読んでる

今週が終わるとほとんど休みがないので、今日から頑張ろう、今日から頑張ろうと毎日言っていたのですが本当に今日から頑張ることにしました。万年暇人のくせにと言われそうですが、御盆と正月は忙しいんですよ! それはそうだね!

それもあって今日から頑張るをずっと言っていたので本当に今日から頑張ることにしました。昨日までは読書をずっとしていました。なんかもうインプット作業以外できなくて、今日HTML組んだら久々になんか楽しかったです。夜はちゃんと寝ないとまた倒れそうだね!(⌒∇⌒)🐰(貧弱すぎる)
脳の病気ってなんだろうねコレ……と10年くらい経っても未だになにも分からないままに、とか言いつつも現在読書中ですが

今はこちらを読んでる。Xやイベントでお世話になっていて、先日メールで妹子さんに教えていただいた本。「戦国時代や織田豊臣から徳川の流れの簡単な本ありませんか!」っていう馬鹿みたいな質問に本当にいろいろ探してくださったんです、本当にありがたい。東国の争乱と合わせて読んでいます。少しは戦国時代というかあの頃の歴史に詳しくなってきた気がするゾ!(気がするだけだよ)
全部読み終わってまとめが書けるくらいになったらまた書きます。付箋やメモは大事だね。全くの素人だからね、ちゃんとやりなさい。

あと十二国記ずっと読んでいます。好きなんですよね。泰麒可愛すぎんか。更夜と犬狼真君とか続けて読むと泣いてしまうわ……。
それから体力が続く限りですが「騎士団長殺し」をなるべく続けて読みたくて読んでいます。こういう読むのに体力がいる面白い本好き。というか単純に主人公に対する何やってんだお前感がすごい(文庫本一巻目)。

だいたいオルタ斎藤さんのせい

さっきの「1Q84」読書感想文の続きに書くのもなんか違うのでこっちに書いておきます。あの本の中に出てくるポニーテイルの、足が長くて、背が高く姿勢がいい裏社会の男いるじゃん。
名前出てこないし、一切喋らないけども、動物的な勘で言えば上司の穏田よりも数段優れていて、人を殺すことに恐らく躊躇いが無くて、プロではないと言われてはいるものの、穏当な生き方は一切してこなかったあの人。

オルタ斎藤さんにしか見えなくなってきたんだが!?(※文字情報による目の錯覚です)

裏社会であっさり人殺して、背が高くて足長くてポニテで無口? 斎藤オルタじゃん(短絡思考)。

違うんです違うんです、さっきまで本当に読後の余韻でぼんやりと「これ結果的に穏田とポニーテイルは天吾のアパートに辿り着いて、その頃ちょうど牛河が空気さなぎの苗床になるけど、天吾と青豆は1Q84を脱出しているから、結果的にこの空気さなぎによって生産されるドウタは声を求めて……あれ? ポニーテイルぴったりじゃね?」と思っていたんですよ。だって無口だけども性格は森の人だし、なんならそのまま好きに使えるのはポニーテイルでは? と。

う、うわぁぁぁぁぁぁ!? 精神発狂ルートだ、やめてくれ!
と思ってから上のようなことを考えました。本当に申し訳ない。

めっさ被害者じゃん。そういう可哀想な斎オルさんの話でもしようか? 知らないうちに精神をむしばまれた挙句、気づいたら斎藤さんと沖田さんの子供の養育してる最悪な話とか考えてないよ、ほんとに。

読書 海幸さんとひびきちゃん

特にやることがないのと、最近仕事以外ではゲームをするか料理をするか経典の整理をするかしかしていなかったので、動画を見ていたんですが、動画……見尽くした感があるのと結構集中力いるんだね……と改めて思った。

そんなワケで30分に1回の休憩で読書しています。眠くなるからね、というのと医者から脳の処理速度的に無理すると入院させるよと脅されたから一日一冊が限度だね。
それで先程上げたように村上春樹さんの「1Q84」を読み終わったから感想を書いたりしていたのですが、次に何を読もうかなと思っています。何がいいかな。

今読みかけなのは
・前九年・後三年合戦の本
・奥州合戦の本
・織豊政権と東国の本
どれも吉川弘文館さんの本で、織豊と東国の本は米沢の上杉博物館でたまたま買った本なんですが、面白いからちまちま読んでいます。ちまちまなのは織田豊臣の頃の戦国以前というか戦国初頭の知識がないからいろいろ引いているうちにどんどん遅くなるから。大変遅いです。
前九年・後三年の役についてと奥州合戦についてはこの間いろいろあって買いました。有難い、有難い。吉川弘文館さんの本は素人に分かりやすいけれど専門的な史料が豊富で助かる🦝。だけどもなぜ私はこの本を持っているのか、と本気で昨日読みながら考えて購入伝票三度見くらいした。だって私これ、長屋王と藤原四兄弟の話してて結果的に買ったの意味分からな過ぎて……。奥州藤原氏の台頭というよりは地方豪族と蝦夷の滅亡の方の最近の通説的なものが読みたかったのですねぇ。長屋王かすってないのが困りますねぇ。

