いけないこと


『連れて行かれちゃうからねぇ』

 祖母の言葉が蘇る。連れて行かれちゃう?どこに?

『だから、総司は』


 ぱちり、と大学生になって一人暮らしの部屋で、遠い昔の夢を見て目覚める。

「だからってこんな男みたいな名前つけるのってどうなんでしょうね」

 今日は休みで、とりあえずサークルもないし、お茶でも飲もうと思いベッドから起き上がる。なぜか食欲がない。夢のせいかもしれないな。
 夢。そうだ、夢。私の名前は沖田総司、男じゃないですよ、と誰に紹介するでもなく、というか普段から新しい環境に行く度(進級とか、進学とか)に繰り返したそれを思う。男じゃん、と昔はよくからかわれた。確かに、名前だけじゃなくて『男の子』なんだよ、と家族からは繰り返し言われたけれど。いや、実際に男として育てられたとかそういうんじゃないけども、『男の子だと思っているんだよ』と。

『思っているだけでいいの?』
『思っていることが大事なんだよ』

 そこでまた思い出す、祖母の言葉。私が東京の大学に進学して一人暮らしをすると言ったとき、そうやって育ててくれたのに唯一許してくれたおばあちゃん。

「大変でしたね、そういえば」

 二年目になってさすがに落ち着いたが、最初、郊外のこの大学にどうしても行きたい学科があって、という話をしたら、家族だけではなく親戚からも反対されたのだ。絶対ダメだ、と。いやでも、学力的にも経済的にも負担のない、と説明してもすごく反対された。だって、でも、なんだかすごく魅力的な大学で、と言ったのに。

『そんなところに行ったら』

 と伯父は言った。だけれどそこで言葉を切るんだ。みんなそう。最後まで言わずに強く反対するだけで。そう思っていたら、祖母が一言ぽつんと言った。

『もう、返さないといけないんだねぇ』
『え?』

 私がぽかんとしたら、祖母は寂しそうに笑った。そうして家族も親戚も、なぜか肩を落として『仕方ない』と口々に言ってくれた。なんだったんだ、あれは?と今でも思う。それでも最後まで反対していた伯父は『お前は男の子なんだということを忘れるな』と言った。伯父さんは、あれ、いつだったろう?そうだ、沖田家の本家の伯父さんだ、と私は訳もなく思った。おばあちゃんの長男で、お母さんの弟で、それで、沖田家を継いで、と。

「うーん、現代で本家とか分家があるこの時代錯誤感よ」

 私は思わずつぶやく。そうしておばあちゃんの言葉が後押しにはなったのだけれど、伯父さんが許してくれないなら駄目だ、なんて父は言っていたなとまた思い出す。気弱な人ではないのだけれど。母は何も言わずに泣いていた。そんなことってある?大学に行くだけなのに。
 そう思いながらお茶を飲もうとする。茶柱、いいことありそう!なんて思っていたら、アパートの呼び鈴がピンポンと間抜けた音を立てた。休日、友達と約束もないし、荷物も頼んでいない。新聞か何かの勧誘?と思いながらも、私はガチャっと鍵を開ける。チェーンはとりあえず付けたまま。

「あれ?男?間違えた?」

 そこにいたのはスーツを着た男の人。

「なんてこと言うんですか、失礼ですね!」

 私はそう言ってからパッと口を押える。いくら何でも初対面の相手に、と思って、そういえば相手だって失礼にも程があること言ったじゃないか、とも思う。だって挨拶も何もなしに「男?」なんて。

「え、でも男?に見える?」

 まだ言ってる。何この人?やっぱり何かの勧誘だろうか。男であることに困惑するってことはそういう危ないアルバイトとか?なんか大学で問題になっていたようないないような。ていうか男に見えるって何?私は確かに名前で男の子ー!とからかわれた経験は何度もあるが、実際に男と間違われたことは多分ない。小さいときはあったかもしれないけれど、普通に初対面の人が見て「男」に見えるわけない、のに。

「ね、名前教えて?」
「え?」
「なまえ」

 男の人はそう言ってチェーンで隔たれたそこで言う。そこまで言われて、私はちょっと怖くなる、なに、この人。

「沖田、総司」
「沖田。やっぱり沖田の子じゃん。じゃあなんで男ってあれか」
「へ?」
「総司ってあーもう、ニンゲンってこれだから」

 ぶつぶつとそのスーツ姿の人は言う。そうして、言った。

「この鎖外して」

 鎖?チェーンのことだろうか、と思いながら、私は操られるようにチェーンを外す。そうしたら彼は何のためらいもなく部屋に入ってきて、バタンと扉を閉じた。

「ちょ、不法侵入!」
「うん、そっちが悪いんだよ」
「え?」
「総司、なんて男みたいな名前にして、逃がそうとするなんて」

 この子は僕の物なのに、と彼は言った。私が、この人の、もの?

「僕のお嫁さんを逃がそうとするなんて、そっちが悪いんだよ」

 何を言われているのか分からなくて、私は一歩下がる。下がってテーブルに手を付いたら、それを追いこむようにその男の人は私に覆いかぶさるように口づけた。テーブルが揺れて、お茶がこぼれる。ああ、お茶、冷めちゃったな、なんて、私はぼんやりと考えた。





「おはよう、沖田ちゃん」
「あれ?」
「何か食べる?っていうか食べないと駄目だよ?」

 朝抜いたでしょ、とお母さんみたいなことを斎藤さんは言った。さいとう、さん?

