私は告白します」
「あなたの使命は愛から導かれる」
「飛ぶ鳥が話しに降りてくる肩になれる」

ってもう直球にキラとラクスだし、トリィたちのことだし、何て言えばいいのか、もう本当にすべてが詰まっているよね。

「最後のラストソング」っていうところはさ、これからもSEEDの世界は続くし、コンパスの総裁として、ヤマト隊の隊長として、世界が平和になるまで、平和にする、互いに渡したかった安穏とした世界を渡せるまで二人は頑張るんだろうけれど、歌姫ラクス・クラインが「私はあなたへ告白します。最後のラストソング」と歌う相手はキラ・ヤマトであり、それは無償の愛の告白で、それが最後の最後に、歌姫としてでも、総裁としてでもなく、ただ愛しているキラのためにラクスが歌う歌なんだろうな、と思うとこのシリーズ完結編という、20年間ずっと見たかった、聞きたかった、知りたかった、キラとラクス、SEEDという物語のラストなんだろうと感じます。
書きながら聴いてたら泣けてきて、本当に情緒が持たない、大好きです。

日記・作り置き料理

なんかブログでもXでも何もしていない人みたいになってきたのと、ブログで生存確認してくださった方がいて、相変わらずダメ人間なんですが、日記というか記録でもつけておこうと思いました。
こういう話してるけども、普段このブログはサイトの方の更新日記として使っているのですが(サイトに小説上げた時に更新履歴と後書に使っている)、日記帳見るの面倒だし、そもそも私、普段日記をつける習慣がないのですね(ダメ人間)

頭痛や発作の記録と、体温と服薬の記録はつけてるんだけども、それさえ出来れば最高の人間位の気持ちだったので、反省して日記付けますね。

とはいえ、特にダイナミックな日常を送ってもいないので、なんとなく週末やってることでも書くかと思いました。

作り置き。
いや、週末でなくても作るけども、よく倒れて周りに迷惑かけるか、傾眠がひどすぎて寝ているので、仕事がない時は料理作って作り置き保存のおかずにしています。びっくりするほど平凡な料理しか作れないんですが、一人暮らしは高校からしていたので、感覚で作るから(だから味が毎回違うんですね、馬鹿なの?)、文字を読む必要もないし認識よりも速度なので、暇な時はよく料理しています。
身内しかいないところの方を作っているので別段味は足りなければ醤油でもかけてとしか思わないので……

リリムハーロット回ろうにもAP回復しないし、そろそろboxだろうからリンゴ溜めたいし、暇で……(クズポイント①)
食事の時の品数を作らなくて済むので時短なのと勝手に姉とかが弁当で食べたり、私が腹減った時に食べる。精進料理意識してないです(クズポイント②)

今日は5品。これは左から椎茸の煮物、青梗菜の和え物、春雨サラダ

ひじき

なんか鶏肉をマヨネーズと味噌で炒めた。上に飾る小葱を畑から引っこ抜いてくるように東堂に命令しといた(クズポイント③)

ただ料理を並べてもアレなので、なんか考えましたが、青梗菜を畑から取ってきた時に青虫君が着いてきちゃっていて、なんかどうにも可愛かったので救出して畑に戻してあげました。偉い、不殺。
この時に「ああ、私武田晴信を超えてしまったな」と思いました。
ごめんなさい、驕りが過ぎました。でも、だって! はるのっぶより優しいじゃん!