おかえり


 朝、目が覚める。今日は友達と近くの散策コースにハイキングに行くんだった、と思って、時間を確認する。

「友達?」

 約束の時間と場所を確認しながら、私はぼんやりと思った。ともだち。そうだ、誘われて、と思う。そうしてそれからぼやっとした頭で考えた。

「友達って、誰でしたっけ?」

 というか、私の名前って…なんでしたっけ?





「は、はぐれた」

 ハイキングコースで友達とはぐれるってどうなんだろう、と私は思いながら地図を広げる。大学の友達3人で夏休みの中間頃に軽いハイキングに行ったら、なぜかはぐれてしまった。地図を広げて周りを見渡すが、鬱蒼とした森はどうにも自分たちが歩いていた初心者向けの散策路とは思えなかった。
 そのうえ……

「人、いないですね」

 ちょっとだけ怖くなる。なんでだろう、と思ったその時、ひょいっと地図を取る手があって、私は悲鳴を上げていた。

「ひっ!」
「あー、道に迷ったのね」

 それは男の人だった。羽織袴?だろうか。今どき珍しいし山奥だし、どうなんだろう。着物には詳しくないから分からないけれど。

「ねえ、案内してあげようか」

 その着物姿の人は私に手を伸べた。初めて会うはずなのに、どうしてか、私はその手を取ってしまった。

「名前、忘れたの?」
「え?」
「沖田ちゃんどんくさいなー」
「どうして」

 着物に羽織を着て、ウェーブの掛かった長い髪の男の人は、私の苗字を気軽に呼んだ。そうだ、沖田。そうだ、私が今朝忘れていた「名前」だ。どうしてこの人がそれを知っているんだろう。そうして、それが怖いと思わないのがどうにも不思議だった。
「よく私だって気づきましたね、斎藤さん」

 そう言ってから、私はハッとして口許をおさえる。一目で分かった。さいとう、はじめ?でもそれは、誰?

「そりゃあね、沖田ちゃんのこと間違えるなんてあり得ませんよ」

 そう言った彼が歩く道は、森の奥へ奥へと続いていく。帰り道とは逆に思えたのに、どうして私はついて行くの?





 森の奥へ奥へと「斎藤さん」は私の手を引いて歩いていく。少しずつ靄も出てきた。晴れていたはずなのに。私とつないだその手がいやにひんやりしていること以外、彼は私と変わりがない、少し古風というか風変わりな格好をしたひと、としか思えなかった。

「まだ思い出さない?」
「え?」
「一ちゃんですよ?」
「さいとう、はじめ?」
「うーん、名前だけかあ」

 残念そうなのに、どこか楽しそうに彼は言った。

「まあでも、名前は大事にしないとね」

 盗まれても知らないよ、と彼は続けた。

「ね、沖田総司ちゃん?」

 そう彼が言ったのと同じころに、ふっと靄が晴れる。森も抜けて、そこには川が流れていた。

「渡る?」

 彼はやっぱり楽しそうに言った。





 彼に促されるまま、操られるように、スニーカーを脱いで、ジーンズをまくって、私はひんやりとした川に足を踏み入れた。「渡る?」という言葉がどうにも脳裏に焼き付いて離れない。冷たい。彼は着物が濡れることも厭わずに、相変わらず私に手を差し伸べて川に入った。
 記憶に響くような、冷たさ。記憶…?なんのこと?
 川はそんなに深くはなかった。ざぶざぶと二人でその水面を切りながら歩く。どうして、私はついて行ってしまうの?こんなのハイキングのはずがないのに。

「沖田ちゃんはさー、ほんっとに素直よね」
「え?」
「素直だからダメなんだよ」
「なにが、ですか?」
「盗まれちゃったら困るでしょって話」

 噛み合わない会話のうちに、私たちは向こう岸についていた。そこで私はハッとする。

「あ…れ?」

 濡れいていない。ジーンズも、飛沫が掛かっただろう服も、それどころか、直接水に触れた足さえ。

「渡ったね」
「え?」

 斎藤さんは嬉しそうに言った。斎藤さん、そうだ、この人は斎藤一だと私は一目見た時から分かっていた。青みがかった黒と灰色の間の毛並みの美しい、

「毛並み?」
「お帰り、沖田ちゃん」
「え?」
「みんな心配してたんだよ。ニンゲンなんかに捕まるから、いつ迎えに行こうかと思ってたのに、名前まで盗まれちゃって。今日山に来てくれなかったらどうやって迎えに行くか考えなきゃならなかったんだから」
「それ、は」

 あ、と思う。彼の青みがかった黒い毛並み。私の毛色は目立つから、ニンゲンに見つかってはいけないよ、と近藤さんに言われていたのに。近藤さん?それは誰?

「土方さんと山南さんに怒られます」

 私は何を思って、何を言っているの?記憶がゆっくりとせり上がってくる。早く思い出せと急かすように。思い出す?

「おーきたちゃん」
「……」
「考え事?それより着替えようよ」

 ほんとにもう、と斎藤さんは言った。そうだ、この人は、ここは。

「私、ニンゲンに捕まってたんですね」
「そういうこと。まなまで渡して、本気でニンゲンになる気かと思ってたよ」

 そうしてやっと思い出す。私はこの山の総領に仕える狐だ。狐だった。だけれどある日、その日私はとても浮かれていて、そうして里の方に寄って行ったら、名前を取られてしまったんだ。あれからどれくらい経つだろう。たぶん、私が人里で感じた時間は相当長いものだったけれど、斎藤さんや土方さんたちにすれば三日前くらいだろう。ちょっとした誘拐騒ぎだったろうなと思う。

「皆さんに謝らないと」
「いやー、でも二、三日で見つかってよかったよ」

 ほら、やっぱり。大学生、だっけ?その夏休みを何日も過ごした気がしたけれど、そうでもないみたい。

「浮かれてました」
「なーにに?」

 意地悪く斎藤さんは訊いてきた。そうだ、私は近藤さんに持ち掛けられた話に浮かれてしまって里の方まで遊びに行ってしまったから捕まったんだから、言わないわけにはいかないだろう。

「斎藤さんに娶らせるって、近藤さんが」
「うん、聞いた。だから逃げちゃったのかと思って本気で傷ついたのよ、僕」
「ちが!」
「分かってますって。そんなこと思ってるうちに捕まったって藤堂に聞いてほんとに心臓止まるかと思ったんだから」
「すみません」

 そう言っているうちに懐かしい屋敷が目に入る。

「今日は沖田ちゃんの救出祝いと祝言で大忙しだね」
 その屋敷に着く前にいたずらっぽく斎藤さんは言った。

「着物も、お膳も、何もかにも準備してあるからね」

 私はそれに恥ずかしいのにどこかほっとして、そうして言う。


「ただいま戻りました」


 それに彼は笑った。


「おかえり」