星の降る夜


「結局私たちは」

 亡羊と夜空を眺めて沖田ちゃんはつぶやいた。星が光って、月が冴えて、ああ、亡羊とした視線というのはこういうものか、と思った。
 月に率いられるはずの星々が、散り散りになっていく。羊をなくすように、星をなくす。

 今日、彼女は一人の男を斬った。
 山南敬介という、新選組を率いていた副長を。

『私がいいと言うまで斬らないでくれ』
『え?』

 それは沖田ちゃんに山南先生が頼んだ後生の願いだった。
 願いだろうか、命だろうか。
 そうしてそれが命乞いなどと言う軽いものではないことは、すぐに分かった。どうして僕はここに居合わせているのだろう、と思いながら、いや、僕もこの人の下で三番隊の隊長をやっていたのだ、と思った。

『私が苦しむさまを、一瞬でも長く』
『そん、な』
『それが私にできる最期の仕事だ』

 面倒なことを頼んですまないね、と男は笑った。

 沖田ちゃんは間違いなくその役目を果たした。そうしてその日の夜に、屯所の屋根に上がって星空を眺めていた。

「危ないよ、こんなとこ」
「ああ、斎藤さんですか」

 そう言ったのに、彼女はずっと星空を見上げて、僕を振り返ろうとはしなかった。

「星が、綺麗で」
「そうだね」

 よっと隣に座ったら、やっと沖田ちゃんはこちらを振り返った。
 その視線はどこか迷子になった子供のように揺らいでいた。

「結局、私たちは」

 もう一度だけ空を見上げて、それから彼女はもう一度僕を振り返って言った。

「結局、私たちは何がしたかったのでしょうか」
「さあね。でももう進むしかない」
「そう、ですね」

 僕はその時その言葉の選択を誤ったことを今も後悔している。
 あの時は、山南先生を斬って放心状態の彼女に「気にするな」という程度の気持ちだった。
 分かって、いたのに。
 彼女の心を壊さないように、その言葉を選んだなんて詭弁だ。本当は分かっていたのに。本当に怖かったのは、その問いに答えた時に自分が壊れるからだ、と本当は分かっていたのに。





 ほら、彼女は壊れてしまった。
 あの貼り付けたような笑み、誰も追いつけない剣技、冷酷でありながら優しいという危うさ。


 僕はこれが見たくなかった。
 僕はこうなりたくなかった。
 違う、僕がこうなりたかった。
 どうして、いつも彼女だけが、苦しむ。

「はは」

 そう思ったら乾いた笑いが自然と落ちた。

「壊したのは、僕も一緒じゃないか」

 自分で壊しておきながら、自分で壊した玩具を仕舞うこともできない僕は、ぼく、は。





「私はたくさん間違いました」
「うん」

 ぽろりと沖田ちゃんの目から涙が落ちた。

「だからこれはきっと罰なんです」

 こほと小さく咳をした彼女はそれからぽろぽろと泣いた。
 こんなにも弱弱しい彼女を見たくなかった。
 こんなにも追い詰められた彼女を作った自分たちが憎かった。

「止まりたくないのに」

 ずきりと刃物で心臓を貫かれたように思う痛みを覚えた。

「ずっと近藤さんと土方さんについていきたい。斎藤さんと並んで戦いたい」
「沖田ちゃん、駄目だ」

 興奮させてはいけない、と思って背中に手を当てたが、彼女の言葉は止まらなかった。

「止まりたくないのに、病が私を止める。私は、ではなんだったのですか!」
「沖田ちゃん、違う!」
「違わない!進むしかないと斎藤さんは言いました!」

 それなのに私は進めない!と彼女は叫んだ。僕はあの日、屯所の屋根で掛けた言葉のあまりの浅薄さを思った。

「あなたは、進めるのに!」

 それは怨嗟だった。
 ああ、この何よりも大切な仲間に、妹に、そうして愛した人に、怨嗟を向けられるほどに、僕は。

「ごめん」

 何の役にも立たない謝罪ののちに、軽く彼女の首筋を撫でるように突く。普段ならあり得ないのに、彼女はすとんと眠りに落ちた。





「寝たか」
「ええ、まあ」
「松本先生にあとのことは頼んである」

 努めて平静に、副長は言った。副長?二人いた、片割れはそう言った。

「ねえ、副長」
「なんだ」

 話は終わったとばかりの彼に、僕は言った。

「これでよかったんですかね」

 そう言ったら副長はゆっくりと目を閉じた。なにを思う。この、この地獄に何を思う?