・さすおに 師族会議編
これが一番好き

・古事記・日本書紀・太平記、など
訳本以外持ってるわけないじゃん(それはそう)。磯良さんというか潮干・潮満と龍宮の宝、それに阿知女作法でふと思い出したから持ってきたんですね。
阿知女作法かぁと思いながらぼんやり眺めていました。思い出しただけです。
この本たち、自発的に入手した経緯もよく覚えていないんですねこれが。研究か勉強だったと思いますが、ほんっとうに何だったか覚えていないから、どこに置いたか覚えていなくて、イベント終わってから探し回って結局この間しまったばかりだったと思い出した(頭悪そう)

それでね!ここからが本題なんだけどもね!
海幸彦さんいたじゃんー、ひびきちゃんといると調子狂うって自分で言っちゃったじゃーん……。ひびちかが本物の愛情の百合なのは分かっているんだよ、そこに、そこに海幸さんを入れ込むのは罪深い行為だよ、百合に挟まる男だよ、それだけで罪人なんだよ、それは分かってる、私も分かってるし、おそらく海幸さんも分かってる(分かってないと思う)。
あのシーボルトさんが聖杯を渡そうとした時に起き上がったのは「見損ないましたよ、海幸さん!」って思ったんですが、ていうか単純にこのタイミングで起きるなや、普通にカッコ悪いぞアンタ! と思っていたんですが、いやー……ただのいい人じゃんか……。
弟さんのことも特になんとも思ってないけども、とりあえず呪いは邪魔だから解きたかっただけだっていう……ちゃんと謝ってくれる……だけどもひびきちゃん……そんなん心配になるよな……それに対して最後まで優しい顔して「調子が狂う」とか言っちゃう男かぁ……スキ!! ひびきちゃんを見守っていて欲しい、半径3メートルくらいの微妙過ぎる距離で。そういうのを望みたい……。

「1Q84 BOOK3」まで通読 感想

改めて読んでもこの本は本当に面白くて、没入出来て、一気に読むことは出来なくなってしまったけれど、とても夢中になって読んでいた。
それくらい楽しかったけれど、後に残るのはどうやったって痛みだけで、book3のラストまで読んでも何一つの充足感ももたらさない。ここまでの痛みを伴う話しか書かない、書けない村上春樹という作者は本当に凄いと思う。

技術論的なものは私には書けないし、中身の考察は成され切っているだろうから、個人的なこと。
私がこの本で最初から最後まで一番引っ掛かって、一番怖かったし、一番の原因だと思っているのは、どうやっても「ふかえり」だった。
ふかえりは何もしない。だけれど、この一連の「1Q84年」で起こったことの全ての原因は彼女だと思うし、全てが彼女から始まっていると思う。始まっているのはそうなんだろう、空気さなぎのことからそうだろうし、リトル・ピープルの声を聴くものであり、ドウタを生み出すマザの大元なのだから。
だけれど物語後半から「声を聴くもの」を「さきがけ」は必要としだし、それは「リーダー」だったことになる。あくまで「ふかえり」ではない、と。リトル・ピープルが必要としたのはふかえりだったはずだった。リーダーというか、深田保、深田絵里子の父は、娘の特性を知り、その声を翻訳する役だったからリーダーになった筈だったのが、そのリーダーが死んだ途端、その間にあったこと、穏田の言うことを信じるなら様々な流れがあって、リーダーは「リトル・ピープル」の声を聴けなくなった≒翻訳できなくなったから、ふかえりは既にマザではなく、だから既に「さきがけ」は天吾とふかえりから興味を失い、新たに「声を聴くもの」を受胎した青豆を「確保」し、おそらくは「マザ」となった青豆をも確保することに専心していた。

でもこれ、本当だろうか? 絶対という言葉はあまり好きではないから絶対ではないが、だいぶ違うと思う。
まず、ふかえりは「猫の町から帰ってきた天吾は御祓いをしなければならない」から、という理由から天吾と性交渉を持ち、「私は妊娠しない」という自身の中にある意味で「つばさ」と同じ「ドウタ」のような性質を示すが、それは違っていた。実際にふかえりではないが、その結果として「ふかえりではなく青豆が天吾の子供を受胎した」。「その時にリーダーは死んだ」。
恐らくふかえりはその結果を知っており、自身という「マザの大元」であり、つまるところは神の巫女、リトル・ピープルの巫女である存在として「マリアの処女懐胎と同じものを青豆に授けた」。「処女懐胎の父親は天吾である」。「二人は1984年に帰った」。「少なくともそこは1Q84年ではない」。「そこで『ちいさなもの』は慈しまれ、生まれるのだろう」。