「斎藤さん?」
「うん、いい感じ」

 にこっとその男の人は笑った。あれ、私アパートにいて、それでこの人が来て、ここは、と思って周りを見渡す。国語か社会の資料集で見た平安時代みたいなお屋敷で、御簾があって、私は綺麗な着物を着ていて、なぜかベッド?寝台っていうの?そういうところに寝かされていて。それはちょっと中華風?かな?男の人は相変わらずスーツだったのがなんだか変な気がするけれど。

「斎藤さんも着替えて」

 私はまた意味の分からないことを口走っていた。そうしたら、彼は笑う。

「沖田ちゃんがこれ食べたらね」

 そう言って差し出されたのは、桃?朝ごはんの代わりにはならないような、と思いながら、私はそれを躊躇いなくしゃくっと食べていた。だって美味しそうで、すごくいい香りで、と思ってそれから、あれ、桃って皮食べられたっけ?とぼんやりする頭で思った。

「ヨモツヘグイ。境で投げるのは桃の実。食べちゃったら、投げられないね?」

 その人が笑って言うのが聞こえた。そこで私の意識は途切れた。





「今日は祝言だから忙しいよ」
「斎藤、さん、私」
「ずっと忘れてたんだね、沖田ちゃん。隠されてたっていうか」

 ふわふわした長い髪、直衣。私は小袿だから二人ともまだ普段着だ。だけれどそれは。

「ほんとにもう、沖田の家の子は僕のなのに」

 いーけないんだ、と斎藤さんは言った。連れて行かれちゃうからね、と遠くで誰かの声がした。







『どうしてこの子が』
『仕方ないんだよ、姉さん』
『だって、ずっと、私だって違ったのに!』
『こんなに血が濃く出た子は初めてだからねえ』
『母さんが生きてる間でも、か』
『サイトウのカミサマは、こういう子が大好きだから、ねぇ』
『じゃあせめて、せめて男として育てる、隠すの!』
『隠しきれるだろうか、あのカミから』

 姉と義兄の間に生まれた子供は、生まれた時から美しい色の髪をしていた。異国の子供のような髪の色。異界の子供のような、髪の色。姉も、義兄も黒髪で、親戚中どこを見渡してもこんな髪の子はいなかった。神の子はいなかった。そこで私は長かった、と思う。百年だろうと五百年だろうと、とにかく長い間、こんな子はいなかった。
 沖田家は、その昔、サイトウと名乗る神に仕えていたらしい。文献も何も残ってはいない、口伝だけのそれを、だけれど私たちは間違いなく継承していた。そうだ。継承していた。怖い、のだ。あの土地、東京の中でも、郊外のあの土地。昔沖田家があった土地に近づくことが出来ない。みな、出来ない。
 仕えていたなんて、とそこで思う。怖い、なら、きっとそれは。
 きっとそれは、何かを差し出していたんだ、とこの子を見て、私は思った。





 だから、男として名前を付けて、男として育てた総司が高校生になっても何事もなく過ごしていたことが、私たちに安堵を与えていた。だから、彼女が十八になった時に「その土地に行く」と言われて、怖気が走った。大学?違う、その土地に行くとこの子は言ったのだ、と私は思った。私だけではない、みな、思った。誰も行きたくない、行けない土地に行くと、笑顔で言われたそれは、恐怖以外の何物でもなかった。

『もう、返さないといけないんだねぇ』

 母はぽつんと言った。返す、か。奪われるのではなく、返す、か。

『神様は、この子が大好きだからねぇ』

 ずぅっと昔から、と母は言った。すべてを諦めたように。





 もぬけの殻のアパートで、姉は泣き崩れた。だけれど、捜索願を出す気には、誰もならなかった。
 母が総司に贈った湯呑が砕けて、茶がこぼれていた。







「いーけないんだ、僕から逃げようなんて」

 探したんだから、と斎藤様は怒ったように、それでも楽しそうに言った。

「逃げてません」
「うん、総司は偉いねえ。逃げてもちゃんと自分で僕のところに来たんだから」

 斎藤様に言われて、ゆっくりと髪を撫でられる。慈しむように、愛でるように。

「斎藤様は、ずっと待っていたのですか」
「うん。でも総司だけだよ、ほかの沖田はいらない」
「寂しかった?」
「それなりに」

 ああ、何度目だろう。何度、私はこの方に、娶られて、娶せて。

「ね、今日は何する?」
「あの、私、また帰っちゃうのでしょうか」

 いつかみたいに、とぽつりと言う。

「だからいけないんだっていつも言ってるのに、総司が逃げるからだよ」
「はい」
「もう逃げないって約束する?」

 ちょん、斎藤様は小指を出した。小指は、約束をする指だからと知っていた。私はいつも、それが嫌で、だって、逃げないと斎藤様は追ってきてくれなくて、だから意地悪をしてしまって。

「私だって、寂しくて」
「うん」
「だけど斎藤様が追いかけてくれないと楽しくなくて」
「悪い子だなあ」
「でも、寂しくて、だからここにちゃんと来たんですよ」

 そう言って小指を絡めたら、彼はへらっと笑った。

「悪い子だけど、大好きだよ」

 もう意地悪しないでね?と、いじわるなカミサマは言った。




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カミサマの斎藤さんと生贄というかお嫁さんの沖田さんなパロでした。
男のような名前を付けて隠すというのは古い伝承なんかでたまにあるものを参考にしました。
こういうのもたまにはいいよねと思いつつ。


2021/2/17