それが奇妙な「記憶」だと気が付いたのは、いつのことだっただろう。
ぼんやりと思い出したのは小学生の頃。自分の名前に違和感があった。親が幕末好きで、「土方歳三」という名前になったらしい俺は、同級生から有名人の名前、とずいぶんからかわれた記憶があるが、それ以上にその名前で周りから呼ばれるたびに、どうしても奇妙で、懐かしいような、どこかが締め付けられるような気分になった。
「土方課長、これ」
「終わってる」
そんな古い記憶を呼び起こしながら、トンと揃えた書類を部下に渡したら、相変わらずというかなんというか、呆れたような顔をされた。
「あの、三日後が締め切りなので言いに来ただけなんですが」
「性に合わねぇ」
「出世にはいいかもしれませんが、いい加減体壊しますよ」
平然と答えて、今日も定時で退社できそうだな、なんて思う。部下の顔は呆れと、心配で染まっていた。その顔も見覚えがあるのだ。彼が自分を覚えていなくても、この部下はあの頃の隊士の、大切な仲間の一人で、だからこんな俺にも気安くて。
だから、俺以外誰も、前世の記憶なんていうこんな与太話、きっと持っちゃいないんだ、と思った。
*
中学の時の修学旅行が函館だった。うわ、自分と同じ名前の有名人が、と思ったところで、秋のその修学旅行だったのに、寒い、と思った。
手がかじかんだ。引率の教師からは風邪だろうと言われて、すぐに宿泊していた旅館に戻された。だけれど、これは風邪などではないと俺はそこでやっと思い至った。
手が、かじかんだ。
指が、かじかんだ。
引き金に掛ける、指が、その土地の冷たさに、かじかんだのだと、俺は気が付いた。
気が付いてしまった。
『あああああああ!』
叫び声はだから当たり前のように一人の部屋に響いた。それなりの施設で良かったと思う。北の大地は、『俺』の最期の土地だった。
『俺』は『土方歳三』だ。過去を生きて、死んで、現代に生まれ変わったのだとその少しの時間で濁流のようなそれに理解させられた俺は、だから。
『総司、山南、市村、』
思いつく限りの名前を呼んだ。誰か、ここに来てくれと祈るように。誰か助けてくれと縋るように。
『こんどう、さん』
最後に呼んだ名に、俺はぼろりと涙をこぼしていた。
会いたい、会いたくない、助けたかった、助けられなかった。あなたにずっと守られていた俺は、この土地で、一人で、あなたの遺志を継いで、だけれど果たせなくて。
『もう一度、だけで、いいから』
ぼたぼたと流れる涙は、どこか血に似ていると俺は思った。ひどく歪んだ思考回路で。
*
「と、三日後の仕事が終わっているところ申し訳ないのですが」
「なんかあんのか、帰るぞ、俺は」
あの日会いたいと、もう一度だけと願った誰かは、近藤さんだけではないたくさんの『誰か』は、結局その記憶というものに蓋をするようにして生きているうちに、高校を卒業し、適当な大学に入り、真っ当な会社に就職し、この歳で課長に昇進するまで一人も現れなかった。
「ああいや、それもそうか」
「え?」
目の前の男は、そうだ、部下だったのだ、と思ったら、やはりこの馬鹿のような御伽噺を引きずっているのはきっと自分だけで、もしかしたら山南あたりと街ですれ違ってるかもな、なんて自嘲のような笑みがこぼれた。
「すまん、どうした」
「ああ、いえ。取引先の社長さんが土方課長に会いたいと」
「は?」
言葉に俺は面倒事だ、これはと思って眉間にしわを寄せた。引き抜きやヘッドハンティングなんて単純なものならもっと適当にやるだろうに、なんで社長なんだよ。どこの誰だか知らないが、取引先なら無下に出来ないし、絶対無理難題の発注でも掛けられるやつだ、と思ってしまう。そういうのは営業の仕事だろ、とか、いや、まあそういうの部下に押し付けるのは良くないんだが、とその一瞬のうちに思考して、俺は大きく息をついた。
「いつ?」
「あー、なんか個人的に、という話でして」
「お前が知ってるなら上も知ってるんだろ?なんでそうなる」
これは余計に面倒事だ、と俺はその言葉に眉間に手を当てて、本気で頭痛がし始めたのを感じていた。
「あれですって、断り切れなかったらしいです。それで課長に直接言うのもなんだからって隠してるみたいで、でも直前に聞くのって嫌かなあと思い小耳に挟んだものでお伝えしようかと」
よくできた部下だな、というか会社全体の倫理的にはあまりよろしくないが、俺としては今も昔もとても助かる部下だ、とその男に思ったら、そいつはとんだ爆弾を落としてくれた。
