いや、暇だったわけではないんですけども、やっと一週間終わって、今週前に書いた通りぼんやり過ごしていたのでぼんやり考えていた話でもしますね。
姉とものの弾みで役小角の話になったんですよ、暇すぎて。どちらも参列しなかったから暇で、土日はさらに姉の方は下山する理由がないのでね、余計暇でね(普段寺に関係のない職の方なので偉い)。
役小角の伝説の話しろよ、なんでもいいから、みたいなことになって竜胆の話をしていてぼんやり考えたのですが、話がだいぶ迂回しましたが、なんか前から思っていたけども、あのバレンタインは伝説になったと声優の田中さんも言っていましたが、ハジメサイトーって愛が重いのよね。
新選組メンバーみんな、何がしか重たいところはある気がしますが、その中でも特に重たいのは斎藤さんだと思います。いや、初期の方のキャラなのに石田散薬のひともだいぶ色男怖いけどもね。
永倉さんと斎藤さんで考えた時に、いつも通り私の家のカルデアのこの二人はなんかいろいろあって斎藤がどうしようもないくらい落ち込んでいたから『助けてやる』くらいのお人よし加減から始まった関係、くらいに思っているんですが、ていうか永倉さんのあの性格ならあり得るだろ、そうして一方的に「新八」呼びで、永倉さんは「斎藤」であの温度差なの、CPとかそういうんじゃなくてなんかこういう温度差と言うか、唯一嫌いとかいうのも含めてなんか勘違いに近い絶望的な感情の差異がありそう、と思っていて書いたのが「亡羊」と「首を絞めて息を止めて」でした。
「首を絞めて息を止めて」を書いた時は永倉さんのバレンタインも見ていて、改めて「なんかこれおかしいだろ」という部分があって書いた話だったんですね、あの人はあの人で唐突に「お返しは映画デートな! 鰻屋も喫茶店も行こうぜ!」って言ってきたからね。どけ、私は永倉新八の彼女だぞ!(錯乱)
だけども斎藤さんは自分の後悔をストレートにぶつけてきて、今ならその後悔を「自分自身がなんとか出来る、してやれる」っていうストーリーじゃないですか。怖い、あれ。確かに自分には関係ない心中話に仮託してはいるけれど、ぐだのことを「今度は逃がせるしなんとでも出来る」と思っていないと出てこない話だし、そもそも『なんとかしてやる』、『してやる』『してやれる』という献身でありながらけっこう傲慢なんですよね、あれ。
で、思ったのが斎藤さんって「バレンタインの心中の話」、「邪馬台国の雨の中での沖田さんとの斬り合い」、「会津での土方さんとの別れ」この三つから「愛に見返りを求めない」タイプなんだろうなあと思っている、という。なんかこう、「愛に見返りを求めない」っていうと漫画とかドラマみたいに可愛いし献身的な感じになるんですが、FGOの斎藤一は違う気がするっていう底抜けというか底なしの怖さを感じるんですよねー、と思っている。
「無償の愛があるけれど、理想の愛があるタイプ」というか、「愛に見返りを求めないから相手に注ぎ続けるけれども、わりと理想が高い」というか。理想があるなら見返りがいるのでは? と思う部分はあるのですが、なんだろうね、そこにその人が存在している、過不足なく、問題なくそこにいてくれるのが見返りなんじゃないかなと思う。でも実際には時間は過ぎるし、人は変わるから「過不足なくそこにその人が存在し続ける」ことはほとんど無理ゲーなんですよね。
沖田さんに対しては「山南さんを斬るなんていう残酷なことをしないで笑ってそこにいてほしい」
土方さんに対しては「いつまでも一緒に生きていて欲しいからここで止まってほしい、死なないでほしい」
っていうのが出てきますが、これで「絶対に新選組を裏切らない」≒「俺を裏切らない」と自分が新選組の副長が言っているあたりわりとやべえな、と思います。そのためだったらなんでもするし、それが結果的に見返りになるとしても、それさえあればなにもいらない人なんだなあと。
ガンダムSEEDFREEDOMって映画の話散々してるじゃないですか。昨年末に公開された映画なんですがヒロインの台詞に
「必要だから愛するのではありません。
愛しているから必要なのです!」(劇場版ガンダムSEEDFREEDOM:ラクス・クライン)
というのがあるんですね。作中でも一番大事な台詞だし、これが結果的な誤謬というか、主人公と相手の勘違いだったというか。ラクス構文とかネタになってたけども、わりとこれが理解できなかったからキラ・ヤマト准将はことごとく暴走したんだと思うよ、という。
でもこの台詞を考えた時に、FGOの斎藤一も同じ間違いというか陥穽じゃないですけども、勘違いに陥ってすっ転んでる感じ凄いよねって思った、という話をまだしていなかった気がしたのでします、FREEDOMだけにフリーダムトーク、自由帳。