私はこれに恐怖を覚える。

なぜか。ふかえりはほとんどすべてのことを見通しており、リトル・ピープルの善悪を示さず、それを良いとも悪いとも言わなかった。悪ではないし善ではない。それを以てだろう、父であり、教団さきがけのリーダーである深田保は、やはり「善悪の定義以前から我々と共にあるもの、存在しているもの」とリトル・ピープルを定義した。
そうしてふかえりは牛河のことを見通しており、知っていながらカメラに目を向け、「私たちは見られている」と天吾に警告したが、その時に既に牛河の最期を予見していた。最期を予見していなくとも、少なくとも彼女は牛河を見て、牛河に視線を送った。彼を知覚していた。でなければ「憐れむような視線」を彼にするだろうか? それは純粋な憐憫だったと見ることもできる。侮蔑でなく、無関心でなく、憎悪でなく、愛情でなく、憐憫。牛河という存在そのものに対する憐憫。そうであればそれは余計に性質が悪い。自分自身を肯定しえないものに対する憐憫。それは上位存在に与えられた特権だろうし、それを無意識的にせよ、意識的にせよ行うふかえりという少女は、まさに「マザ」、神の巫女であり、リトル・ピープルの同胞であり、ギリヤーク人の考えるところの森の人であると思う。
だからこそ、天吾との性交渉は彼女の意思であるとしか思えず、もっとさかのぼれば空気さなぎを天吾に書き直すことを『許した』ことも、青豆の存在を知覚していたことも、『空気さなぎ』の出版によって父、というよりは自身が巫女として仕える神の声を伝える者が死ぬことも、『青豆が新たなマザで巫女になり、その存在を生むこと』も、『天吾がそれを造りだし、その巫女の新たな神になることも』すべて織り込み済み、というよりは、既に神と巫女である自分の声を伝える者がそろそろ役に立たなくなるから、新たな代役を立てねばらならないことを考えたうえで、『空気さなぎ』を戎野先生の娘に語り、ずっとその機をうかがっていたから彼女はリトル・ピープル、及びその神に許されていたのだろうとさえ思う。

私にはこの1Q84という物語が「ふかえり」が自身の父、自身の巫女としての神の声を伝える者の限界を察知して、新たな伝道者を造りだすための物語に見えた。それは20年前に「天吾」と「青豆」が出会った時から巧妙に仕掛けられた罠であるように感じた。その時から周到に、二人を出会わせて、二人をアダムとイヴ以上に、ナザレのイエスと聖母マリア以上に、天吾を神とし、青豆を処女懐胎させ、新たな「神と世界を作り直す」のがふかえりの物語であり、それは「月が二つある世界を書き出した小説」で以て天吾に引き継がれ、「処女受胎し、天吾との子供を妊娠した」青豆によって引き継がれて、月が二つある1Q84年から月が一つの(今のところ)現実の1984年を侵食し始める。

二人は世界から抜け出したように見えて、ふかえりとその父によって新たな世界に送り出され、新たな世界を侵食し、新世界の神になるだけだと思う。

もっと言うならば二人の親がNHK集金人や証人会、さらに牛河の系譜、田丸の系譜、戎野と深田の学生闘争、その更に以前、そんな近代のことではなく、深田保が言うように、「善悪の定義以前から我々と共にあるもの、存在しているもの」、太古から文明とかそういう以前に人間の存在が自我を持った時点で「宗教」という存在証明を求めてしまった時点まで遡ることが出来る罠かもしれない、とさえ言えるほどに。それほどまでに深く、二人は「いずれ世界を支配し、侵食し、深田絵里子という巫女と、その声を聴く彼女の父が作り出した神の世界を広げる者になるだろう」。

私には「1Q84」はそういう物語に見えました。村上春樹の書く小説にしてはずいぶん趣が違うな、と。Book2までならまだそこから「死」とか「苦しみ」という形で逃げ切ることも出来た中で、Book3まで描ききることで、結果的にその物語が収束した場所はそういうシステマチックな部分だったのではないかなあと思うと同時に、このような物語を書く村上春樹というのはどういうことだったのだろう、という稚拙な考察を置いておきます。考察といっても私の脳の許す範囲&ネタバレというよりは他の様々な意見を入れたくないので、あくまでも私の感想です。後でウィキペディア先生と新聞の過去の書評欄くらいは読みたいですね。

