ED「去り際のロマンティクス」

映画「ガンダムSEEDFREEDOM」感想コーナーですよ。
今回はSee-SawのED「去り際のロマンティクス」について。

まずもってね、有名だと言うのもあるけれどSee-Sawの梶浦先生と石川さんのタッグがないと本当にガンダムSEEDシリーズは語れないと言っても過言ではない。
一番有名なのは「あんなに一緒だったのに」だとは思います。これはガンダムSEEDシリーズを見たことがない人も聞いたことがあると思う。それくらい有名だし、キャッチーでインパクトのある曲でしたが、今回の「去り際のロマンティクス」は、なんというか、この「あんなに一緒だったのに」や「君は僕に似ている」の流れをそのまま持ってきたような曲なんです。曲調や歌詞、ダイナミックなメロディとか全部。そうして、歌い方も何もかも変わっていないのが嬉しくて……。凄いことだと思います。20年だよ、私めっちゃ子供だったから、歌の凄さなんて分かんなかったけどさ、西川さんもそうだけども、20年後に聞いても「このシリーズにはこの歌が相応しい」ってなるか普通? いや、ならないと反語を使ってしまうよ。

そういう訳で、ですが、「去り際のロマンティクス」はエンディングですので、最後にオルフェとイングリットが倒れて、そうしてラクスのモノローグと共に入りますよね。
このシリアスな曲調と「最後に歌うよ…」という歌い出しとイントロをバックに「あなたの中に私はいますか」と問いかけるラクスなんですが、これなんだよなぁと。

ラクスとキラは、正直なところ互いの中に互いがいることを確認できた、20年越しに確認できた、愛していると言えたのがこの映画で。
カガリとアスランは、互いに互いのことを想っていて、想っているから最後まで戦えたし、一緒にいなくても通じ合っていたのがこの映画で。
シンとルナマリアは、シンが成長してルナマリアはそれを受け止めて、少しずつ前に進んでいっている、相棒としても恋人としてもというのが分かったのがこの映画で。
マリューさんと大佐はもうなんも言えねぇよ。昔のシリーズ見ていた時に、私は小学生とかそんなんだから、全然大人の事情、大人だから責任があって、だから出来ないことや言えないことがたくさんあって、なんて分かんなかったけども、マリューさんの言えないこと、出来ないこと、苦しいことを大佐は全部分かって受け止めてくれるから、ずっと、ずっと今までもそうだったからよぉ! やっと分かったよ、この二人の辛さと優しさが!

だとしたらさ、「あなたの中に私はいますか?」というラクスの問い掛けは、ある意味でイングリットからオルフェへの問い掛けでもあるし、ルナマリアからのアグネスへの問い掛けでもあったと思う。

イングリットは最後まで、それこそ生まれた時からでもあり、ラクスとキラが「目が見えなくても歌えなくても」愛していると言われて、自分の中にあるオルフェへの無償の愛を形にされた時に耐え切れなかったあの時からでもあり、ずっと「私はずっと苦しんでいたオルフェを見てきた、分かっているからもういいよ」と言ってあげられる唯一の存在だったんだろうし、そうありたかったんだろうな、と。
ラクスに対して喉を潰すと言い、キラに「歌えなくても愛せるのか」と問いかけたのは、ある意味でこの映画全体だし、過去からのシリーズ全体ともいえる「存在価値がなくなっても愛せるのか」という大きなものだったと思う。「歌姫」というカリスマ的な存在として今作でコンパスの総裁になったのは、その影響力の大きさで。歌姫ラクスクライン総裁、というインパクトと影響力のために権力の座についているラクスでもあるし、過去シリーズでも彼女が歌姫であることが物語の中核にはあって。
その歌姫から「歌うことを奪っても愛せるのか」という問いかけは、キラとラクスの間にある愛は「要不要の問題ではないのか」というとても辛い問い掛けだと思います。

