平穏無事。
 これが俺の今生を端的かつ適切に表現する四字熟語やった。
 平穏無事。
 くるくると回る勉強机付属の椅子を遊ばせながら、俺は紅茶を持ってきた姉上を見た。見て、言った。

「平穏無事」
「あんた、ほんまにええ性格になったな」

 姉上は呆れたように苦笑して、それからクッキーの袋を投げ寄越した。


 毒の入った茶の代わりに、セイロンの紅茶。
 首許を狙う千本の代わりに、洋菓子店のクッキー。


「平穏無事以外の何物でもないやろ」


 生きている、姉上。
 それだけでも十分すぎるほど平穏無事やった。
 俺たちは―――





『チャンスやと思ったわ』

 姉上は、奇麗に笑って言った。

『アンタと、やり直せるチャンスやって』

 泣き出してしまいそうなほど奇麗に、笑った。





 今生で、前世の記憶がある彼女に出会った時、俺はやっぱり彼女の弟だった。ずいぶん都合がいい気もしたけれど、だとすれば、それは俺にとってもチャンスやった。過去の自分が犯したことを清算しようとか、そういうことやのうて、やり直したかった。姉上と同じように。
 やけど、俺の口から最初に出てきた言葉は考えつく限りの謝罪やった。


 前の世で、彼女を死に追いやったのは間違いようもなく俺で。
 俺の甘さが、全てを決してしまって。
 彼女を姉と呼ぶことすら出来なくて。


 謝り尽くした俺を、彼女は静かに見据えて、それから頬を張った。


『謝ってほしいなんて思っとらん』
『やけど……!』
『組を、あんたを守れれば私は十分やったの』
『俺は、貴女を…』
『私はアンタに会いたかってん。もう一遍、姉弟になってみたかってん』
『会いた、かった…』
『うん』
『貴女に、もう一度会って、どうしても、言いたかった』
『う、ん』
『姉上、て…!』
『烝は、ええ子やね』
『あねうえ』
『ほんまに、ええ子、や』


 涙など捨てるべきだと、短い生を生きた俺たちは、この世で初めて互いの泣き顔を見詰めた。
 ひどく不器用で、ひどくあたたかな、再会だった。





「あんた、医者になる言うたやろ。ちゃんと勉強しぃ」
「平穏無事に医学部合格したわ」
「大学入って困らんように春休みがあるんやろ!」

 全く、と言って、姉上は持ってきた紅茶を机に置く。俺の机に広げられていたのは、大学合格と共にお払い箱となった参考書ではなく、物件の資料だった。

「いいとこ見つかったん?」

 覗き込んだ姉上に、冊子を一冊手渡す。

「来週その不動産屋行く予定。東京遠征的な」
「遠征的な、いうか、もうそれで決めよ。そーとーギリギリやないの」
「めんどい」
「あんたなあ。うちの系列蹴って東京行く言うたんやから、キリキリやりや」

 呆れたように言って、姉上は冊子をぱらぱらめくる。うちは元々医者の家系だから、姉上か俺のどちらかを医者に、というのは前々から言われていたことやった。総合病院の経営は、わりかし儲かるのである。
 姉上は、順風満帆にうちの系列の医科大に進み、順風満帆に医師免許を取り、だが何故か調理師免許を取って、ある意味順風満帆に小料理屋をやっている。でも、その方がずっと収まりがいいように見えた。
 そのようなこともあって、俺が医者になるのについては異存はないのだが、大学選びがそれなりにもめた。

 手紙である。

 家族としては、面倒がない身内経営の医科大に進むことを望んでいたが、東京の大学病院から手紙が来たのである。別段、凄まじく成績がいいとかそういう訳ではなく(模試の成績表を見せて、旧帝大の医学部に合格する程度やと言うたら、姉上に殴られたけど)、ただそれは、俺の‘名’を知る方からの手紙だった。





『松本先生やな……』
『……私の知らん人ね?』
『俺に、医術を教えてくださった方です』

 俺たちは、そこで初めて一つの可能性を提示された。今生で俺たちの家があるのは京都の端で、そこはほとんど‘生家’と一致していた。だが、正確には元の血筋そのままという訳ではない。だから、本当にたまたま、俺と姉上だけがこの世に転じた、というのが、その手紙が届くまでの俺たちの共通認識やった。


『この世に、いる?』


 呟いた声が、その手紙にするりと吸いこまれた気がした。
 手紙は、家族が見ることを前提としていたのか、当たり障りのない推薦しますよ、というような内容だった。だけれど、間違いなく、この人は俺を認識して俺に宛てた手紙を出したのだ、と分かった。……華押だ。A4判のインクジェット紙の書類には全くそぐわない、華押。たまたま同姓同名、という訳ではなさそうだった。
 その後、数度の遣り取りを経て、それは互いに確信に変わった。互いに、その可能性を持ちながら疑いもあったのだ。だが、手札が多いのはあちらだった。‘顔馴染み’が他にもいるらしいことが書かれていた。


『東京行くしかないやろ、これは』


 俺は小さく呟いた。
 運命。そんなもの、信じたことはなかった。
 姉上と再会してもそれは変わらない。
 だけれど、二百年ほどの過去を、清算する時を求められているような気が、した。





「雪、降るな」
「お前は慣れてるんじゃないのか」


 男との、最後の会話は、至極真っ当で、至極平穏だった。
 至極凄惨で、至極酷薄なそこに於いて交わしたそれが、ひどく脳裏に焼き付いていた。
 男は、俺を笑わせようとしたのだと思う。船の一室に彼が火鉢を運んできたから、ああ、今日は雪だなと思った。思ったままを口にしたら、彼は慣れているのではないかと言うた。確かに、と小さく思う。確かに、京の寒さには慣れている。


「見納めやな」


 呟いたら、彼の弟が俺の名を叫んだ。そんなこと言うなと言う様に。京の雪が見納めなのか、彼らの顔が見納めなのか、だけれどどっちだって同じやった。

「自分の死に際くらいは、よう判るわ」

 気持ちは凪いでいた。体だけが冷えていく。

「後生やからわろてくれ」


 後生。
 その願いを、彼の弟も、そして彼も、必死に果たしてくれた。
 後生の願いが叶う日を、俺はその時考えていやせんかった。





「この景気ですからねえ」


 不動産屋に入って、まずはじめに聞こえてきたのはとある一角のスペースの担当者の困ったような声やった。学生マンションのレベルよりも遥かに高額なマンションを、借りるか買うかするのが今回ここに来た目的だが、俺は一気に眉をひそめた。
 景気上向きが建前の、税金上乗せ。手放させたくないのは分かるが、解約ぐらいさせてやれ、と、本当に他人事なので他人事のように思う。思うてそれから、面倒だから借りずに買うことにしようと決めた。面倒な不動産屋に当たったな、と、ひどく憂鬱な気分になったところで、その憐れなカモの声がして、俺は目を見開いた。


「ですから俺は、一人もんです」


 その声に総毛立つ。目を見開いて、その声がした方を見る。色素の薄い、やわらかな髪が見えて、俺は気が付いたらその不動産屋の入り口から一番奥のその交渉スペースに近づいていた。

「お客様、あの」

 店員の声が背中でして、不審そうに交渉担当の店員も顔を上げる。その声と動作を見てやっと、その‘憐れなカモ’はくるりと振り返った。




「…やま…ざ…き…?」
「その部屋買うわ。幾らや」

 阿呆みたいな顔をした市村辰之助の顔面に、俺は財布を叩きつけた。


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