村上春樹は繰り返し「システム抜きの世界」「神抜きの世界」「父抜きの世界」という「父権制イデオロギーの否定」というものを長らく題材にしてきたように思います。スピーチ「卵と壁」は有名になりましたが、あれは「システムというのは遠大なものだし、その中でどう振舞うか」というような話でした。でも「1Q84」を読むとそれは少し違う視点で見るしかないようなものに思えます。
「私は哲学者ではない。私は理性もシステムも十分には信じていない。私が知りたいのはどう振舞うべきかだ。より厳密に言えば、神も理性も信じないでなお、どのように振る舞い得るかを知りたい」(1965年 アルベール・カミュのインタビューの一部抄訳)
Book2まで読んだ時に、掻い摘んで読んだ書評にカミュのこれを引いているものがあったと書きました。「卵と壁」時点で、村上春樹はまさにこのカミュの「理性もシステムも神も信じていない状態で、どのように振る舞い得るか」というものを目指して、その一つの答えが「卵の側に立つ」ということだったのだろうと思います。それはその時までに書かれた作品に共通していたテーマでしたし、何よりこの作品でもBook2のラストに青豆が拳銃自殺しようとし、実際にその時点ではBook2のラストを読む限りでは脳天を貫いて終わったように読める、その時点では実行されたことでした。青豆は「卵の側」の存在として「システムという壁」にぶつけられ、もしくはぶつかり、無惨に文字通り破裂する。卵という存在はシステムという壁の前ではこれほどまでに無力であるが、青豆は確かに「システムの側のリーダーを殺害し、またそれによって天吾を救出した。そうしてシステムのほころびを衝いた」という点において、物語の執筆者としての村上さんは「卵の側」に立っていた。それはカミュが言うように「どのように振舞い得るか」という答えを示したということです。青豆は最後に誓いの言葉を叫ぶ。それは空言でした。だからこそ、「何も信じないままに、それでも世界の中でどう生きるか」という課題を克服した、はずだった。だけれど物語はそこで終わらなかった。

終わらせることが出来なかった、と私には思える。終わらせることが許されなかった。

ここからは推測です。実際に村上春樹さんが考えていることや、この本を書くにあたってのことは知りません。一読者でしかなく、上に書いた通り、これから当時のインタビューや書評を図書館などで仕入れたいと思っています。また、Wikipediaやwebで分かるところまでは調べたいですが、今はまだ自分で出来る範囲でアウトプットしたいので何も調べていないので、間違っているところは気にしないでね。

この本に出てくるいくつかの問題点を整理するにあたって、この物語を書くにあたって、村上春樹は「システム抜きの世界」「理性」「救済」「信仰」「殺人」「戦争」「神」「男女」というあたりのことについて、ある意味で「それは無理だ」という結論に達したのではないでしょうか。確か1Q84は日本では爆発的に売れましたが、海外の評価は話が回りくどいとかでいまいちだったと記憶しています。それはそうだろうと最後まで読んで改めて感じました。それはそうだ。この回りくどく繰り返される言葉の端々にある「申し訳ないけれども」死んでもらう、戦ってもらう、神になってもらう、助けてもらう、書いてもらう、住ませてもらう、生きてもらう、あらゆる「申し訳ないけれども」という修辞が、なんというかこれ、日本人にしか響かないから。日本人というか、なんだろう、ごく狭い地域にしか響かない気がしましたが、それでも書かずにはいられなかったのだろうなあ、と。それは世界性をもった文学ではないというか、もっと単純に村上春樹自身が書きたかっただけな気がします。

で、ここからは更に推測。歴史的事実や、村上春樹の今まで取材してきた事象(事件)や、『物語の中の』歴史的背景を含めて考察していますが、あくまでも「1Q84を書くにあたって、こんなことがあったのではないかな」という考察です。
そこには私の歴史認識も関係ないですし、更に言えば、実際の歴史も、この本で語られることも関係なく、むしろ「1Q84年」「月が二つある世界」という特異な場所と現実、非現実のファンタジーを書くにあたって起こったことへの考察です。
あんまり気にしないでね☆彡

1、1984年という60年代安保闘争と70年代安保闘争の記憶
2、新興宗教(オウムもそうだがエホバやそれに類する「終末論」を含むもの)
3、神とシステムと父と天上の方

このあたりかなあ。加えて「アンダーグラウンド」でも村上春樹は「オウム真理教」を扱っていますが、それよりも更に深化していったのがこの本だったような気がする。その宗教に対して、というよりはもっと表層的な部分になっているように思えますけども。村上春樹のオウムのテロルに対する取材の話は有名ですし、この本にも関わるのでしょうが、オウムの話はいろいろ面倒なのでしません。すみません。