実際に救出に向かう前にアスランと殴り合うシーンではキラは「ラクスは僕たちを裏切った」「ラクスにはもう僕はいらない」「ラクスが喜んでくれない」と散々なことを言うワケですよ。アスランからすれば「ラクスはそんなことを言うはずがないし、そんなことをおまえに求めているとは思えない」ということだし、マリューさんからすれば「ラクスさんは平和をポンとプレゼントしてほしい訳ではないはずよ」という、一緒に歩んでいきたいのであって、キラが自分の生活を快適にするために必要だから愛しているワケじゃない、好きになったワケじゃない。それがきっとキラにも分かっているけれど、どうしても「ラクスに必要とされたい」「カッコいいって言われたい」「愛してほしい」という、先程の「FREEDOM」で書いた「理想の愛」を求めてしまっていた部分はあると思っていて。

だからそれを超えて「歌えなくても見えなくても愛している」と言われた時に、イングリットはどう思ったかなあと。ずっとずっとオルフェは「ラクス・クラインが必要だ」「必要だから愛しているし、愛しているのが当然だ」と言い続けてきたそれを覆されて、同時に「そうやって自分もオルフェを愛してもいいのではないか」と思わせる出来事だったと思う。
だから最終戦でオルフェが「その愛を寄越せ」と叫んだのは、オルフェだってそんなこと分かってたよ、とも思ってしまいます。
だからこそ最後の最後で「オルフェのことを私はずっと見てきたから、私はあなたの中にいるからね」と彼に言えるのはイングリットだけだろう、と。アコードとして、優秀な存在として、歯車として必要な訳ではなく、あなたのことを愛しているよ、と。

それは月光のワルキューレ、アグネスに対するルナマリアもそうだと思いました。エンディングでスタッフロールの前に本編画像が入るところで一番くらいに好きなのがルナマリアがアグネスに手を伸ばすところ。コンパスが勝っているし、ファウンデーションに与したアグネスはあそこで殺されても何も言えないのに、殺さずに助けたルナマリアと、それを複雑ではあっても少し笑っているような顔で観ているシンというのは、シンとルナマリアの関係や本人たち自身の成長でもあったと思うし、それと同時にアグネスに救いがあって良かったな、と。

アグネスってさ、この映画で初めて出てきたけれど最初から「誰かに必要とされたい、認められたい」という感情でいっぱいだったんだよな。だからキラ・ヤマトという英雄に愛されているという存在になりたい、認められたいし、もっと序盤でシンに機体を寄越せと言う時だって、「私の方が上手く使える」という「強い」と「認められたい」という感情じゃん、そんなの。ルナマリアに絡むのだって「ルナマリアはそれでいいのか」という裏返しで、「あんただってもっともっと認められるはずなのに、どうしてそこで妥協するのか」という感情でもあったと思う。嫌味じゃなくて、もっと純粋に。
だからシュラが「月光のワルキューレ」と呼んで、「強き者は美しい」とその強さを「認めて」、「必要とされた」ことが何よりも嬉しかったんだろうな、と思ってしまって。

だけれどルナにとってアグネスの存在は「強い」とか「必要」とかじゃなくて、仲間であり、同年代の友達であり、そういう相手じゃん。だからあのエンディングが入ってからの映像でもそうだし、ラストの喧嘩みたいな二人の戦闘もそうなんだけども、「アグネスの中に私がいなくても、私の中にはアグネスがいるから帰ってきなよ」とルナマリアが言っているように見えて、大好きです。ルナマリアは本当にすごい女だよ。

ここまでが映像のシーンですが長いな。すみません。

「私は告白します」
「あなたの使命は愛から導かれる」
「飛ぶ鳥が話しに降りてくる肩になれる」

ってもう直球にキラとラクスだし、トリィたちのことだし、何て言えばいいのか、もう本当にすべてが詰まっているよね。

「最後のラストソング」っていうところはさ、これからもSEEDの世界は続くし、コンパスの総裁として、ヤマト隊の隊長として、世界が平和になるまで、平和にする、互いに渡したかった安穏とした世界を渡せるまで二人は頑張るんだろうけれど、歌姫ラクス・クラインが「私はあなたへ告白します。最後のラストソング」と歌う相手はキラ・ヤマトであり、それは無償の愛の告白で、それが最後の最後に、歌姫としてでも、総裁としてでもなく、ただ愛しているキラのためにラクスが歌う歌なんだろうな、と思うとこのシリーズ完結編という、20年間ずっと見たかった、聞きたかった、知りたかった、キラとラクス、SEEDという物語のラストなんだろうと感じます。
書きながら聴いてたら泣けてきて、本当に情緒が持たない、大好きです。

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