この手から、零れ落ちたものを数えるのはもう飽いた。


金砂銀砂


「じゃあ、あんたならなんとか出来たのかよ!?」

 普段飄々としている斎藤が激昂する声が聞こえて、狭いその建物の一室から聞こえるそれに「隊士」はびくりと肩を震わせた。その部屋には今、その声を発した斎藤と、それから新選組副長の土方の二人だけだった。

「斎藤、それがお前の答えか」
「そうだ。なんなんだよ、局長は死んだ、局長の死さえ知らないまま沖田ちゃんも死んだ」
「だが俺のいる限り新選組は続く。続けなきゃならない」
「僕にはそんなものない、そんなものいらない」

 昂った感情のままで斎藤は続けた。

「なんで山南先生を沖田ちゃんに斬らせた!?」
「……古い話だ」
「なんであんたは、失っても失っても前に進もうとする!?」
「それが俺の在り方だからだ」
「もう、やめてくれ副長」

 頼むから、と斎藤は言った。その瞳から一条涙がこぼれた。本当は泣き叫びたい。だけれど、彼にはそれが出来なかった。本当に泣き叫びたいのは眼前の男であり、失った仲間たちだと知っていたからだった。

「止まってくれ、誰も望んじゃいない!」
「俺は望んでいる」
「もう、いい!」

 吐き捨てて斎藤はその部屋から駆け出すように出て行った。そうしてそれから、嗚咽と慟哭が響いた。

「僕は、ぼく、は!ごめん、ごめん、沖田ちゃん、僕には、止められ、な、い」

 叫びはもしかしたら土方に聞こえていたかもしれない。だけれど彼にはもう衆目を憚ることも、何か深く思惟する余裕もなかった。





「斎藤さん、私はきっと死にますね」
「変なこと言わないでよ。ちょっと休憩してるだけでしょ」

 沖田のかくまわれている千駄ヶ谷に寄った時には、彼女にはもう時間が残されていないことがよく分かる有様だった。だけれど斎藤は努めて平静に、彼女を安心させようとそう軽口を言った。

「近藤さんは生きていますか」
「さあね」

 そうして核心の質問ははぐらかす。そのころに近藤はすでに処断されていた。けれど、今の彼女にそれを伝えることはできなかった。そうして、どうして副長はここに来ないのだろうとぼんやり思った。

「北は寒いでしょうか」

 だけれど、そのすべてを見透かしたように沖田は言った。北。今から向かおうとしている、幕府の最後の要所。北、と斎藤は口の中でつぶやいた。北に行くのか、と。このまま、たくさんの物を取り落として、取りこぼして、自分は行くのか、と。

「止めたいです」
「……え?」
「もう北に行かないでほしい。捕まってほしいわけじゃないですよ。だけど、止まってほしい」
「沖田ちゃん?」
「私たちは速く走り過ぎました」

 暗く彼女は笑った。この笑みが、彼は嫌いだった。壊れたような、張り付けたような笑み。

「でもきっと、止まらないのでしょうね」
「沖田ちゃん、僕たちは」
「そうですね、土方さんならきっと、進み続けるしかないと言うでしょう。自分の命がある限り」
「そう、だね」

 そう答えて、斎藤はもう一度思った。どうして、ここにあの副長は来ないのだ、と。
 別れを告げろと言っているんじゃない。
 見舞えと言っているんじゃない。
 ただ、今の彼女のこの姿を見て、あんたはまだ先に進めるのか、と聞きたかった。

「夢を、見るんです」
「……」
「どうしてでしょうね、どうにも昔の夢ばかり見る。山南さんを逃がしきれなかった夢とか、ね」
「あの時、止まっていれば」

 絞り出すように斎藤は言った。それに沖田は笑った。

「一瞬でいい。立ち止まっていれば、僕たちは変われたかもしれないのに」

 どうしてあの人は止まらないんだ。どうしてあの人は止まらずにいられるんだ。

 言葉は声にならなかった。

「斎藤さん。最後のお願いです」
「うん」
「土方さんを止めてください。あの人は傷ついても先に進んでしまう。私はそれが怖い」
「……そう、だね」
「でももう一つお願いです」
「うん」
「斎藤さんも、もう傷つかないで」