斎藤さんにって愛する部分は無限にありそうなんですよ、相手を愛する、本当に好きになるし、愛するし。土方さんでも、沖田ちゃんでも、山南先生でも、新八でも。
でもそこに「要不要」が出てくると訳分かんなくなるタイプなんだろうなあと。
いや、愛していることに必要不要を語ること自体がおかしい、というのは当たり前だと思うのですが、そうじゃなくて、そうなったときに斎藤さんは
「愛しているからどうしたい?」
って聞かれたら「???」ってなるタイプだろーなーっていうのは前に沖田さんに監禁される話でも書いたけどもね(これはひどい)。
相手に愛を渡し続けることが出来るし、愛し続けることが出来るし、見返りを求めないし、仮に相手から愛されなくても愛することが出来る。でもその一方で「相手が何かを求めてきた時に応えられない」のだろうなあ……とバレンタインを見ていて思います。
だからぐだに対して「今度こそやってみせる」っていう自信があるのかなって思う。なんか無根拠な自信が……。無根拠っていうか「あんなに愛していたのに土方さんは逃げてくれなかったけどもこの子は逃がしてみせる」っていう部分もあるのかなあと思うからなんかこう、こう……構造的な愛情の歪みを感じるぞハジメサイトー。
一方通行とも違うんですよね、なんだろう、とずっと考えていたのですが、与えられることに慣れていないのかなあと思っています、今は何となく。
自分の書いたもので申し訳ないんですが「首を絞めて息を止めて」を書いた時に、どうしても書きたかったのが永倉さんの方から「何が欲しい」と訊かせることだったんですね、訊かせたけども。自分で書いてもけっこう冷たい話になったなあと思いましたが、なんかね。
「これだけ愛したから○○をください」っていうのが一切ないから逆に怖い、みたいな。実際にはあるんですよ、「そのままずっとそこにいてください」「どこにも行かないで」っていう願望はあって、でもそれは願望であって「愛しているから愛されたい」訳ではないというなんか構造的欠陥じゃねえかコイツ……って思う。好き。
そうなると根本的に「必要だから愛している」のかもしれないね。「愛しているから必要」なのではなくて、そこにいてほしいから、いてくれないと困るから、怖いから、必要だから愛している、という部分があるのかなあと。
「愛した結果必要になった」というよりも「必要だった結果愛した」みたいな。運動が必要だから求めて走った結果、走ることではなく回し車を愛してしまうハムスターみたいな(表現が下手)。
そういうところが斎藤さん可愛いね、カッコいいね、と思っていたからこそ沖田さんに監禁されたり、永倉さんに捕まったりといろいろあったのですが、改めて「亡羊」と「首を絞めて息を止めて」を書いていた時から考えていたのが、永倉さんにとっての斎藤は「どうしてほしいか分からない」という部分が大きかったんじゃないかなあと思う、すごく。
どんなに愛していても、好きになっても、与えても、結果的に「斎藤の欲しいもんが分からん」ってなって手を離してしまったのが永倉さんなのかなあ、とか。これは恋愛が入っていますが。
恋愛抜きにしてもFGOの永倉新八自体が武雄さんから「真っ当すぎた」と川中島で評価されていて、面と向かって言われているし、過去の自分に対する後悔と葛藤から「全盛期が二つ」の「狂戦士」という形で現界している、という。狂っている理由が「新選組という組織に存在するには真っ当すぎたから」と解釈すればわりと大変なことになるなーと未だに思います。
この間このブログにのっけた氏真様と武雄さんの小説でも考えたのですが、そういう意味で服部武雄や伊東甲子太郎にとって、斎藤一よりも永倉新八が自分たちと同じように新選組から離脱するだろう、と思ったのは当然の理だったのかなあ、と。特に伊東センセはそう思ったと思うなあ。
というのが、FGOの永倉さんは自分のことが好きだと思う、とても。実際に新選組としての過去とその後の顛末記として後にまとまるものを語った過去の二つの霊基になっているサーヴァント、というのはだから狂っているのかなあ、と。
ナルシストとかじゃなくて、すごく健全な意味で「自分のことが好きでいたいから、道に外れたことをしないように努力したい」と思っている人だと思うし、だから「常に自分を愛せるように考えて行動する」っていう律し方が出来るタイプなんじゃないかなあと。それが「自分のことが好きだから、周りのやつらのことも好きだ」っていうふうになっていくし、「周りのやつらから嫌われるような奴にはなりたくない」っていうのもあるのかなあ、と。そういうふうに周りが出来上がっていくタイプだと思う、何て言うのかなあ、明るいとか陽キャとかそういうんじゃなくて、「己の欲せざるところ人に施すことなかれ」を地で行くタイプに見える。要するにただのいい人。