「良いか悪いかじゃねえ。進むしかない。そうなってしまった」





『私たちは進むしかない。私にはそれが怖かった。終焉に向かって進んでいるような気がして、私にはそれが怖かった』

 副長の言葉は、もう一人の「副長」だった男と交わした最後の言葉に似ていた。





「斎藤さん、前は取り乱してすみませんでした」

 前、とはいつのことだろうと思うほどに日々は早く過ぎた。彼女は今、松本先生の計らいで千駄ヶ谷にかくまわれている。僕はこれから北へ北へと、進軍、進軍と言えば聞こえはいいが、敗走する。

「ごめんなさい」
「なんで謝るの」
「斎藤さん、ごめんなさい。私、わたしね」

 くしゃっと顔をゆがめて沖田ちゃんは笑った。続きが聞きたいのに、聞きたくなかった。

「斎藤さんのことが大好きでした。だけど、だけどね」

 僕はゆっくり言葉を待った。好きだという言葉が、こんなにも澱のように、楔のように沈み込むのが怖かった。

「あなたは進める。私は進めない。私はここで終わるでしょう。あなたは進み続けるでしょう。そう思うと、どうしてか、あなたを恨んでしまう」

 ごめんなさい、ともう一度彼女は言った。

「好きだ」

 ぽつりと落ちた場違いな言葉に、僕は自分でも驚いていた。だけれど、好きだという以外に今言えることはなかった。

「僕は沖田ちゃんが好きだ。だから、進み続ける。生き延び続ける。どんなに生き恥をさらしても、僕は僕のままで、生きて、この先を見て、幸せになれなくてもいい。生き続ける」
「約束、ですよ」

 ああ、これが正解だったのか、と僕は思った。
 もっと早く、君に好きだと伝えていれば、あるいは僕たちは変われたのかもしれない。だけれど、今でなければ「好きだ」と伝えることさえできない自分を知っていた。


 それは弱さかもしれない。
 それは強さかもしれない。


「ああ、私は」

 彼女は床に伏したまま天井を見上げた。星は、見えなかった。





 僕は、彼女に誓った通りに生きた。
 生きて生きて生きて、生き延びた果てに何があったのかは、分からない。





「沖田ちゃん、好きだ」

 こんなにも軽薄な言葉でいいのだろうか、と思いながら、僕はサーヴァントというくくりで出会った彼女に言った。彼女は、本当に屈託なく笑えるようになっていた。それが、怖くて嬉しかった。

「僕は生きた。君に誓った通りに。恨んでくれていい、罵ってくれていい、嫌ってくれていい。だけど」

「僕は君が好きだ」

 やっと言えた一つの答えに、彼女はゆっくりと目を伏せた。

「もっと早く、私たちは」

 恨みも、悲しみも、喜びも、幸せも。
 すべてを飲み込んだような女性を、僕は抱き寄せた。

「遅くなんかない」
「そう、でしょうか」
「君は、僕の」

 僕の、なんだろう。
 そんな言葉も用意できないままに、僕は彼女を抱きしめていた。その浅慮。

「あたたかい」
「うん」

 気づいたら僕は泣いていた。僕を抱きしめ返してくれた彼女は「あたたかい」と繰り返した。

「今度こそ、助けるから。隣にいるから」

 今度なんていう奇蹟が起こったことに、僕は感謝していたし、感謝していなかった。
 一生、これから先もずっと、彼女に恨まれて、彼女の瑕になって生きていられれば良かったとさえ思った。
 だけれど、もし今、その奇跡が起こったというのなら。

「皆さんと星が見たいです」
「うん」
「同じ速さで」
「大丈夫、だから」

 何一つ失わずに、同じ速度で走れたのなら、それはどんなに良かっただろう。
 誰一人止まらずに、あるいはみな同時に止まれたら、それはどんなに良かっただろう。

 だけれど今は。
 だから今は。

「一緒に歩こう。星が見えるところまで」

 ゆっくりでいいから、と僕は言った。
 同じ速さで歩けたなら、それでよかったのに、僕たちはどこで間違ったのだろう。

「はい。一緒に、ですよ」

 ふふと笑って彼女は僕をより強く抱きしめた。僕はまだ泣いていて、これじゃあ彼女が僕をあやしているみたいだ、と思った。

 遠くで星の降る音がした。