猫の話


「安心してよ」

 僕は自分で言っておきながら自分のこの言葉のあまりの軽薄さを思った。

「斎藤さんが安心なんて言うとおちおち寝てられませんね」

 だから当たり前のように沖田ちゃんは笑ってそう言い返してきた。そりゃあそうだ。だけれど、彼女にはもう、昔のように適当言わないでください!なんて言って飛び掛かってくる身体的余裕も、精神的余裕もなかった。代わりにこほんと小さな咳をして、笑った。

「でも、お任せするしかないですね、これじゃあ」

 枕元の愛刀をゆっくり振り返って沖田ちゃんは言った。

「猫がね、斬れないんです」
「は?」
「黒猫。来るんですよ、庭に。でも斬れない」
「危ないよ、そんなことしてちゃあ」

 そっと彼女が刀に掛けた手の上から、自分の武骨な手を重ねて止めようとする。止めようとしたのか、ただ彼女の手に触れたかったのか、分からない。

「ねえ、斎藤さん」
「うん」
「ここまで来たってことは、もうみんな京にはいないんですね」
「……」

 察しがいい彼女に、なんと答えるべきか僕は迷って、迷ってそれから言った。

「そういうことになる」

 事実だけを簡潔に。そうしたら、彼女は薄く笑った。

「そして斎藤さんはきっと土方さんにはついていかない」

 どくんと心臓が跳ねた。ひどく居心地が悪い。

「前から言ってるけどさ、別に僕副長のこと嫌いじゃないよ」
「分かってます。でもたぶん、お二人は死に場所が違う」
「それは一番隊隊長の冴え渡る勘ってやつ?」
「さあ、そんなもの残ってますかね」

 ふふと、やはり彼女は笑った。今日の沖田ちゃんはずっと笑っているように僕には思えた。だからそれがかえって怖くて、僕は彼女が刀に掛けた手を握りしめた。どうして、冷たい?どうして、熱は?


 どうして、どうして、どうして


「あなたは、忠義なんてどうでもいいと言いながら最後は捨てられない人なんですよ。土方さんは自分が生きていればそこで生きようとする。でもあなたはきっと捨てられない」

 ねえ、と沖田ちゃんは僕の手をそっと握り返してくれた。

「ねえ、だからそれまで土方さんをお願いします。でも、そうしてもし斎藤さんが自分の生き筋を決めるなら、土方さんも、私もそれでいいと思うんです」
「僕なんかに頼んでもヘラヘラしてて胡散臭いでしょ」
「ああ、猫が」

 僕が言ったら、庭に黒猫が来た。これが彼女を煩わせるなら、腰の得物で斬ろうかとしたら、沖田ちゃんはやっぱり笑った。

「私があんまりかまうから、懐いちゃったんですよ」

 そう言って差し出されたのは餌の入った袋。

「ね、斎藤さんがあげてきてください。なんだか眠たくて」


 静かに彼女は言った。
 にゃあと猫が鳴いた。





 会津の地で、僕は副長を見送った。この寒く、むなしい抵抗を続ける土地に残ると言ったら、彼は「そうか」とだけ言った。もし彼のいる場所が新選組なのだとしたら、僕はそこを抜けたことになるのだろう。

「沖田ちゃんの言う通りだったね」

 僕は銃を構えてつぶやいた。いつか彼女に言われた言葉を思い出して、それから、あの時あの猫を斬ればよかったと思った。





 だから、カルデアとやらで再会した沖田ちゃんが元気そうで、副長がいて、それどころか織田信長だの越後の軍神だの、さらにその上に土佐の人斬りやら坂本やらと楽しそうにしているのを見て、僕が最初に抱いたのは安堵というより嫉妬だった。

「元気じゃん」

 あー、心配損。なにさ、あの時君の代わりに猫に餌をやったのは僕なんだぜ。
 そう思いながらも、僕はもちろん安堵してもいて、だからふっとその騒々しい集団の横を通り抜けようとした。マスターちゃんはまだ僕が召喚されたことを沖田ちゃんにも副長にも言っていないようだったから。

「斎藤さん」

 そうしたら、よく通る声が僕を呼び止めた。

「この私が知らないとでも思いましたか?」

 振り返ったら勝ち誇ったように沖田ちゃんは言った。なんだよマスターちゃんえげつねえな。これ絶対教えてやがった。

「なんじゃ、これが沖田の知り合いか」

 織田信長と思われる女性に声を掛けられて、僕は思わず言い返す。

「あんまり沖田ちゃんのこと気安く呼ばないでくれます?」

 せめてちゃんをつけろよ、とか思った。自分の子供で、馬鹿みたいな嫉妬心を表す言葉がよく思いつかなかった。

「いいんですよ、ノッブはそれで。ねえ、斎藤さん」
「ん?」
「カルデアは広いから、屯所とも違うし私が案内しますよ」
「え、いいよ地図もらったし。とりあえず食堂行こうかなって」

 そう言ったら沖田ちゃんは昔のように、あのはかなげな笑みではなく、本当に楽しそうに笑った。

「そっち逆です」
「あれ、マジで?」

 そう言って、彼女は僕の手を取った。体温が、ある。温かい。
 どくんと心臓が跳ねた。ああ、彼女は生きている。仮初の体かもしれない。だけれど、生きて、いる。
 視界がぐにゃりと歪んだ。自分が泣いているのだ、とやっと気づいた。

「あの時、猫に餌をやってくれたお礼です」

 案内しますよ、と言った女性は、今度こそあの時のように薄く微笑んだ。
 ああ、昏い笑みも、明るい笑みも、今はここにある。

「そーだね。迷うわ、ぐるぐる一周しちまった」

 適当に言ったら沖田ちゃんはおかしそうに笑って僕の手を引いた。

「ねえ、このあと稽古しましょうよ」
「やだ。沖田ちゃんの剣面倒だもん」
「斎藤さんの方がめんどくさいじゃないですか」

 なんですか無敵流とか言う意味不明な!と昔のように沖田ちゃんは言って歩き出した。ああ、これも昔のままだ。彼女は先へ先へと行ってしまう。だから、彼女を置いていくのが怖かった。
 だけれど、今は。
 だから、今は。

「待ってよ、一番隊隊長さん」
「斎藤さんが遅いんですよ」


 ああ、沖田ちゃんが笑っている。
 今はもう、それだけでいい。
 ひどく大雑把で、ひどく狭隘で、ひどく浅薄で。
 だけれどそのすべてを彼女は知っているのだと思ったら、今はもう、それだけでいいと思えた。