倒錯性パラノイア


 認めない。
 認められない。
 認めたくない。

 許さない―――





「だから、待ちなさいノッブ!」
「イェーイ!」

 おそらく器物損壊か何かをやらかして沖田ちゃんに追い回されている信長公を見て、僕は呑気なものだな、なんて思いながら彼女たちを見ていた。

「あ、斎藤さん!そっちにノッブが行きました!」
「はいはい」
「や、やめんか!ワシ何もしとらん!」
「したでしょーが!ボイラー室でなーにが焼き芋と洒落こもうですか!ボイラー室は火気厳禁、ノッブの炎上フィールドじゃないんですよ!」

 ひょいっと信長公を捕まえて沖田ちゃんに引き渡せば、その場で説教が始まった。
 それを僕は遠い出来事のように見ていた。
 どろどろとへばりつく汚泥のような怨嗟を堪えながら。





「どうして」

 僕は自室でぼんやりと考えていた。どろどろした黒い塊はまだ心の中にある。
 どうして、彼女は笑っているんだろう。どうして、変わってしまったんだろう。どうして。

「どうしてってそりゃ僕の知らないやつになってたし」

 そう言って僕はごろんとベッドに横になる。疲れた、なんて思った。
 疲れた、飽きた。いや、飽いた。

 沖田ちゃんは屈託なく笑うようになった。それが悪いことだとは思わない。昔のように貼り付けたような笑みではなくなったことは、純粋に嬉しい。

「純粋?馬鹿か僕は」

 純粋に、と思ってから、僕は思わず口に出してそう言っていた。この感情が純粋なものか。もっとどろどろで、ぐちゃぐちゃで、滅茶苦茶な感情だと知っていた。
 それは同時に、途方もなく幼稚な感情でもあった。

 彼女が普通の「女の子」のように振舞う、振舞えるようになったことに、自分が一切関与していない、という事実が、僕をどうしようもなく惨めな思いにさせた。

 変われたんだ、と思った。彼女は、ああやって普通に、いや、普通以上に今の生活を楽しんでいる。それは嬉しい。本当に嬉しい。でもそれは純粋に嬉しいわけじゃない。

『人斬りなんて呼ばれてるよりいいと思うよ、僕ぁ』

 そう稲を刈る沖田ちゃんに言った時、僕はどこかでその言葉の意味を探していた。そのあとにやっぱり笑いながら稲刈りを続けた沖田ちゃんに、僕はどうしようもない感情を抱いていた。
 それは郷愁に似ていて、哀惜に似ていて、悲哀に似ていた。

 あの、新選組という組織にいた沖田総司という女性は、本当に僕の知る人だったのだろうか、と。

「そんなのってねぇよ」

 ぼそっと僕はつぶやいていた。
 そんなこと、あるはずない。沖田ちゃんが僕たち以外の誰かのために、誰かのせいで変わったなんて思いたくない。
 思いたくないのだとすれば、それはおかしいのが僕らだったということになる。

 彼女を笑わせることも、楽しませることもできずに、ただただその組織に縛り付けて、人斬りなんて呼ばれるようにして、笑顔さえ封じ込めて。

 それが真実だと知っているのに、僕はそれを認めたくなかった。





「さーいとーさーん」

 むにと頬を押される感覚と、気の抜けた声で僕は目を覚ます。ああ、横になったあのまま寝たのか、と思った後にサーヴァントも寝るんだな、なんて些末なことを考えた。そうして毎晩寝ているのに、なんて思った。

「お昼、食べに来ないから心配したんですよ」

 その声の主を僕が間違うはずがない。沖田ちゃんだった。

「あー、寝てた。食い損ねたな」

 そう言ったらふふふと沖田ちゃんは笑った。

「そうだろうと思ってエミヤさんに頼んでもらってきました!」

 はい!と元気よく言って彼女は机の上にコロッケそばの乗ったトレーを置いた。

「ごめん」
「いえいえ!体が資本、ですからね!」

 そう言った沖田ちゃんはやっぱりとても楽しそうで、笑っていて、僕は自分の中のどろどろした感情がまた目を覚ますのを感じた。

 どうして笑うんだ。どうして楽し気なんだ。
 じゃあ、あの時の、あの時僕たちが駆け抜けた全部は、お前にとって重荷でしかなかったのか。


 そんなの、認めない。
 認められない。
 認めたくない。


 許さない―――





「斎藤さん、なにを…」

 気が付いたら僕は自分が寝ていたベッドに沖田ちゃんを押し倒していた。別に犯したい訳じゃない。そんなのじゃない。そんなこと、思わない。

「やめっ」
「うるさい」

 僕はそう言って彼女の細い首に手を掛けた。絞めてまではいかないが、呼吸が少し苦しくなる程度になった彼女は、抵抗をやめざるを得なく、ぱたと僕の手を掴んでいた腕をベッドに下ろした。

「さいとうさん、なに」

 小さな声で彼女は言った。ああ、こんなにも細い首、僕の膂力に逆らえない程度の力、白い顔。全部が全部、まがい物に見えた。

「認めない」
「え?」


「僕以外の誰かのせいで変わった沖田ちゃんなんて認めない」


 緩く彼女の首に掛けた手が震えた。自分がやっていることなのに、まるで彼女に縋っているように。

「許さない、絶対に。僕らの過去を否定なんてさせない」

 かたかたと震える手で、僕は彼女の首を絞めていた。絞める?違う。ただ触れているだけだと気づいたら自分自身がおかしく思えた。もう先ほどのように彼女の息を緩く奪い取るようなこともできずに、ただ、縋るように彼女の首筋に震える手で触れていただけだった。

