「山崎」

 名を呼ばれて俺は、視線だけでそれに応じた。このところ、この男はこういう呼び方をすることが多くなった。
 こういう。
 猫なで声とは違う。だけれどそれに近い。
 警戒させずに近寄ろうとするのに、‘警戒しろ’と警告するような声。
 俺は、その声に何時も行き場を失う。

「何や」

 忙しねん、と振り返らずに障子の辺りから声を掛けた市村に応じて、俺はもう書き終わった報告書に墨を入れる振りをした。

「山崎」
「返事したやろ」


 振り返りたくない。
 振り返るのが怖い。
 振り返ったら、そのまま取り殺されそうだといつも思う。そんなこと、ありはしないのに。


 溺れる様に。
 その呼吸を奪う様に。


「山崎、」

 声が近づいて、その呼吸が肩口に掛かる。
 猫なで声やない。甘えを含んでいるともいえる。

「ほっとくくせに」

 俺はぼそりと非難の言葉を紡ぐ。
 放っておくくせに、都合のいい時だけ甘えるお前が、嫌いや。
 都合のいいのがお前やのうて俺の方なんも、嫌いや。
 結局、俺が甘えたいことを知ってて、そやけど俺が甘えられんのも知ってて、そうやって甘やかすお前が嫌いや。

「嫌いや」
「知ってる」
「……うそ」
「知ってる」

 こんなに女々しくはないはずだったのに。俺が耐えられないくらい放っておくお前が悪いのに。
 覆い被さるように俺を掻き抱く彼に、ゆっくりと背中を預ける。それを受け容れるように、彼は俺をすとんと抱えた。

「市村」

 ふと名前を呼んだが、返答の代わりに頭を撫でられた。
 これじゃあ、どっちが甘えてるんか分からん、と思ったけれど、本当に甘やかしているのは市村の方なんや、と知っているから決まりが悪い。

「どこにも行くな」

 俺は、気が付いたら訳の分からないことを口走っとった。
 どこにも行くな。
 そんならお前はどこに行くと、俺は言うのやろう。

「どこにも行かないよ」


 毒を流しこまれるように、微温湯に浸されるように、その甘やかな声が俺を縛り付ける。
 そしてどろどろに融けていく。
 思考が、声が、身体が、思いが―――


「ほんま、毒な男や」


 ぽつりと呟いたら、市村が背中で笑う気配がした。


 毒を喜んで飲むように、内側から、全てが彼に塗りつぶされてゆく。