Lotophagos


「おや、君には忘れたいことがあるのかい?」
「はい?」

 今日はレイシフトの予定も、シミュレーターを使った訓練の予定もなく、朝飯を食ってそれから僕は、暇だなと思いながら欠伸を噛み殺すようにしながら適当にカルデアの廊下をぶらついていた。そうしたらそこですれ違った羽があり杖を持った英霊が突然声を掛けてきた。なんだっていうんだ。背格好は僕よりずっと小さいが、どこか威圧感がある。

「あの、何か?」

 当たり前だが知り合いにこんな英霊はいない。多分キャスターだろうとあたりをつけたが、キャスターの知り合いなんて本当にいない。アルトリアさんくらいか?と思って僕はその不思議な風貌の、というか本当にもともとが人間だとは思えない姿形をした女性を見た。

「いいねいいね。人間はそうやって逃げ出そうとするのもまた愛しのピグレットさ」
「だから何を…」
「蓮をお食べ。忘れたいんだろう?そうして取り戻したいんだろう?」

 傷を、悲しみを、怒りを、喪失を、忘れたいんだろう?
 安逸を、取り戻したいんだろう?
 そう言ってその女性は僕をすこんと杖で小突いた。それから先の記憶は、ない。





「あれ、沖田ちゃん何やってんの?」
「あれ?斎藤さんが隊服姿なんて珍しいですね?スーツの方がラクーとか言ってたのに」
「は?すーつ?」
「え?」
「おまえこそなんでそんなめかし込んでるの?なに?また町娘と逢引?」

 僕は沖田が何を言っているのか分からず、女扱いすれば殺すとまで言う彼女が大きな髪飾りをしているのが不思議で、そうしてそれから、この白い建物は屯所じゃない、と思う。何か、いや、全部変だ。

「なに、これ?」
「こっちのセリフですよ、斎藤さん。大丈夫ですか?」

 沖田の声にどくん、と心臓が跳ねる。蓮をお食べ、と声がした。どくん、とまた心臓が跳ねる。

「おまえ、元気?」

 僕は痛み出した頭に当惑しながらなぜか沖田にそう言った。沖田?沖田ちゃん?どうして?生きて?元気で?

「元気ですよ?何言ってるんですか?」
「労咳、は?」

 そうだ、このあとこいつは死んじまって、副長も、俺、も、こいつを、置いて……
 そこで俺は頭の痛みに耐えられずにばたりと倒れ込んだ。





 忘れてしまえたらどんなに良かっただろう。
 いや、やり直せたなら、どんなに良かっただろう。
 この愚を、繰り返せと言うのか?こんな、何もない場所で、もう一度。

「もう、置いていきたくないのに」

 もう置いていかれたくないのに。

 夢の中でつぶやいた声は、誰にも届かなかった。





「そうしてその男は忘れたいことも安逸も取り戻せなかった、というオチさ」
「キルケーさん、うちの斎藤さんで遊ばないでください」
「遊んでなんていないよ。この男は本当に、すべてを忘れたかったようだからね」

 蓮の秘薬をあげたのさ、安逸を貪れるように。と枕元で声がして、僕は危険を感じてガバッと起き上がった。

「沖田、ちゃん?と、さっきの人?」
「あ、斎藤さん、大丈夫ですか?記憶、ちゃんとあります?」
「全部、忘れて、た」

 僕は全身から血の気が引くのを感じながらそう言った。そうしたら、その女性はやれやれと言う。そうして思う。忘れた?何を?

「オイオイ、折角大魔女様が君の記憶を取ってあげたのにそりゃないよ」

 イヤーな記憶を、ね?とその魔女は続けた。
 そうだ、忘れた。忘れて、まるであの日々が当たり前にあったように、当たり前の日常が戻ってきたように、なぜか、と思ったら、軽い口調でそれを言うその女性が妙に怖く見えた。頭が痛い。だめだ、これは、駄目だ。

「安逸を貪りたいんだろう?何も傷つけず、何も失わず、ただ平穏に」
「違、います」

 まだ痛む頭でゆっくりと思考しながら僕は言った。

「それでも進んでしまったから」

 言葉に沖田ちゃんが目を見開く。そうしたら魔女は笑った。

「いいねいいね、人間のそういう悪あがきが私らの好物なのさ」
「悪あがき、じゃない」

 僕は言ってその魔女を見た。

「この愚を、もう一度繰り返すだけだ」

 そうだ、末期までも、この愚かな顛末を繰り返す。それがきっとここに喚ばれた理由だから。そうでなければ、こんなの、何の役にも立ちはしない。

「へぇ?人間のわりに気骨があるじゃないか。やり直す?この愚かさを?」

 面白そうに、それでいてどこか寂しそうにそのひとは言った。それに僕はまだぐらぐらと痛む頭で思考を回して応じる。

「仕方ないんです。沖田ちゃんを失ったのも、新選組がなくなったのも、僕が逃げ出したのも、置いていったのも、置いていかれたのも、全部。それを忘れたら、たぶん僕は僕じゃなくなる。自分を失ってしまう」

 僕の言葉に、その魔女は興味が失せたというように一瞬瞳の色を暗くした。そうして言う。

「ロートスの花を食べるとそれをすべて忘れて、幸せに暮らせるのにねぇ」
「それは何を引き換えにした幸せですか?」

 そう言って僕は沖田ちゃんを振り返る。

「例えば彼女まで引き換えにして、僕は生きたいと思わない」

 それは幸せではない、と思った。沖田ちゃんは見つめる僕をじっと見返して、それからゆっくりと目を閉じた。昔日に思いを馳せるように。

「まあいいや。今回はニンゲンなんてそんなものだったと忘れていた私の負けかな」

 そう言ってそのひとは立ち上がる。それから部屋を出る時に、振り向きざまに、思い出したように言った。

「ああそうだ」

 忘れたければいつでもおいで?と。




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「オデュッセイア」より。安逸を貪る人々。