だから、斎藤と反目するのかなあと思う部分はあります。何をおいても土方の言うことを聞いて「自分(永倉)に隠して」「沖田に隠れて」「山南先生に隠して」何かやっているのが斎藤の『本意』であれば「嫌いだ」程度で済むんでしょうが、それが『愛情』だったらこの人混乱か錯乱するでしょ、意味不明すぎて。それこそまさに「己の欲せざるところ」を「人に施して」いる訳ですからね。この言葉、嫌なこと以外でも使えるんだなあって変な気付きを得そうだな。
この間書いた服部君の話ですが「自分で考えて、自分で抱えて、自分でやらなければならないことを『伊東先生に任せて』、結果的に死なせた」「それを少なくとも永倉君は自分で考えてこちらに来なかった。そのことを結果論で語りたくないけれどその差異」について服部君がしゃべっている部分がありますが、結局自分の好きな人や好きな場所≒新選組が変わっていくし、家臣扱いされるし、伊東にも理はあるが、その場を変えるのも自分が好きなら仕事の一つではないか? となった食い違いだったのかな、とか思います。それは以蔵さんが武市先生を死なせたと思っていたり、それを田中君が指摘したけれども、その中で田中君自身が「嫉妬するような小人」と自分自身で言い切ったのも同じように、その関係性を分かっていたし、自分もそうやって利用されていたと分かっていた田中君も「ならば立ってください」だし、以蔵さんは武市先生をぶん殴るし分かるように言えと、言葉が足りないと言うあそこもそうなんですが、だからというか。田中君も武市先生も坂本さんも、分かっていても言葉にして語るべきだった。それは田中君もだよ、以蔵さんもだよ。信用や親愛で隠さずに嫉妬や不満を言わないと分からないからさ。武市先生だってさ、最期に以蔵は優しいから分かってたって言うけど、オメーはよぉ! 田中君がそんなふうに分かり合ってる土佐の三人に、以蔵さんに内心そういう疎外感を感じていて、それを嫉妬と表現していたら泣くわ……脱線しました。
だから武雄さんが言う通り「あそこにいるには真っ当すぎた」感性を持っていた永倉さんにとって「いくらでも与えるし、好きになるし、何でもやるし、愛しているからどこにもいかないで」っていう斎藤の土方や山南先生や沖田への気持ちの傾け方が最初は憐れだったし、段々自分も好きになってみたら今度はそうやって愛された時に何が出来るか分からなくなるし、結果的に繋ぎ止められないとしたら斎藤に愛される価値はなかったし、与えられたものもなかった? と思って絶望しそうだなあと思っている、という。話にして書けばって言われそうなんですけどもね。
「首を絞めて息を止めて」は一応そういうつもりで書いた話でした。
あと、この話にも出てきますがFGOの土方歳三は斎藤のそういう愛情の掛け方を分かっていて、分かっていて可愛がっていたのかなあと思うというところはあります。恋愛的な意味でもないし、利用したわけでもなく、「亡羊の嘆」という本の方の書下ろしに「存在証明」という小話を入れたのですが、永倉と土方の斎藤に対する認識の相違の喧嘩みたいな話なんですけど、この二人いつも喧嘩してんね。
個人的に土方さんの斎藤さんへの評価のイメージはその話で書いたんですが
「そうだ、おまえの言う通り、刀として、道具として、沖田と斎藤は使い途が違う。俺は同等に評価しているつもりだが、使える場所は違うだろう? おまえは鉈で大根切るか? 違うだろう、包丁を使うだろう? そういうこったよ」
という感じ。使い途の違い。十二分に評価しているし、好いているし、返せるだけ返しているけれど、それが斎藤の望むものではないことも、使い途として一般的に間違っていることも分かっていてやっているから永倉からすれば反吐が出るような内容なんですが、土方から見るとどっちかというと「意味も分からず」、憐れまれて、愛されて、捨てられるならそれは「永倉も斎藤も憐れになるから、それくらいならやめておいた方がいいと思うぞ」というちゃんとした考えはありそうなんだよね、あのバーサーカー。
「俺は俺のことが好きな奴が好きだ」っていうとても単純な結論に至るまでにすごく長い迂回をしそうだけれど、そうと決まったら絶対になんの呵責もなく「だから俺のことを好きにさせる」ってなると思う。逃げられないね、斎藤君。
無償の愛があるってそういうことだと思うよ、見返りはいらないとか理由がいらないとかそういう範疇を超えているから、そうなると逃げるのも無理ゲーだね、逃げなくていいよ、一生捕まっていてね!(頭の悪い結論)