1、安保闘争
前にも十二国記の感想で書きましたが、私は本当に世代ではないので、学生安保闘争については記録や書籍、或いは人から聞いたことがある、というくらいでしか知りません、本当に70年代安保の時に20歳で東大生の人が単純計算で今70代ということになりますからね。60年代安保とかもう訳分からんよ。調べて研究未満のことはしていますから少しは喋れる、程度と思ってね。ということですが、今回の「1Q84」にも深く関わるのではないかなあと思います。東大の安田講堂だの、総理官邸前一斉検挙だのがありましたが、それはこの本にも確かに出てきて、その学生闘争の指導的立場にあった生き残りが戎野先生であり、その友人である深田保であり、そうして片方は学者として生きていき、片方は山梨の山間部にコミューンを形成していく。歯車が狂ったのは深田の娘、絵里子、後の「ふかえり」が戎野のところに逃げてきた時だった。その結果として出版された『空気さなぎ』がコミューンの闇を暴いていき……とこの本の中心的な問題なのですが、安保闘争のことは本当に最初期に戎野先生から深田家のこと、さきがけとあけぼののことを語る時に僅かに語られるだけで、流されてしまいます。
ですが、これがこの本の主軸であるように思えるのです。なぜでしょうね。
思うに今の70~ギリ50代くらいの作家、文科系の作家にとって学生闘争は避けて通れない部分ではあるのではないかなあと思います。小野不由美、高橋源一郎、村上春樹、赤川次郎……枚挙にいとまがないですね。
脱線しますが、小野不由美の「十二国記 月の影 影の海」で語られる学生闘争に関係する部分は本当に数ページ、直接的な描写は数行、一ページに満たないと思います。「壁落人」は学生闘争のさなかに異世界に紛れ込んで、そこで生きている。終わり。
だけれども、その描き方はあまりにも冷たい。「帰りたいと思わなかったのか」という問いに「新天地に来られたことが嬉しかった、時代に倦んでいた」と壁は答える。それはまさしく学生闘争のぐちゃぐちゃな感情だと思います。そうして「せめて門まで日本の話をしましょうか?」という問いに「必要ありません。そこは私が革命に失敗して逃げてきた国です」という一言のあとには何の説明もなく、次の章が始まり壁の出番はその後一切ない。
東大の安田講堂、革命に失敗、時代に倦んでいた、この辺りの断片的な情報から壁は学生闘争に参加し、そのさなかに十二国のある異世界に紛れ込んで定住した、と予測は出来ますが、小野不由美の筆致はそこだけが切り取られたようにあまりにも冷たいと感じます。責めるでもなく、称賛するでもなく、ただ冷たい。
ただ、陽子という異世界の国の王になるべくして連れてこられた少女にとって、新たな国を作ること、国を治める王になること、国を捨てて帰るのか、帰らないのか。剣を持って戦うのか、戦わないのか、というものを突き付ける時に壁落人という、安保闘争、革命、国から「逃げて」その異世界の国に流れ着いた存在を小野不由美は書かずにはいられなかったのだろうなあと思います。ライトノベルという括りのファンタジー作品であえて書くこともなかったのかもしれないのに。
1Q84の中でも語られた学生闘争に話を戻せば、というか、小野不由美の描いたこれが全てで、この考え方が全ての根底にあるのだろう、と思わせるようなものが「1Q84」の根底にもある気がしました。
「学生たちや、先導し、先導した指導者たちは時代に倦んでいた」が「その革命は失敗した」し、「多くの者は責任を取らず逃げ出した」。そうして「その革命というのがなんであったのか、今になっても誰にも説明できない」という。
学生闘争は日本の中の東大とかそういう上澄みとまでは言わないですけどもインテリジェンス層の学生やら研究者やらそういった人たちが主導しての、派閥もいくつかありましたがざっくり言えばマルクシズムでした。共産主義。でもあの状況でアカになる意味はないし、その後の展望なんてどこにもなかった、と思う。
何度か書いているけどもね、マルクシズム、コミュニズムが機能しえたのはそれを提唱したマルクスやエンゲルスが「ブルジョア階級」だったからです。彼らは決して「プロレタリア」ではなかった。そうだというのに「プロレタリアを解放せよ」と言った。そうして近代日本や現代日本ではコミュニズムを共産主義、と訳したし、それを赤と全世界的に呼ぶし、極右(時代によってもしくは極左、これ本当に極端でよく分からない部分はありますね)と呼ばれる政治思想になりましたが、正式な訳語は本来的に「共同体主義」とか「共有主義」というもののように感じます。私はそこまでドイツ語に通じている訳ではありませんが、少なくともコミュニズムと言われて「共産主義」とか大戦時のドイツやらイタリアやら日本やらの帝国主義やナチズム、現代の中国の「共産主義」に通じるところを感じるものは一切ありません。「共同体主義」とか「共有主義」と訳すべきだと思うし、一般的な「コミューン」とか「コモン」から派生した言葉であればそうであるはずだったと思います。だって単純にキリスト教系の教会とかの前にある「住民の共有地」のことを「コモン」と呼ぶわけですからね。私有地じゃなくてそこは共有地ですよーっていうところを「コモン」とか「コミューン」と呼び、それは主義とか主張とか政治思想以前に、もっと単純明快に住民単位の共有地、村の公民館みたいなもんです。公民館っていうと管理者が市区町村になるから更に違ってきて、村とかそういうんで共同で管理するなんかそういう共有の場所です。空地みたいな、村の祭するとこみたいな。それが共産主義になるかい、訳したやつは馬鹿なんじゃないかと思います、別段、マルクスにもエンゲルスにも思想的に共鳴するものは一切ありませんが、訳語としては言語的な意味で馬鹿なんじゃないかと思います(馬鹿はひさめさんだよ)。

