花の色は


「雨」

 短く彼女は言った。

「あー、やまないねぇ、今年は」

 屯所の縁側からその雨を眺めていた沖田ちゃんの後ろに立って僕はそう声をかけた。
 春。
 春雨、というやつだろうか。さらさらと細い雨が降り続いて、これで三日目ほどになる。

「散っちゃいましたね、桜」
「そうだね。ま、この雨じゃあね」

 茫洋と桜の樹を眺めて彼女は言った。なるべく平静に、僕はそう返した。

「ね、晴れたら街に買い物に行こうか」
「そうですね。それもいいかもしれません」

 そう言った僕らの後ろを隊士が一人通りがかり、それから僕の姿を認めるとサッと速足で歩き去った。

「あー。やっぱ警戒されるよね、そりゃ」
「別に斎藤さんが悪いわけじゃないですよ」

 彼女はまだ雨の庭を眺めながら言った。振り返ってくれと思いながら、振り返らないでくれと思いながら、僕は彼女と同じように庭を眺めた。

 御陵衛士から僕が戻って、そうして伊東たちが討ち取られてそんなに時間は経っていない。

『密偵とか向いてないんすけど』

 ぼそりと副長に言ったが、自分が最良だろうということは分かっていた。

『北辰一刀流、ねぇ』

 ぼんやりとその資料を眺めて、そうして思い出されるのは一人の男だった。山南先生。彼も北辰一刀流の使い手だった。

 このままでは壊れてしまうと駆け出した男の後姿を、僕はまだ覚えている。





「櫛にするか」

 誘ったけれど、結局なんだかこの頃体調のすぐれない沖田ちゃんと街に来ることはできず、僕は結局小間物屋で櫛を見繕っていた。
 沖田ちゃんの髪は綺麗なのだけれど、装飾品を付けたら戦闘の邪魔になるからと適当な髪紐でくくっているだけだ。だけれど櫛なら普段も使えるし、と思いながら櫛を手に取って、僕は彼女の「雨」という言葉を思い出した。

「花の色は、か」

 ぽつりとつぶやく。誰だったかな、と思いながら。
 雨の降る間に花は色あえて、時は経ち、我が身は朽ちる。

「まるで僕らじゃないか」

 どうでもいいことを思い悩んでいる間に。
 どうでもいいことを思い悩んで立ち止まらなかったばかりに。
 僕たちはたくさんの花の色が移ろうのを忘れてしまった。

「君は、変わらないよね」

 買った櫛をぐっと握りしめて、僕は店を後にした。





「花の色は うつりにけりないたづらに  わが身世にふるながめせしまに」
「……え?」

 屯所に帰って、はいと櫛を渡したら、沖田ちゃんは当たり前のようにそう唄った。僕が小間物屋で思い出した一節を、当たり前のように。

「桜が散ってしまったから」

 ね?と笑いかけた沖田ちゃんに、僕は何を応えるべきなのか、何が正解なのか分からなくて、押し黙ってしまった。

「私たちは、失いすぎました。確かにたくさんの物を手に入れた。だけれど同じくらいにたくさんのものを失った。ちょうど、春雨が花を散らしているのに、そのことにも気づかずに、自分の身が朽ちていくことにも気づかずに」
「それは」

 それはいつだろう。この旗を掲げて、芹沢さんを討った時か、山南さんを討った時か、伊東を、藤堂さんを討った時か。いつだ、いつ僕たちは止まれなくなった?

「坂を転がる石のように」

 茫洋とした視線で僕を見つめながら彼女は言った。そうして、笑った。

「櫛、ありがとうござます。大事にしますね」

 笑った彼女の顔が、僕にはひどく怖かった。





 誰か、だれでもいい、止めてくれ。
 もう、やめてくれ。
 誰か、誰か、だれ、か


 叫びだしたい声を必死にこらえる。誰かに縋って止めてほしかった。
 局長が死んだ。
 程なくして沖田ちゃんも死んだ。
 だけれど僕たちは戦い続けている。
 雨が、やまない。





 副長と袂を分かって、この土地の雨は凍るのだ、と知った。
 確かに京も雪は降った。だけれど、底冷えのするこの土地の雨とは違った。

「花なんて、咲くんだろうか」

 桜の花なんて、咲くだろうか。
 この雪で、すべてが塗りつぶされればいいと思った。





「どうして……」

 かりそめの邪馬台国で出会った沖田ちゃんが、普段に着ている袴姿に、僕は呆然としていた。桜色の、綺麗な着物。普通の、女の子みたいに。
 当たり前のことだったのに、その当たり前を奪ったのは結局誰だったんだろう。
 その当たり前を奪おうとしているくせに、と僕は思った。

「斎藤さん」

 その姿のままで、田んぼの畦に座っていた僕のところに沖田ちゃんは来た。

「汚れるよ」
「いいんですよ」

 そう言って、沖田ちゃんはなんの躊躇いもなく、その綺麗な着物のままで僕の隣に座った。

「ねえ、斎藤さん」
「ん」
「櫛、ありがとうございました」
「え?」

 あまりにも古い話を持ち出した彼女に、驚いて振り返れば、彼女はちょっと笑った。
 それはマスターちゃんたちの前で見せるような笑みではなく、昔のままの暗くよどんだ笑みだった。

「松本先生に頼んで、棺と一緒に焼いてもらったんです」

 そう言って彼女は空を見上げた。快晴の、空を。

「そう、だったんだね」

 その時、僕たちは北へ北へと進軍していた。彼女の終わりを見ないままに。

「ねえ、斎藤さん。花の色は雨に打たれて色あせる」
「そうだね、何も知らないままに眺めているうちに」

 さらりと出てきた歌は、僕たちの共通項だった。だから僕もそれにそう返す。あの頃からずっと、あの櫛を渡したときから、あの雨が桜を散らせたときから、ずっと、僕たちの共通項はこの歌だった。

「また櫛を買ってくれますか」

 沖田ちゃんは髪をかき上げて言った。僕は何を応えるべきなのか逡巡して言った。

「うん、同じやつをさ、買う」

 買って君にあげるから。

 だから。

 どんな手を使ってでも、
 君に蔑まれても、
 君に失望されても、
 君を傷つけてでも、

 今度は立ち止まって、今度は間違わないで、君を手放さないでいられるその時を、花の散らない、色の褪せない、君がそこにいられるように。

 そう言ったら、沖田ちゃんはふふふと笑った。ひどく楽しそうで、ひどく悲しそうに。

「もう誰も、失いたくなかっただけなのに」

 染みるような青空を見上げて、それから彼女はゆっくりと目を閉じた。

 もう失わせない。
 それが彼女を傷つけるとしても。
 僕はもう、失わせない。
 僕はもう、失わない。

「ごめん、沖田ちゃん」
「どうして斎藤さんが謝るんですか?」

 笑いながら、空を見上げた目を閉じたままに彼女は言った。ああきっと、彼女は僕の裏切りを知っているのだと思った。

 ごめん、ね。
 僕ももう何も失いたくないんだ。
 副長も、山南先生も、僕自身も。
 そうして何より、君を。


 許してくれとは言わない。この裏切りが君を傷つけることさえ、君はきっと知っているから。ああ、僕は君に僕の裏切りが露見していることを「知っていた」。


 失い続けた先に、何があるのか分からないままに。

「花の色は うつりにけりないたづらに  わが身世にふるながめせしまに」

 彼女は唄った。ざあと風が吹いた。




月光・私とワルツを(鬼束ちひろ)