帰り道を忘れた


「帰るよ」

 言葉に女は振り返った。茫洋とした目線でこちらを見る、雨に濡れた彼女に傘を差す。

「さいとうさんですか」

 どこかたどたどしい口調で言った沖田ちゃんの体から、血糊はほとんど落ちていた。ただ、隊服と羽織に滲んだ血は、この雨でも落としきることはできなかったらしい。

「隊服と羽織、仕立て直すから」
「ああ、そんなに」

 ぱしゃ、と水たまりを蹴って立ち上がる音がする。しゃがんでじっと見つめていたそれになんの興味も示さないように、彼女は傘を受け取った。

「やっぱ、おまえに暗殺仕事は向いてない」

 少しだけ視線を逸らして一言呟く。彼女は小さく頷いた。





 向いていない。

 暗殺だけじゃない。
 そもそもの話だ。

「俺は、おまえが剣を握ること自体が」

 向いていないという訳じゃないのかもしれない。ただ、俺がそう思うだけなのかもしれない。
 雨が降り頻るそこで、猛者と謳われた女の剣をいなしながら、無敵と謂われた俺は、何がしたいのだろうと自問した。
 ああ、雨に濡れたおまえはいつも。
 雨に濡れて、血に濡れたおまえを見るのは、いつも、いつも。

「俺はただ、おまえが刀を握るのが嫌だった」

 血に濡れるのが、雨に濡れるのが、嫌だった。
 子供の駄々のような話だと自分でも思う。

「斎藤さん、あなたはあの日」

 そう彼女は言って踏み込んだ。避け切れない、と思った時には峰が強く自分の胴体を払っていた。

「私に傘を差し出した。それが全てです」

 ぱしゃりと水音がして、膝をついた俺に、それから女は言う。

「帰るとあなたは言いました。私の帰る場所はあの隊しかなかった」


 そうだとしても、と紡ごうとした言葉は雨音に浚われた。
 そうだとしても、それ以外の未来を見てみたかった。
 そうだとしても、それ以外の結末を望んでみたかった。


 どれもこれも、無理な話だと知りながら、それでも望んだ。

 血に濡れないおまえを、剣を取らないおまえを。或いは、血に濡れない自分を、剣を取らない自分を。

「行きますよ、斎藤隊長」

 見下ろす彼女が、手を差し出した。
 俺はこの手を取るのだろう。

「結局、そこにしか生きられない、か」

 呟きに、女は何も言わなかった。
 雨が、全てを掻き消す。

 過去も、未来も。
 今、この瞬間さえ。


2022/9/10