で、世界史の授業とかにもあった気がしますが、「囲い込み」が始まって「共有地(コモン)」から追い出された人々がプロレタリア(労働階級、小作人)となり、それを富裕層であるブルジョアが使役するのは間違っている、とマルクスやエンゲルスはぶち上げて、「本来この共有地、及び共有地から得られる財産は彼らプロレタリアのものであるから、プロレタリア、労働者を解放せよ」ということになったわけです。ざっくり。歴史的な背景は抜きにすると、ですが。
これがプロレタリアから発せられたものだったとしたら「私たちの居場所を返せ」という返還要求を呑む者は誰もいなかったでしょうが、実際に奪った側のマルクス達が「彼らに返さなければならない」と言い出したらそれは聞かなきゃならないことだった。だって実際やったことだから、そこには理性やら罪悪感やら、真っ当な感性があれば何となくでもそういう気分になるから。
マルクスの社会主義が大きく受け入れられたのはそういう点が大きかったと思います。あくまでもマルクスは奪う側だった。
ですが、そういうマルクス主義やコミュニズムは第二次世界大戦を境に、というよりは「共産主義の悪用」によって大きく衰退します。衰退という言い方が適切かは知りませんが、少なくとも資本主義経済は立てなおされ、グローバリズムが進み、社会主義的、共産主義的観念は悪とされました。その可否はよく知りませんというか、今現在、私は資本主義経済に生きていて、社会主義経済には生きていません。アンチグローバリズムがどうとか、資本主義の限界とか、いろいろありますが、『今現在』という修辞をつける限り、資本主義じゃないでしょうか。マルクスは資本主義を終わらせて社会主義に移行することを説き、それが受け容れられましたが、それは二度の大戦によって倫理的にも論理的にも瓦解した。
にもかかわらず、日本で60年代と70年代に起こった学生闘争の支柱はマルクス主義でした。
この歪みの恐ろしさというか、特に70年代闘争の方の大学生は大戦を知らない年代です。敗戦後に生まれて、敗戦は知っているが、戦争は知らない世代。そういう世代になぜかマルクスが合致し、そうして流血と死者を伴う闘争は起こった。それは一方的な暴力ではなく、当時の方から聞いただけの話ですが過激派の身内が過激派の身内を殺すことも珍しくはなかったとか。思想が合わない、それだけの理由だったそうです。
部外者だから言いますけども、上に書いた通り、彼らにマルクス主義が扱えるはずがなかったと思います。その頃の学生は「敗戦によって奪われた側」であって「敗戦によって失われた国土や政治的空白を私たちに返せ」と言っているのであって、その後のプランがあったとは思えないからです。それはマルクスの考えた出来合いの社会制度や主義主張ではなく、自分たちで考えた社会制度を持って来なければならない部分だったのだろうと思います。
小野不由美が「十二国記」で指摘していた通りに「そこは私が革命に失敗して逃げてきた国」です。壁落人に革命を成すことは出来なかった。なぜなら彼らは奪われた側ではあっても持っていた側ではないから。ならばもっと違う、マルクス社会主義ではない社会制度を以てではなくては革命は成せなかった。だから流血があった。それに気づかなかったから壁落人は「全く社会制度の違う異国」である「十二国」で暮らすことが出来たし、帰ることを望まない、と。だから同時に、異国に流されて王になることを強要されたように見える陽子は、王になるべくしての冒険譚と成長物語でありながら「日本」と「十二国」の社会制度の違い、思想の違い、宗教の違いを丹念に書いていくし、それはある意味で延王尚隆が言う通り「破綻のない理想的過ぎる社会制度」です。もしかしたら小野不由美の考える「理想的な社会制度」なのかもしれませんが、これは赤川次郎氏の指摘ですが「十二国で上手くいっている国は少ししかなく、どこも内乱かなんかで荒れている」のが現状だから、人が考えた大体の制度は結局破綻すると小野不由美さんは考えているのかもしれません。
1Q84も結局は同じだと思います。違うのは、その革命に失敗した後に戎野にも深田にも逃げ場は日本という国以外になかった。だから戎野は穏当に学者になったが、深田は「全く違う社会制度を打ち立てた」。その社会制度は「ふかえり」という巫女の誕生によって完成します。その巫女「ふかえり」の誕生は、社会制度であり「社会システム」を構築し、破壊し、そうして再構築してあらゆる世界に波及し蔓延させていくとても制度の高いシステム構造だと思います。

