眠い。
そう思ったら、眠気はひどくやわらかに躯に落ちた。
花葬
インターホンを押して、返答を待つ。
この辺りでは、中の上ほどの、まあまあいい部屋には、インターホンにカメラが付いているから、「彼」が帰っていれば程なくして鍵は開く。通り(と言っても、マンションの間の小路だ)から見えた窓には、確かに明かりがついていたから、開くものだろうと思って、彼はドアの前に立っていた。
しかし、鍵の開く気配どころか、「彼」がリビングから玄関に向かって来る音さえしなくて、彼―市村辰之助は首をひねった。
「何かしたかなあ」
真っ先に口を衝いて出たのは、そんな気弱な言葉だった。
「彼」の機嫌を害うようなことを、しただろうか、と考えてみたが、特に思い当たる節はない。
ただ、主体的に機嫌など損ねようと損ねまいと、「彼」の機嫌が悪いときは間々ある。
或いはそれは、己の弟の癇癪よりも手の掛かることにも思えて、彼は息をついた。
だが別段、鍵が開かないからといって、四苦八苦して「彼」の機嫌を取らなければ、今夜の宿に困るほど、逼迫した状況ではない。
鞄の内ポケットを探れば、冷たい感触が指に触れた。
「この程度の嫌がらせには、いちいち屈しないからな」
そう呟いて、鍵穴にそれを差し込む。
屈しないも何も、そもそも彼に、入室を躊躇う理由はない。現に、彼はこの部屋の鍵を持っている。
鍵―「彼」はルームシェアの相手だった。
「山崎!」
ドアを開けて怒声を放つ。返答はなかった。
(今のはまずかったかなあ)
返答のないことに、余計に「彼」の機嫌を損ねただろうか、と思いつつ、彼はドカドカと玄関を入る。そんな配慮など早く棄てるべきだと、分かっているが、どうにも問題なのは己の臆病らしいと分かってもいる。
「山…ざ…き」
もう一度怒声を放とうとして、しかし、彼は口許を手で覆った。
「山崎」
今度は、小さくその名を呼ぶ。
同居人の山崎烝は、リビングのテーブルにレポートと思しき紙と、分厚い本を広げて、それらを覆うように、腕を枕にして眠っていた。
「寝るなら部屋で寝ろよ」
本当なら、勉強だって部屋でやれと言いたかったが、それはもう諦めた。
勤め人の市村に比べれば、いくら医学生と言えど、山崎の帰りは早い。
山崎は、部屋で市村の帰りを待つのをずいぶん嫌った。それで、リビングの机にはいつも当たり前のように彼の勉強道具が広がっている。
だが、彼がこんなところでこんなふうに寝ているのは、もしかしたら初めて見たかもしれない。
「疲れてんのかな」
彼は微笑んでネクタイを緩める。
部屋からカーディガンでも取ってきてやろうと、なるべく音を立てないように気をつけて、彼の横を通り抜けようとして、そのひどく簡単な作業に、彼は失敗した。
「山…崎」
通り抜けようとしたその寝顔は、ひどく穏やかで、その姿に彼は鞄を取り落とす。
(例えば―)
考えて、それから彼の背中がゆったりと上下するのを確認して、その思考が如何に愚かしいことか、彼は思い知った。
(例えば、山崎が、息を―息をしていないのでは、ないか、なん、て)
カタリと彼の突っ伏す隣の椅子を引き寄せて座る。
近づいた彼の寝顔は、疲れているのか少し青褪めていた。それでもその寝顔は穏やかで、そうして思う。
まるで―
まるであの時の死に顔のようだと。
「自分の死に際くらいは、よう判るわ」
被弾して幾日と経たない時だった。
床に臥した彼は、掠れた声で市村とその弟に苦笑して言った。
「なんせ俺は医者やからな」
その声は、どこか誇らしげだった。
だがその言葉に、市村は心の中で反駁する。
医者が、前線で被弾していいはずがないだろうと。
確かに彼は副長助勤の幹部だ。忍としての実力も、実戦経験も豊富だ。前線で戦うことは自明だった。
だが、だが、だが―
