鏡像段階(土沖・伊沖)

ふと思いついて書いただけなのですが、新選組時代の伊東先生の独白です。土沖時空ですがなんというか伊東先生も相変わらず二人に手を焼いている感がすごいので一応伊沖にもなるのかもしれません。

相変わらず伊東先生がよく分からないことを考えているのですが、本文の前に書くのも流石に何なので、話のあとに参考資料と適当な言い訳を書いておきます。

 

鏡像段階

 

「鏡」

 一言言って、鏡を見る。鏡。姿見。すがたみ?
 姿を見るもののことを鏡と言うのか? と改めて考えて、それからぼんやりとその姿見の中の自分を僕は「見たことがない」という現実を受け入れた。

「自分と他者の境界線がない」

 それは唾棄すべきことだ、と思いながら、それでも未だぼんやりと、その姿見のある部屋に横たわっている少女を見る。
 沖田総司という名の少女には、自分と他人の境目がない。
 あるのかもしれないが、僕にはないように見える。正確には、彼女には彼女自身と近藤勇という男、そうして土方歳三という男との境目や差異が存在しないのだ、と。

「それはとても危険なことのように感じるし、とても安全なことのように感じる」

 やはりぼんやりと呟いてから、どうしてこんなことになったのか、と考えて溜息をついた。そうだった。久々に沖田君が倒れて、それはいいんだけども、そういう時に限って土方君も斎藤君も飲み歩いてきた翌日だわ、永倉君は余所に行っているわで、山崎君から『見ているだけでいいですから』とかいう無理難題を吹っ掛けられたのだった。服部君に頼もうかとも思ったが、『心配性の服部先生には負担なだけでしょう』、と山崎君に言われれば言い返す余地もない。というか僕は何だと思われているんだ、本当に。

「猫っぽさはあるね」

 狼だけど、と壬生狼という蔑称を思い出して自嘲気味に言ってから、ふと髪を梳いて考えた。彼女は自分の姿を本当の意味で見たことがない。
見たことがないというのは、本当の意味で安全なことなのかもしれない。

「異人のような髪、青白い顔、どこか涼しい瞳、華奢な体――もう数え切れないくらい血を吸った全身」

 見えない、というのは幸せなことかもしれない、と思ってから撤回する。幸せ、というよりはやっぱり安全なことだ、と。

「鏡を見た時にさ、最初は気がつけないじゃない。それがなんだかなんて」

 それが自分だ、などと幼児は気が付きはしない。気が付けない。ただ、その鏡に映る中で自分が四肢を動かした時に同じ様に動かすものがある、と意識をし出す。それが結局自分だと気が付くことは「とても危険なこと」だ。そうしてそれを自分自身であると判じることは「命懸けの行為」だ。

「なぜ? たとえば君は笑うことを知っている。でもそれは君自身が身に着けたことではない。君の周りの人間が笑う時に、君はその表情をまねる。その結果として笑うという行動、表情が可能になるが、それがどういう雰囲気の時に、どういう意図をもって行われるかまでを模倣すれば、それは『笑う』という行為として修得される」

 深く眠ったまま目覚める様子もない沖田君の額の布を替えながら、呟くように言った。熱を冷ますために宛がったそれはぬるくなっていて、水に浸しておいて替えた布を額に乗せれば、少しだけむずかるように顔を揺らしたが、彼女はそのまままたゆっくりと呼吸を続けて寝入っていた。

「熱、少しは下がったみたいだね」

 布を替える狭間に触った額は、山崎君に言われて看病というか世話を焼くのを始めた時よりもいくらか冷えている気がして、この分なら土方君やら斎藤君のお馬鹿さんたちの酔いが醒める頃にはよくなっているかもしれない。
そう思いながら続けた。

「そうだね、人は模倣から始まる。あらゆる動作も感情も、模倣から始まると言っていいだろう。だけれど、鏡だけは違う。いや、違わないのかもしれないけれども、違う。それが『自分だ』という大きな『誤解』によってしか自分自身を獲得できない、というところが模倣とは違う部分なんだろう」

 鏡に映る自分自身を認識する、鏡に映っているのを自分だと認識するまでにはたくさんの関門がある。そもそもにして、鏡に映っているのが自分だけではなく周りに布団があれば? 文机は? 筆や紙があったら? ……それこそ、刀が置いてあったら?
そういう時に、なぜ鏡に映っているその中からたった一つを『自分だ』と『誤解』することができる?
 それはとても危険なことで、論理が破綻している。だからそれは、そこに映っている等距離の刀を『自分だ』と『誤解』してもなんら不思議なことではない、というふうに論理を組み立てても誰も何も言えないことのはずだ。
 だって僕らは、自分自身の顔を見ることが永遠に出来ないのだから。
 鏡を介して、写真を介して、絵画を介して、そんなふうに介在するものがなければ、僕らに見える自分自身の姿は腕と足と、せいぜいが胴体というところだろう。自分の背中を見られるほど僕は体が柔らかくないし、況や自分自身の顔を自分の目で拝めるような能力はそなわっていない。誰だってそんなものだろう。

「だから、ね。鏡に映っている自分を自分自身だとみなすのは、とても危険なことで、同時に命懸けの行為だ。これが自分だ、と自分自身を俯瞰した瞬間に、自分を手放すことになるのだから」

 そう言ってから、僕は何を言っているのだろう、と思った。そんなことが言いたい訳ではないし、そんなことを今の彼女に行っても意味がない。何よりも、沖田君は今、眠っているのだから。

