DIOと親子の考察(DIOとジョルノ)

たまたま頼まれて読んでいて思いついただけなのでそこまで深く考えていなかったのですが、正月に読んでいた本がそれとなくこの親子に似ていたのでぼんやり眺めまわしていました。

アルベール・カミュっているじゃないですか(とても唐突に始まりますよ)。
あの人の本を読んでいたんですねー、新年から読むもんじゃねぇなあって思いました。
「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。知りたいのはどう振舞うべきかです。もっと厳密に言うのならば、神も理性も信じないでなお、人はどう振舞い得るか、知りたいのです」
1965年の本か原稿ですね。出典とかタイトルとか忘れた。これはメモってあったものなので訳文としては役立たずです

これに付随する構造主義がどーのこーのという話は別段どうでもいいのですが、これ読みながらぼんやり考えたのは「システム抜きの世界を構築しようと思った時に」ということです。
システムからの脱却≒世界からの脱却、人間からの脱却、貧困からの脱却、苦境からの脱却と考えた時に「うーんDIO様、最初の動機はその程度でしたね~」とか思った。そうしてそれは息子であるジョルノも案外そういうところがある。でもDIOの最大の問題は自分自身がシステム側になったことだからねー、という。
ジョルノの場合は問題になるというよりも解決策としてそこに至っているからむしろDIO様よりも進歩があるんだけども、システム側に介入することで制度を支配する側に回るという。

DIOの場合はシステムそのものになってるんだよねー、という。
システムとか構造とか、救世主でありカリスマであり、更に言えば神。
私が今あるような存在になったのは「この御方がいたからだ」と思わせる悪としてのシステム。
今更気づきましたが、だからたぶん私はンドゥールやヴァニラやプッチの考え方が今一つ理解できないのと、花京院があそこまでDIOに心酔していたことと、それと同時に相反するように反吐を吐くほど恐れていたこと、そうしてそれからその体験を「惨め」「戻らない」「どうかしていた」と全力で否定しようとするのか、今一つ言語化出来ないままに悩んでこだわっていたのだなあと納得しました。

ということでこの話面倒なのと私は納得したのであとは追記。

 

そこには構造的欠陥が! とかそういう難しい話ではなくて、もっと単純に「装置としてのDIO」が好きな人間がいくら集まってもDIO本人にとってそれは別段……となるからまあそれはどうにもならんよね、と思ってしまっただけです。
ンドゥールに承太郎があそこまで敬意を表せたことも今なら分かるけども、私の性根としては多分分からんのだと思う。私自身に真っ当な感性がないというか、私が善性に欠けた人間だからというのも十分にありますが。

プッチ神父の「神を愛するように」というのもDIO様側との感情の乖離が激しすぎてね……DIO様死んでて良かったと思うし、天国に到達できなくて良かったとさえ思います。

うーん、まあ、そういう感じで、人間としてのDIO様を見ていたのはやっぱりジョナサンとエリナさんとスピードワゴンさんなんだろうし、だからディオがJOJOと呼ぶ相手はジョナサンだけなんでしょうねーとは思います。
なんで花京院が好きかも分かった気がした。
システム依存の人間だったのがシステムから抜け出して、秩序を構築したけれども、結果的に彼が取った行動が「システム(父)に挑んで敗れる」という蓋然的な父抜きでは存在できないキャラクターだからかもしれない、みたいな。
花京院はやっぱり死ぬのかー(そこかー)。

「システムを全てコントロールしている支配者がこの世には存在し、この世の価値あるもの全てを独占している」
うーん、何世代か前の哲学論文の鉄則みたいな文章ですけども、これを端的にあらわしたのがDIOみたいになってるなーと思ったとか思わないとかなんとか。

そのシステム自体、DIO自身には自覚はあってもそういうふうに扱われることを別に望んでいた訳でも願っていたわけでもないから、君が裏切っても裏切らなくても、頑張っても頑張らなくても、結果的にはああなったのは君自身のせいなんだよって気が付かないことには先に進めないんだよ「花京院君?(cv.子安さん)」ってなるんだなあって思った(ひどすぎる)。
じゃあなんで同じような経過なのにンドゥールより花京院に惹かれるかというと、花京院は自分自身の不能感をDIOにいったん全部預けて安心しきってから「それは自分の責任だ」と気付けたからかもなー。これはずっと変わらない安心感はある。安心感というか、花京院典明はなんつーか……あのまま日本にいたらまた誰かにいろいろ押し付けてそのまま生きていそうなところあったけども、何だかんだとエジプトに行ってみて、というかそもそもDIOに出会って恐怖というものを経験してみて、その恐怖以上の安心感を得てしまってから「それは自分の結果」というものを得られた割とまれな方面でマトモなキャラだと思う。

今更ながら、このサイトを見ている方はだいたい知っていらっしゃる方が多そうだなあと思いつつも、死ぬことで完成するタイプの物語にあまり惹かれないのですが、花京院に限っては昔から死ぬところが一番好きだったのはなんでだろーなーと今までは考えようとも思いませんでしたが、死なねーと完成しないからなーとは思っていました。ストレス耐性がとても低いので、好きなキャラが死ぬとわりと耐えられないタイプだからなるべく死なないでほしいのは昔から一貫しています。ネムちゃんも八號ちゃんは可愛いけども……!!(この管理人まだ言ってるよ)
だけども花京院典明については「最期が好き」と昔からずっと思っていたのは、ああー、花京院って死なないとそもそも自分の存在を受け入れることからして不可能なんだなあ……と改めて思ったとかなんとか。
新年早々何読んでんだろうね。

注:「構造主義について掻い摘んで説明して」と死ぬ程面倒くさいことを言われたのでソシュールの一般言語学から始めようとしたら「もっと短く」って言われて頭に来たのでカミュまで端折ったら「中身がない」って言われたためこれを考えていました。ソシュールで短くしろ、カミュで中身がないと言えるということはニアリーイコールで構造主義のだいたいの中身分かってるはずなので「お前がやれ」と言って本堂から帰還してDIO様とジョルノ親子のことと花京院やンドゥールの違い考えていた。寒いのに最悪だよ(はたらけ)。

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