「斎藤さん」
「どうしろって言うんだ」
「斎藤さん」

 呼びかける彼女に構わず、僕は叫んだ。

「どうして変わったんだよ!僕たちは人斬りだった。確かにたくさん殺した。だけどそれも全部僕たちの一部だったはずなのに、お前はそれを全部捨てるのか!」

 叫びは怨嗟に似ていた。叫びは妄執に似ていた。

「どうして、先に進むんだ!置いていったのは僕の方なのに!」

 ああ、僕は。
 そうだ、あの日々を否定されるのが怖かった。
 こんなふうに笑えるなら、じゃあ、あの時あの瞬間、こんなふうにお前を笑わせることさえできなかった僕には何もなかったんじゃないか。

 新選組?見届ける?お前を置いて?
 違う、全部違う。


 これじゃあ、置いていかれたのは僕の方だ。


 そんな理不尽なことを思いながら、僕はその首から手を離して彼女に覆いかぶさった。


「どうして」

 喉がからからに渇いていた。言葉が上手く紡げない。

「どうして、否定するんだ。ぼくたち、は」

 そう言ったら、背中に緩く腕が回される感覚があった。ああ、抱きしめられているのか、とぼんやり思った。

「斎藤さん、違います」

 ゆっくりと、子供に言い聞かせるように彼女は言った。

「私は変わりました。たくさんのことがあって、このことをお話しするのはきっととても時間がかかるし、それに理解してもらえないこともあると思います」

 どろどろとした思考に、彼女の静かな声が染み込んだ。

「でも、私は人斬りです」
「ちが、う」

 お前は人斬りなんて呼ばれなくていいんだ。だって笑えている。お前を人斬りにして、すべてを封じ込めたのは僕たちなんだ。
 だから―――

「新選組だった頃の私を、捨てることなんてできません」

 静かに彼女は言った。言葉が頭の中で反響した。

「斎藤さん、私は進めました。あの日から」

 あの日、という言葉に、僕はもうどうすればいいのか分からなくなって、だけれどその日のことを僕たちは共有できているのだ、と彼女がまだ何も言っていないのにどうしてか分かった。分かってしまった。

「あの日、江戸に斎藤さんがお別れを言いに来てくれたとき、私は斎藤さんを恨みました」
「うん」
「どうして私は進めないのに、あなたは進めるのか。どうして私は土方さんのもとにいられないのに、あなたはいられるのか。そうして、どうしてあなたは傷つく道を選ぶのか」

 そう言われて、僕は返答に窮した。傷つく道、なんてそんなもの無視して恨んでくれればよかったのに、と。

「どうして見届けてしまうのだろう、と思いました。だからあの時、もしあなたに縋って、もうやめてくださいと叫んだら止まってくれたのではないかと今でも思います。でも、今でもそうしたってあなたは先に進んで、すべてを見届けてしまうと知っています」

 ああ、と僕は息をついた。そうか、と。

「進めたんだね」
「はい」

 そう、か。
 あの日々は嘘じゃなかった。
 人斬り集団と言われ、遠巻きにされ、それでも壊れたような貼り付けたような笑みを続けて、そうして最後には僕を見送った彼女との日々は、嘘なんかじゃなかった。

 彼女はやっと進めたんだ。

「一歩を踏み出すことの怖さを、私はやっと知りました」
「うん」
「でもそれは斎藤さんや土方さんがいなければ絶対に無理だったんです」

 そう言って彼女は僕を掻き抱く手にぐっと力を込めた。

「私は変わりましたか」
「変わった、と思う」
「じゃあそれは斎藤さんのおかげです」

 もっとたくさんのことがあって、それは今語るには長すぎると彼女は言った。だけれど、そうやって変わった一部に僕がいるとも彼女は言った。

「認めてくれますか、こんな私を」
「違う。認められなきゃならないのは僕の方だ」

 僕はそう言って彼女を抱きしめた。

「あの時から進んで、お前を置いて、そのくせ変わったお前が許せないなんて言った僕こそ、お前に認められる権利なんてない」

 僕は彼女を抱きしめながら、縋りつきながら、それでも吐き捨てるように言った。

「権利、なんて面白いこと言いますね。私たちは今も昔も仲間です。だから、私は斎藤さんと一緒にいる権利なんていりません。当たり前、です」

 ああ、そうか。
 そう彼女が言ったから、僕も言い返した。

「だったら、お前を認める認めないなんてそんなのどうでもいい。お前が僕の隣にいるのは『当たり前』だ」
「はい」

 そう言ったらふふと笑って沖田ちゃんはひとこと「はい」と答えた。それが全てだった。僕たちは何もかにもを難しく考えすぎていたのかもしれない。

 そこに僕がいて、そこに彼女がいる。
 それだけが全てだったのだから。

「そば、のびちゃいまいしたね」
「別にいいよ」
「エミヤさんに怒られちゃうから食べないとです」
「うん」

 何気ない会話なのに、それがどうしてか嬉しかった。どうしてか、安堵した。
 そう思って僕は彼女を抱きしめた。

 そばが伸びたって、冷えたって、ここには彼女がいて、自分がいる。

 それが全てだと気づくまでに、遠回りをし過ぎたと思いながら―――