読書

読んだものの感想

「十二国記」小野不由美:著(新潮文庫)
「月の影 影の海」下巻
何回読んでもいいよねっていうか、下巻が楽俊との出会いのあたりからなんですけども、警戒心というか、この鼠は、から始まって、旅を始めて鞘を斬って、楽俊と雁で再会して。あまりにも長い旅だし、陽子の成長と一言で言えるけども、だってさぁ……異国で、そうだよなぁ……楽俊も言うけどもそういうんじゃないっていう体験をでもそうだ、と飲み込んで、そうだから「私は至らない」とはっきり言えるからこそ、尚隆だって王の器だと思える、嘘偽りやそそのかすわけではなく、それを具えている、自分のことを分かっていると言えるし、景麒だって「ずいぶん変わった」と再会した時に言うんじゃん。そうだと思う、陽子は変わった。旅の中で学んだ。だけれどそれは生来持ち合わせたものだと尚隆は言った。それを引き出したのは旅であり、裏切りであり、戦いであり、楽俊の純粋な優しさだったという。成長とかそういうレベル超えてるよね、すごく好きです。
そうしてこの年代の作家さんには小野不由美さんも村上春樹さんも高橋源一郎さんもだけれども安保闘争の傷がはっきりと刻まれているんだなというのが、そうだな、屍鬼を読んでも感じますが、もちろん1Q84 はもろにそうだし、なんていうか、目を背けたいけれどもそれを論じないで話を進めることは出来ないから話の中に入れておくけれど、それを論じること自体がタブー、というような忌々しさとどこかしらの神聖視の二律背反に似た何かを抱えているのかな、と感じるように思います。

「図南の翼」
これも何回も書いているから端折るけども珠晶にとって「私は必要」という人物が何人も到来する物語でもあるし、その運気に巻き込まれた、と最後に利広は言うけれど、そうして「天神、麒麟まで巻き込んでおいていまさら何を言う」と頑丘も言うけれど、頑丘も、利広も、更夜も、供麒も、みんなその王になるという珠晶の運気に巻き込まれ、引き寄せられながら、利広が言う通り一人一人がその珠晶の「王であるか、王とは何か」というものを試した。「もちろん私は試したんだよ」という利広の一言がすべてで、彼女は王になるために臣下の理であり、与えらえる者の理を踏み越えられるのか、そうして本当に「王」なのか、全員から試され続けたという話なんだよなあ……

「コモンの再生」内田樹:著(文春文庫)

形式的には対談というか、雑誌の編集長からの時事ネタの質問に内田樹が答えたものをまとめたもの。時事ネタ、政治経済、読書まで広く扱い、また著者が言っている通り、雑誌掲載時から抜粋などを行っていないため、5年ほど前のことであったりしても再録されている。

個人的に感じたこと。
タイトルの通り、「これから資本主義が破綻した時に、コモン、コミュニズム、コミューンを形成することが必要になるのではないか?」という問いかけを大きく感じた。
コモン、コミューンは共産主義というよりはマルクスの考えた包括的な社会のこと。そもそもコモン・コミューンという用語自体が資本主義・共産主義等の近代の用語ではなく、古代からヨーロッパ等で用いられてきた「共同体の共有地」である。
著者が以前から主張している通り、緩やかで包括的な共同体の再生、中央集権主義、資本主義の終焉、アンチグローバリズムは現在進行形で進んでおり、特に資本主義経済はほとんど限界を迎えている、という論調が各所に感じられた。
マルクス主義、構造主義の研究者でもある著者の考えとして、共産主義はマルクス主義とは異なるものであり、そこの部分も。
別著作からの引用であり、同時にこの本の中にもあるが、マルクス主義はブルジョアであるマルクスがプロレタリアを解放することを目的としていた。
それは「私たちは彼らから奪ったものを返さなければならない」という「奪ったものを返せ」「○○(自由・平和・平等)を与えろ」という図式とはそもそも異なる。
富の分配とも違い、惻隠の情と著者は表現するが、疚しさのようなものから端を発している、と著者は考えている。

そうなった時に、マルクス主義とも違うけれども一方的に主張し求めるだけではなくて、最初は個々人の持ち出しであり、コモン(共有地)であり、共同体である小さな部分を作成していく必要があるのではないか、というもの。
そこに必要なのは、礼節であり、寛容であり、ある程度の規律は自分たちで決めるというじゅうぶんな知性である。

「東京奇譚集」村上春樹:著(新潮文庫)

