内奥 下
「気ィつけて帰りよ。ほんま、最近物騒やねん」
返ってきたのは、大丈夫やという全然大丈夫やない間抜けた返答だった。姉上は案外抜けている。今だって、新幹線を乗り逃すところだったのだから。
「自営業やさかい、一本くらい乗り逃してもええんですよ」
と言われて慌てたのは局長と副長だった。それはそうやろう。二百年越しの再会とかそういう以前の問題点が、今生の姉上にはありすぎた。
「歩さん、自由だなあ」
新幹線の窓からこちらを見てにっこり笑う姉上に、市村がぼんやりと言った。結局、副長が車を飛ばして郊外から駅まで来た訳だが、副長は副長で仕事があって、見送りは俺と市村やった。
「自由すぎて涙出る程度には自由や」
俺が呟いたら、姉上が眉をひそめた。あかん。唇読まれた。
「市村のも読め」
見えやすいように態とはっきりした口調で言ったら、市村が不思議そうに振り返る。そうしたら姉上は『鉄之助くんによろしく』と唇だけで言った。
「そのうち連れてくわ」
そう俺が言ったところで、駅員独特のアナウンスがその新幹線の発車を告げた。
*
「何だったんだ、最後の」
「読唇術」
「ああ……すごく、‘らしい’な」
市村は呆れたようにため息をついて、駅のカフェのコーヒーを飲んだ。俺が頼んだのはエスプレッソで、ダブルショットでもすぐになくなりそうだったが、まあまあいい店だなと思う。
「で、なんて?」
「『鉄之助くんによろしく』」
「鉄、今日学校だったからなあ」
「安心せえ、メールしとるらしいわ」
「……相変わらず俺の知らないところで着々と事が進んでる訳な」
「そっちも安心せえ。俺も知らんところや」
「なんだ、妬いてるのか」
こいつは、一周しても相変わらずな性格だった。その割に、一周したその結果のような姿を見せることがあって、それは俺もそうだから何とも言えやせんけれども、どうしようもなかった。
*
リビングでうたた寝をしていたら、トンっと大きめの音が頭の近くでして、俺は意識を覚醒させる。……物音には、相変わらずどうにも敏感やった。
「ここで勉強してもいいけど、寝るな」
頭の下には大学の教科書があって、市村はトンっとそれを手近なペンで叩いた。
「部屋使えよ」
「……」
俺は、決まりが悪くて頭の近くに置かれたマグカップを取る。俺がこの部屋に押し掛けたその日に気に入ったと言った紅茶は、あの日から切らさずにキャニスターに入れられていた。そういう細かいところが、だけれど今は憎らしかった。
一人の部屋は、ひどく静かだった。
ひどく静かで、耐え難かった。
そこにその男がいるのに、一人の部屋、というのは、どうしたって昔を思い出させた。どうしてか、俺たちは妙な具合にぱらぱらと散り散りになっていた。そこにいるのにいない。そんな静かな亀裂が、過去には確かにあった。
それと同じとは言わんが、それに近いものは確かにここにもあった。
俺自身がそうかもしれない。独りでいることを頑なに拒もうとする。だからリビングに勉強道具を広げて、剰え寝てしまう様なことをする。
市村は市村で、俺を通して‘山崎烝’を見ていることがある。俺に投げる視線に、時折ゾッとすることがあるのやった。冷たい訳ではなくて、そこにいる‘山崎烝’という存在を、どうしたって獲り逃したくないと言うような、そんな視線やった。
彼を通して‘彼’を探す俺と市村は、どうしようもなくふらふらしている気がした。
「どうにかせんといかんかな」
俺はぽつんと言った。
市村は、曖昧な視線で俺を見た。ゾッとするような、だけれど曖昧な視線で。
「何を」
「ん?今晩の飯の話や」
「……相変わらずだな」
相変わらず?二百年のことを言ったのか、それともこうして再会してからのことを言ったのか、俺は、この男の心の奥底に眠る‘彼’を知らない―――
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