疲れたからここまで。

読書

読んだものの感想

「十二国記」小野不由美:著(新潮文庫)
「月の影 影の海」下巻
何回読んでもいいよねっていうか、下巻が楽俊との出会いのあたりからなんですけども、警戒心というか、この鼠は、から始まって、旅を始めて鞘を斬って、楽俊と雁で再会して。あまりにも長い旅だし、陽子の成長と一言で言えるけども、だってさぁ……異国で、そうだよなぁ……楽俊も言うけどもそういうんじゃないっていう体験をでもそうだ、と飲み込んで、そうだから「私は至らない」とはっきり言えるからこそ、尚隆だって王の器だと思える、嘘偽りやそそのかすわけではなく、それを具えている、自分のことを分かっていると言えるし、景麒だって「ずいぶん変わった」と再会した時に言うんじゃん。そうだと思う、陽子は変わった。旅の中で学んだ。だけれどそれは生来持ち合わせたものだと尚隆は言った。それを引き出したのは旅であり、裏切りであり、戦いであり、楽俊の純粋な優しさだったという。成長とかそういうレベル超えてるよね、すごく好きです。
そうしてこの年代の作家さんには小野不由美さんも村上春樹さんも高橋源一郎さんもだけれども安保闘争の傷がはっきりと刻まれているんだなというのが、そうだな、屍鬼を読んでも感じますが、もちろん1Q84 はもろにそうだし、なんていうか、目を背けたいけれどもそれを論じないで話を進めることは出来ないから話の中に入れておくけれど、それを論じること自体がタブー、というような忌々しさとどこかしらの神聖視の二律背反に似た何かを抱えているのかな、と感じるように思います。

「図南の翼」
これも何回も書いているから端折るけども珠晶にとって「私は必要」という人物が何人も到来する物語でもあるし、その運気に巻き込まれた、と最後に利広は言うけれど、そうして「天神、麒麟まで巻き込んでおいていまさら何を言う」と頑丘も言うけれど、頑丘も、利広も、更夜も、供麒も、みんなその王になるという珠晶の運気に巻き込まれ、引き寄せられながら、利広が言う通り一人一人がその珠晶の「王であるか、王とは何か」というものを試した。「もちろん私は試したんだよ」という利広の一言がすべてで、彼女は王になるために臣下の理であり、与えらえる者の理を踏み越えられるのか、そうして本当に「王」なのか、全員から試され続けたという話なんだよなあ……

「コモンの再生」内田樹:著(文春文庫)

形式的には対談というか、雑誌の編集長からの時事ネタの質問に内田樹が答えたものをまとめたもの。時事ネタ、政治経済、読書まで広く扱い、また著者が言っている通り、雑誌掲載時から抜粋などを行っていないため、5年ほど前のことであったりしても再録されている。

個人的に感じたこと。
タイトルの通り、「これから資本主義が破綻した時に、コモン、コミュニズム、コミューンを形成することが必要になるのではないか?」という問いかけを大きく感じた。
コモン、コミューンは共産主義というよりはマルクスの考えた包括的な社会のこと。そもそもコモン・コミューンという用語自体が資本主義・共産主義等の近代の用語ではなく、古代からヨーロッパ等で用いられてきた「共同体の共有地」である。
著者が以前から主張している通り、緩やかで包括的な共同体の再生、中央集権主義、資本主義の終焉、アンチグローバリズムは現在進行形で進んでおり、特に資本主義経済はほとんど限界を迎えている、という論調が各所に感じられた。
マルクス主義、構造主義の研究者でもある著者の考えとして、共産主義はマルクス主義とは異なるものであり、そこの部分も。
別著作からの引用であり、同時にこの本の中にもあるが、マルクス主義はブルジョアであるマルクスがプロレタリアを解放することを目的としていた。
それは「私たちは彼らから奪ったものを返さなければならない」という「奪ったものを返せ」「○○(自由・平和・平等)を与えろ」という図式とはそもそも異なる。
富の分配とも違い、惻隠の情と著者は表現するが、疚しさのようなものから端を発している、と著者は考えている。

そうなった時に、マルクス主義とも違うけれども一方的に主張し求めるだけではなくて、最初は個々人の持ち出しであり、コモン(共有地)であり、共同体である小さな部分を作成していく必要があるのではないか、というもの。
そこに必要なのは、礼節であり、寛容であり、ある程度の規律は自分たちで決めるというじゅうぶんな知性である。