思考は空転した。彼の弟は泣きじゃくっている。
「泣くなや」
「だって、ススム!」
「お前も、市村もや。後生やからわろてくれ」
その願いを、彼も、鉄之助も必死に果たそうとした。それは悲しみと涙とが入り混じったひどく複雑な笑顔だったが、彼は満足したようにその蒼白な顔に笑みを浮かべて、それから目を閉じた。
その目が開くことは、終ぞなかった。
鳥羽の辺りの冬は、去年のそれよりは、幾分ぬるく思われた。だが、年が明けていくらも経たないそこに、花はない。あるのは、凍るように冷たい水だけだった。
その水に、冷たい水に、花もない水に、彼は沈められた。
「山…崎…や、ま…ざ、き…っ!」
その寝顔に、彼が呼吸をしていることを分かっているのに、彼は顔を覆った。そして嗚咽を噛み殺しながら涙を流す。
分かっているのに、ぽたりぽたりと涙がこぼれた。
「山崎…山崎…やま…ざき!」
縋るように何度もその名を呼ぶ。
(目を―目を覚まして、く…れ)
『山崎…山崎…』
己の名を呼ぶ声がした。
返答しようとして、そういえば、ずいぶん深く眠っているから、それは面倒だと思い至る。
我ながら我が儘なものだ。
声は途切れなかったが、なぜか膜を通したようにそれらは撓む。
(水…)
ああ、水か。
そこでやっと、躯が徐々に沈んでいることに気がついた。
水は冷たくもなんともなくて、そのまま沈んでしまっても構わないと思う。
だが、彼の声は途切れなくその名を呼ぶ。
(うるそうて、敵わん)
応えないのはなんだか余計に面倒なことに思われて、水面に向かって手を伸ばす。
バシャンと音がして、夢は途切れた。
「山ざ」
「なに人の顔見て泣いてんねん」
パチリと漆黒の瞳が開かれた。
「気色悪い男やな」
いつも通りの悪態に、だが市村はまた涙を流す。
「生きて…」
全く以て情けない言葉に、山崎はしかし、ある程度のことを認識した。
「お前の方が、死にそうな顔しとるわ、阿呆」
なるべく何でもないことのように言って、息をつく。
(生きていたのか、なんて―)
言われても、返答のしようがない。
もうここに、この時代に、命を害う脅威など、そうそうありはしないのだから。
それから彼は、二、三度頭を振って、先程まで見ていた夢を追いやろうとする。それは、死に際の夢だった。
(水に…沈む)
己の骸が、水に沈められたのだと知ったのは、死から百年以上も後のことだった。だから、それは、死に際の夢というふうに言うのは間違っているのかもしれない。だが、少なくとも、眼前の男にとっての「死に際」は、きっとその水に沈む時だったのだろうと、そう思うことがある。
それでも、彼の夢の中身を、市村が知るはずもない。
そう思うと、余計に不毛で、顔を覆って泣く彼に掛ける言葉を、山崎は持ち合わせなかった。
嗚咽も、叫びもなく、苦しげな息遣いだけが聞こえた。彼は、あの時もそうやって泣いていたのだろうか―そう思ったらどうしようもなく苦しかった。
「泣くなや、阿呆」
「悪…い」
短い謝罪は、震えていた。顔を覆った手の間から、ぽたりと水が落ちる。
「寒くて―」
震える声で、彼は言った。
「お前を、水に沈めたときは、本当に寒くて」
「……ああ」
「雪…が、降ってた。あんなに、あんなに寒いのに、俺は、お前を―」
「……お前のせいと違うわ」
「だけど…っ!」
世界には、黒と白と、それから赤しかなかった。
水面は暗い闇のように黒く、降りしきる雪は冴え冴えしいほど白く、そして、落ち切らなかった彼の血は、乾いてもまだ赤かった。
一輪の花すら、なかった。
そうしてやがて、彼の亡骸は水に沈み、悔恨ばかりが残る。
「花…」
「…?」
「花さえ、準備する暇がなくて…」
悔いは、今もまだ彼を縛りつけていた。その事実に、山崎は目を伏せる。