大好きな短編集。読むたびに違うものごとが見える気がして、何か読みたいと思った時にはよく手に取る。
一編ずつ
「偶然の旅人」
作品の前に村上春樹自身が体験した『不思議な出来事』を語る部分。実際にあったことだろうが、同時にそれは『そこまで重要な出来事ではない』と著者自身が語っている。人生に大きな影響を与える『奇妙な出来事』が題材の作品集の前書きとして、著者自身に起こったアメリカでのジャズの偶然と、著者の知り合いに起こった(こちらが主題)不思議な出来事が語られる。
ゲイのピアノ調律師の話は、本当に偶然が重なった結果として彼が自分の人生の大切な部分を取り戻す話でもあり、とても好き。そこまで深刻なことではなく、ジャズの神様、ゲイの神様と村上は言うけれど、著者自身にあったジャズのことも、調律師の男性にあったことも、人生の中で重要な転機であったのだろうと思う。

「ハナレイ・ベイ」
何度か語ったことがあるので少し違うこと。
何度も語ってはいるけれど、村上春樹の作品でこの「ハナレイ・ベイ」よりも美しい文体の作品はないと思う、と思うくらいに好き。するすると頭に入って来るし、何よりも文章の流れが、センテンスが軽妙で美しい。
ということは今までも何度か書いたので、中身。
何度読んでも違う側面があると感じるが、とても印象的なシーンとして「アメリカン・エキスプレスで火葬の代金を支払っている」ということにサチが奇妙な非現実感を抱くシーン。クレジットカードで、自分自身の息子の火葬代を、息子を骨にして持ち帰るために。その非現実性と、それを理解する、息子の死を受け入れるためには時間が必要だ、とサチは思ってハナレイに行くのだけれど、その前に日系の警官サカタに「争いや憎しみの中ではなく、自然の循環の中で死んだのだ」と言われる。それは結果的にそのハナレイで息子の死について考え続ける毎年の3週間を10年以上続けた結果として、回想されたのだと思った。二人の若いサーファーが息子の幽霊に会った、ということ、どうして私の前には現れないのとサチが思うこと、それはそうなのだけれど、それ以上にその前のシーンだと思う。
元海兵隊の男がサチにピアノを弾けと言う。英語が分からない二人の若者はただその突っかかってきた男と、ピアノは弾かないと断るサチを見ていたが、その男は「日本人はどうして自分たちの国のために戦わない、イワクニでは」という台詞を言う。ここが全てだと思った。「イワクニ」は間違いようもなく岩国基地のことだろう。そうして「日本人はどうして自国のために戦わず、米軍に頼り、そうして安穏と過ごすのか」という深い傷口のようなものが晒される。
それは日本が「敗戦国だから」。ある意味で米軍基地は「植民地化されているから」
敗戦国としてそれを受け入れざるを得ない日本人、という見方が当たり前でありながら、「なぜ日本のために戦わなければならないのか」という感情は同時に「なぜ領土を回復しようと思わないのか」という米軍基地の問題をはらんでいるし、同時にそうやって米軍基地を受け入れることに日本は安全を担保しているのだと言えば、それは他国の領土のために命を掛ける米軍の軍人にとって耐えがたい苦痛でもあるだろう。もちろん、基地を抱える日本人にとっても耐えがたい苦痛、自国の領土を差し出し、同時にそこが治外法権であり、そしてそれがなければ国家の安全を保障できないのだとすれば、米軍を受け入れることは理論上『耐えがたい苦痛』でなければおかしく、むしろ『米軍に守ってもらっている』ということを誇ることはかなり屈折しているか論理破綻だと私は思う。政治思想は左派でも右派でもないけれど、苦痛でなければ敗戦からの歴史上の話の辻褄が合わない。
だけれどそれを、少なくともサーファーの若者二人は感じない。感じないことが海兵隊の男にとって憎むには充分な理由になる。
そうしてそれは先の大戦における敗戦、そもそもの第二次世界大戦がバックボーンであり、同じく日系人の警察官サカタが言うように「母の兄は、日系人の軍隊として編成され、ナチの大隊に殺された。そういったことではなく、憎しみも争いもなく自然の循環の中で死んだ」のがまさしくサチの息子のタカシだったのではないか、と思う。
だから息子の幽霊はサチには見えずに息子と同じ、サーフィンのためにハナレイに来た日本人の若い何も知らない二人には見えたのかもしれない、と今回読んでいて感じた。
もちろん、そんなことに関係はなく、サチはまた一年ピアノを弾き、毎年息子の命日の近くに3週間ハナレイ・ベイに行き続けるだろう。そのあまりにも悲しくて美しい文章が私は好きだ。

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