「東京奇譚集」村上春樹:著(新潮文庫)

大好きな短編集。読むたびに違うものごとが見える気がして、何か読みたいと思った時にはよく手に取る。
一編ずつ
「偶然の旅人」
作品の前に村上春樹自身が体験した『不思議な出来事』を語る部分。実際にあったことだろうが、同時にそれは『そこまで重要な出来事ではない』と著者自身が語っている。人生に大きな影響を与える『奇妙な出来事』が題材の作品集の前書きとして、著者自身に起こったアメリカでのジャズの偶然と、著者の知り合いに起こった(こちらが主題)不思議な出来事が語られる。
ゲイのピアノ調律師の話は、本当に偶然が重なった結果として彼が自分の人生の大切な部分を取り戻す話でもあり、とても好き。そこまで深刻なことではなく、ジャズの神様、ゲイの神様と村上は言うけれど、著者自身にあったジャズのことも、調律師の男性にあったことも、人生の中で重要な転機であったのだろうと思う。

「ハナレイ・ベイ」
何度か語ったことがあるので少し違うこと。
何度も語ってはいるけれど、村上春樹の作品でこの「ハナレイ・ベイ」よりも美しい文体の作品はないと思う、と思うくらいに好き。するすると頭に入って来るし、何よりも文章の流れが、センテンスが軽妙で美しい。
ということは今までも何度か書いたので、中身。
何度読んでも違う側面があると感じるが、とても印象的なシーンとして「アメリカン・エキスプレスで火葬の代金を支払っている」ということにサチが奇妙な非現実感を抱くシーン。クレジットカードで、自分自身の息子の火葬代を、息子を骨にして持ち帰るために。その非現実性と、それを理解する、息子の死を受け入れるためには時間が必要だ、とサチは思ってハナレイに行くのだけれど、その前に日系の警官サカタに「争いや憎しみの中ではなく、自然の循環の中で死んだのだ」と言われる。それは結果的にそのハナレイで息子の死について考え続ける毎年の3週間を10年以上続けた結果として、回想されたのだと思った。二人の若いサーファーが息子の幽霊に会った、ということ、どうして私の前には現れないのとサチが思うこと、それはそうなのだけれど、それ以上にその前のシーンだと思う。
元海兵隊の男がサチにピアノを弾けと言う。英語が分からない二人の若者はただその突っかかってきた男と、ピアノは弾かないと断るサチを見ていたが、その男は「日本人はどうして自分たちの国のために戦わない、イワクニでは」という台詞を言う。ここが全てだと思った。「イワクニ」は間違いようもなく岩国基地のことだろう。そうして「日本人はどうして自国のために戦わず、米軍に頼り、そうして安穏と過ごすのか」という深い傷口のようなものが晒される。
それは日本が「敗戦国だから」。ある意味で米軍基地は「植民地化されているから」
敗戦国としてそれを受け入れざるを得ない日本人、という見方が当たり前でありながら、「なぜ日本のために戦わなければならないのか」という感情は同時に「なぜ領土を回復しようと思わないのか」という米軍基地の問題をはらんでいるし、同時にそうやって米軍基地を受け入れることに日本は安全を担保しているのだと言えば、それは他国の領土のために命を掛ける米軍の軍人にとって耐えがたい苦痛でもあるだろう。もちろん、基地を抱える日本人にとっても耐えがたい苦痛、自国の領土を差し出し、同時にそこが治外法権であり、そしてそれがなければ国家の安全を保障できないのだとすれば、米軍を受け入れることは理論上『耐えがたい苦痛』でなければおかしく、むしろ『米軍に守ってもらっている』ということを誇ることはかなり屈折しているか論理破綻だと私は思う。政治思想は左派でも右派でもないけれど、苦痛でなければ敗戦からの歴史上の話の辻褄が合わない。
だけれどそれを、少なくともサーファーの若者二人は感じない。感じないことが海兵隊の男にとって憎むには充分な理由になる。
そうしてそれは先の大戦における敗戦、そもそもの第二次世界大戦がバックボーンであり、同じく日系人の警察官サカタが言うように「母の兄は、日系人の軍隊として編成され、ナチの大隊に殺された。そういったことではなく、憎しみも争いもなく自然の循環の中で死んだ」のがまさしくサチの息子のタカシだったのではないか、と思う。
だから息子の幽霊はサチには見えずに息子と同じ、サーフィンのためにハナレイに来た日本人の若い何も知らない二人には見えたのかもしれない、と今回読んでいて感じた。
もちろん、そんなことに関係はなく、サチはまた一年ピアノを弾き、毎年息子の命日の近くに3週間ハナレイ・ベイに行き続けるだろう。そのあまりにも悲しくて美しい文章が私は好きだ。