「バカにしとんのか。戦で死ぬんに、花なんいらんわ」
そう吐き捨てて、彼の顔を仰ぎ見る。ぴたりと顔に寄せられた手は、声同様小刻みに震えていた。
「いつまで、泣いとる気ィや」
その姿を見ているのが嫌で、彼は投げ出されたペンを指先で玩ぶ。
そこにあるのは沈黙だった。彼は黙して涙を流す。彼は黙してそれから目を逸らす。
目を、逸らす。
もう、十分すぎるほど、目を逸らしてきた。記憶というものに、過去というものに。
だけれど、多分、それは許されないのだろう。そのことに、二人とも気がついていた。出会ってしまったその時に、清算の時を求められたのだろうと、そう思った。
不意に、彼は顔を覆う手を離して、山崎の腕を取る。
「な…ん?」
腕に触れた彼の手は、冷たいと思った。濡れているせいだと思おうとして、一度逸らした視線を彼に戻す。背の高い彼を見るとき、それはいつも振り仰ぐような動作になる。
色素の薄い双眸からは、まだ透明な雫が滴っていた。
「行かないか?」
「…は?」
「―花を、沈めてやりたいと、ずっと思っていた」
その言葉に、一瞬視界が真っ赤になるのを、彼は感じた。
それは、怒りに似ていた。喜びに似ていた。
憤ろしく、そして、嬉しい。
「嫌…か?」
「…嫌に決まっとるやろ。己の沈んだところになんぞ、行きたくもないわ」
ふっと視線を逸らして、彼はうそをついた。
うそ―
嘘だった。自分の死に場所を見るのが嫌なのではなくて、彼がそこに花を沈めるのが嫌だった。
(まるで、悋気や―違うか…)
悋気―過去の己を、妬ましく思うのだったら、それでいいのかもしれない。だが、彼のそれは違った。
ただただ、今度は、今度こそは、彼の手を放したくない―それだけだった。もし、花を沈めたら、そのまま彼も、冷たい水に呑まれてしまうのではないかと、そう思うから。
「お前が嫌なら、いいさ」
それは、行かないという意味だろうか。それとも、一人で行くという意味だろうか。
そのどちらも、受け容れられるほど、彼の心は広くはなかった。
「しゃあない」
彼は小さく呟いた。
「ええわ。行ったる。行って、言ったる」
そこで彼は、一拍息を吸った。
「様ァ見ろ、て」
「え…?」
「様ァ見ろ。お前の好きやった男は、俺のモンやてな」
「お前だろ、それ」
言う相手も、言われる相手も、間違いなく彼であることを知っている市村の濡れた頬を、細長い指が掠めた。
「俺は俺や」
分かっていた。彼は自分で、自分は彼で、そして、「彼」の前に立つ己は、変わらないのだと。だけれど、もし、過去の己が、現在の彼を縛るのならば―
「行ったる。但し、一回きりや」
「うん」
「それで、仕舞いやからな」
「ああ」
「あとはもう、絶対赦さん。いっぺんでも行ってみ。腹掻っ捌いてナカミ取り出したる」
縛るのならば、それがどんなに辛いことでも、棄ててしまった方がいい。
(忘れんでくれ、なんて―)
忘れないでくれ、なんて、言えないけれど。きっと、彼は忘れないだろうけれど。
この胸の痛みを、寂寞を、そして、そして―
そして、再び廻り会えた喜びと奇跡を、忘れはしないだろう。
「なんの花がいい?」
声は、もう震えてはいなくて、視線の先で、彼はやわらかく微笑んだ。
「せやなあ…」
そう言って、彼は、その微笑みから目を逸らす。
「せや…なあ」
声は僅かに震えていた。
雫が一条、頬を伝った。
私の最期に相応しい花を択べと貴方は言う―
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「夜行抄」で最初に書いたのはこれでした。山崎旧暦忌日に合わせたのでした。
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