 だが。

「だから君が羨ましい、とか言ったら怒る?」

 沖田総司という名の少女には、自分と他人の境目がない。
 正確には、彼女には彼女自身と近藤勇という男、そうして土方歳三という男との境目や差異が存在しないのだ、と。

「それはとても危険なことのように感じるし、とても安全なことのように感じる」

 そうもう一度繰り返してみて、それが確かなことを考える。
 彼女の中には、『沖田総司』などという少女は存在しない。
 近藤勇と土方歳三の『刀』として、沖田君は自分自身の存在を獲得して固定した。
 深く眠る彼女の呼吸で上下する肺臓に、僕は刀を突き立てたい程の羨望を見る。

「羨ましい限りだ。道具、という意味ではなくてね、君は自分自身を獲得する機会を永遠に失った。『沖田総司』という存在のすべての責任をあの二人に預けることが出来た。だから君は何不自由なくその刀として生きられる」

 その肺臓に、刀を突き立てたい程の憐憫を見る。

「君はたぶん、永遠に君自身になれない」
「何の話だ」

 そう呟いたところに、かたんと障子戸が開く音がした。

「やっほー、土方君。君が酔っ払って起きてこないから、可愛い可愛い沖田君の看病を仰せつかってしまったところでね」

 笑顔で言ったら、その見るからに不機嫌そうな顔の土方君から手で払われた。出ていけ、という意味だろうけれども、そんなふうに邪険に扱わないでほしいなあ、もう半日も面倒見てあげたんだからさ、なんてね。

「俺の欲望はこいつの欲望だ。それで何が悪い」

 部屋から出る間際に、土方君にそう言われた。見透かされているようなそれに、思わず笑みが漏れる。

「君に与えられるほとんどの物は、もう既に沖田君が持っているものだと思うんだけどなあ」

 それを彼女が分かっているかいないかは、知らないけれど。

 

 

 

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ジャック=マリー=エミール・ラカンの提唱した「鏡像段階論」の中の「鏡像段階」を基にして書いた話です。イトセンが喋ってますけども、ラカンがこの説を提唱したのは年代的には新選組と規定すると100年後くらいですね(1930年代くらいの初期のジャック・ラカンの説)。

Wikipediaから引用すると
「幼児は、いまだ神経系が未発達であるため、自己の「身体的統一性」を獲得していない。つまり、自分が一個の身体であるという自覚がない。言い換えれば、「寸断された身体」のイメージの中に生きているわけである。
そこで、幼児は、鏡に映る自己の姿を見ることにより、自分の身体を認識し、自己を同定していく。この鏡とは、まぎれもなく他者のことでもある。つまり、人は、他者を鏡にすることにより、他者の中に自己像を見出す(この自己像が「自我」となる)。」
だそうです。相変わらず要約されているはずなのにラカンは言ってることがいちいち面倒だね。
鏡を含めた「他者」の振る舞いや身体によって「それは自分ではないか」という錯誤によって自己像や自我を獲得する段階であり、その時に獲得した自我は得てして自分自身にとって有利かつ有益なものである、とかそういう雑なまとめ方しておく感じですね、伊東先生が作中で話していたのは。

伊東先生さぁ、新選組時代は沖田さんを怖いと言うけども、結局伊東先生に止めを刺したのは沖田さんだったのに、五稜郭で沖田さんのことを突き放すようにしながらも、あれって結局「君は新選組以外でもう少し頑張りなさい」っていう意味だよねってずっと思っています。
それは「土方君の刀止めなさい!」ということだろうし、「斎藤君や永倉君に依存しない!」ということだろうし、「山南君は甘やかさないで!」ということでもあるだろうなあと。
あそこまで新選組にいろいろ吐き捨てても、あそこまで沖田さんだけ鮮やかに「君は別に関係ないからいいけど」と許したというか取り除いた伊東先生ってさあ……うん、そうしてそれを「とっとと失せろ」という土方さんもさぁ、分かってたよね。
過去の沖田さんがいかに歪んだ自我とも言えない何かを獲得してしまっていたか、カルデアに来てどこか何かやり直せた部分があったか、じゃあその先どうしたらいいのか、という部分。
沖田さんの在り方も、土方さんの在り方も、どちらもただの甘えだと断じたように思えたから、伊東先生が好きなんですよね。

中に出てくる最後の台詞二ヶ所はジャック・ラカンの名言の邦訳を改変したものです。

・「人間の欲望は他者の欲望である。」
・「愛とは自分のもっていないものを与えることである。」

覚えているのがこの二つしかなかった馬鹿なので本を読み直すことにします。

「鏡像段階(土沖・伊沖)」への2件のフィードバック

  1. 緋雨さん、お疲れ様です!
    サイト改装のなか大変ですが、伊沖拝読しました!!

    ラカンのことは名前しか聞いたことのない門外漢ですが、作品に上手く導入されていて、相変わらず素晴らしいです…👍
    私の理解力だと、要約されたものでもなかなか分からないものですが、
    いとせんの人間愛があったかいなあと。この人、クールなように見えて一番熱いしあったかいんですよね。
    確かに沖田さんも土方さんも互いの関係が共依存的で、健康ではないですからね〜それも美味しいですが、諌めようとしてくれる緋雨さんのいとせんが私は大好きです!!
    ありがとうございました!!😊

  2. ありがとうございます!
    ラカンは私も専門外で、三冊くらい読んだだけなので適当解釈です💦めっちゃ面倒な人!くらいの認識です!(これはひどい)

    そうなんですよね、いとせんはこう、人間愛じゃないですけども、氏真様や服部君への気持ちもそうですがしっかりした気持ちがあってのことだから、間違っていたと思った関係性や新選組を糺そうという思いがあった優しい人なのかなあと。共依存的で不健康、そうですよね、沖田さんと土方さんの関係を諫められる立場なのかなと思います。

    滅茶苦茶に趣味に走った話でしたが、ありがとうございました!

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