 沖田のほっそりとした白い手が彼の手を取った。どくんと脈打ったその手に、彼女が「まだ」生きていることを斎藤は感じた。

「もし土方さんを止められなくても、いいから。もうあなたも傷つかないでください」

 交わした言葉は、今はもう空しいだけだった。





「ご、めん。止められない。止まれ、ない」

 嗚咽を噛み殺しながら、斎藤は言った。
 土方をもう止められないと思った。だけれど同時に、自分も止まれないのだと気づいてしまった。彼がさらに北に行っても、自分はここから離れないだろう。逃げないだろう。
 それが自分たちの生き方なのだと決めたのはいつだろう。

「沖田ちゃん、ごめん」

 その謝罪は、土方を止められないことと、自分自身がもう止まれないことへの謝罪だった。

「ほんとうは、おまえも、止まりたくなかったのに!」

 ああそうだ。山南を斬った時だろうか。誰を斬った時だろうか。彼女の笑みは、もう壊れていた。だから、本当は彼女も止まれなかった。だけれど病が彼女を止めた。

 それが、どうしてか嬉しいと思う自分の浅ましさを思った。

「おまえは、止まれたのだから」

 手の中の砂粒がいくつもいくつも零れ落ちた。掬い上げることはできなかった。
 彼女さえ、救い上げられなかったのに、彼女は止まることが出来た。
 この、壊れたような世界を進むことをやめることが出来た。


 だから、もう。





「それで、いいさ」

 土方と袂を分かって、斎藤は会津の地で一人そう吐き出すようにつぶやいた。

「あんたはずっと新選組だ。それがあんたの生き方だ」

 そうしてきっと、彼女もそう生きたかったのだろうと思った。
 そうしてきっと、彼女はもうそう生きたくなかったのだろうと思った。
 そうしてきっと、自分はこの地で延々と怨嗟の中を生きるのだろうと思った。


 それが誰の怨嗟の声なのか、いつ取りこぼした砂粒なのか分からないままに。





「笑って、る」

 ぼんやりと、斎藤は召喚されたそこで沖田を見つけて言った。訳の分からない時代に召喚されたまではいい。よく分からないままにマスターという存在と歩んだのもいい。
 それ以上に斎藤には驚きしかないことがあった。彼女が屈託なく笑っている。

「副長は、どこだ」

 ぽつんとつぶやいた。彼がいるのに、彼女はこんなふうに笑っているのか、と思った。あの息苦しいような笑みではなく笑っている。そうして彼女はその土方を探している。

「斎藤さん、こんなところにいたんですか」

 山崎さんの真似ですか、と木陰からマスターや岡田たちと談笑していた沖田たちを見ていた彼のもとに彼女はやってきて笑った。「笑った」。

「沖田ちゃん、ごめん」
「え?」
「僕には、副長を止められなかった」
「斎藤さん?」
「どうして、笑えるの。僕も止まれなかった、戦い続けてしまった。おまえの願いを踏みにじった!」

 泣き叫ぶように斎藤は言った。
 どうして、この彼女はこんなにも屈託なく笑えるのだろう。マスターが原因かと思った。だけれど絶対にそれだけじゃないという確信があった。

「斎藤さん、泣かないでください」
「泣いて、ない」
「私は、たくさんのものを取り落としました。笑顔さえ」
「だから、それは僕たちが!」
「止まれなかった。止まらなかった。もしかしたらその妄執がこの特異点を作っているのかもしれませんね」
「え……?」
「でもいいんです」

 彼女は、今度こそ昔のように昏く笑った。

「ねえ、斎藤さん。一緒に土方さんを探してくれますよね」
「ああ」
「何一つ落とさないなんて、私達には出来なかったんですよ」

 初めから、と彼女は言った。

「進んで、進んで、失って、失って、それでも走り続けた。それが新選組だった」

 遠くを彼女は眺めながら言った。鳥が飛んでいる、と斎藤はぼんやり思った。
 あの鳥にも、帰る場所はあるのに、と思った。

「帰りましょう。明日も誰か埴輪になってるかもだし」

 ほんとにノッブはもう!とまた明るく笑って沖田は言った。そうしてくるりと背を向けて、集落の方に向かっていく。斎藤が後ろから追いかけてくると信じていた。いや、知っていた。

「ごめん、沖田ちゃん」

 何一つ失わずに、何一つ壊さずにいられたのなら、良かったのに。

「僕たちは」

 そうあれかしと誰が望んだのか、結局誰にも分からない。
 砂が零れ落ちていく。




月光・私とワルツを(鬼束ちひろ)