「まあ、上の気持ちも分かると言いますか。ミブロ商事の社長だそうですよ、ほら、あの、課長がなんか書類ばらまいた、あの。いや、それ以前にうちよりも業績五倍くらいありますからね、上も断れないでしょう」
言葉に俺は本気で頭痛がして、それからその「ミブロ商事の社長」の姿や顔を思い出して、気が付いたらその時の記憶やら何やらで、盛大に書類をぶちまけていた。
*
たまたま会社の廊下ですれ違った男は、間違うはずもない『近藤勇』だった。
こんな夢みたいなことがあるんだろうか、と思った。二十年近くも追いかけたその記憶が形になったのだ、と思った。だから、思わず、俺は声を掛けていた。
『近藤さん!』
『はい?』
分かっていたくせに。そうだ、この御伽噺は俺だけの茶番で、だから、誰にもこんな馬鹿げた記憶なんてなくて。きょとんと不思議そうにこちらを見返したその男に、俺は分かっていたくせに、失望や悲しみで持っていた書類を盛大にぶちまけた。今思っても実に滑稽だ。
『大丈夫ですか』
そう言ってその『近藤さん』が書類を拾おうとしたら周りがあたふたとしだした。
『あの、近藤社長、うちの社員が失礼を!』
『いや、別段。どこかで会ったことがあったかな』
『土方君、ちょっと頼むから、その!』
それからゆっくりとその人が首から掛けている来客用のそれに書かれた「ミブロ商事社長 近藤」の肩書に、ああ、取引先で一番でかいミブロ商事の社長なのか、なんて的外れなことを思った。
『失礼しました。昔の知り合いによく似ていらして』
『ああ、そうなんですか』
『書類も申し訳ありません。すぐに片づけますので、お気になさらず』
当たり障りのないように言って、俺はなんでそんな偉い人間がこんな会社の廊下にいるんだよ、と八つ当たり気味に思いながら、どこかきまり悪そうに、きっと俺がぶちまけた書類をそのままにしておくのが嫌なんだろうが促されて歩いていく彼に、相変わらず律義でお人好しなその人にどこか懐かしいような、悔しいような気持になりながら、書類を拾った。
『なんで』
声がこぼれて、それから、俺は部屋に戻るまで何の仕事をしていたか、よく思い出せなかった。
*
「あんたを武士にしてぇんだ」
「ああ。だがな、そん時は歳も一緒だからな」
「どこまでだって」
日野の、そこから這い上がろうという俺たちは笑った。壬生浪士組が結成されたんだ。俺はこの人を本物の武士にしてみせる。この人が大将だ。
そう誓ったんだ。本当に、そう誓って、その人を旗印にして、俺たちは戦ってきた。
それが終わりに向かう戦いだなんて知るはずもなかった。
それが破滅しか呼ばない行く末だなんて、知るはずもなかった。
もし知っていたら、俺はこの、世界で一番大切な人をそんなところに連れて行かなかった。命を懸けてでも止めた。
もし、もし、もし。
もし今の俺があの時の「俺」に言葉を掛けられるなら、その人の腱を断ってでも、そこから、日野から動けないようにしろと叫んだだろう。
誰か止めてくれ、と叫びだしたいのに、声は言葉にならなかった。
あの日、武士になろうなんて、一緒に行こうなんて言わなければよかった。本当に、あんたを、あなたを止めて、それでそうして、ゆっくりと当たり前のように生きて、時代が変わって、そうして死んでいけたなら。
あなたのそんな最期になど、俺は。
それさえ止めることの出来なかった俺は。
「馬鹿だな、俺は」
自嘲気味に、一人の部屋で笑う。命を懸けても、あんたの死を止められなかった俺のことを、あんたが覚えていてくれるはずないんだ。覚えていなくていいんだ。覚えていても、辛いだけだから。自分の死んだところなんて、俺みたいな馬鹿野郎に見殺しにされるみたい死んだところなんて、忘れていたほうがいいに決まっていたのに。
それなのに、馬鹿で浅ましい俺は願っていたんだ。あんたが、すべて覚えていてくれて、また昔のように話をして、歩んでいけるのではないかと。
「覚えていなくて良かった」
カチ、とライターで煙草に火を着ける。いい加減やめようと思っているのに、どうにも昔からの癖で吸ってしまうのは悪癖としか言いようがないな、と思いながら。
「そうだよ、覚えていなくていいんだ。あんな、あんな」
言いながら、一口も吸っていない煙草が震える指からぽとりと灰皿に落ちた。じんわりと長いそれが燃え殻になっていく。
「あんなに惨くて、救いもなにもない、ただの馬鹿どもの記憶なんざ、いらないんだ」
声が震えた。
自分が泣いているのだとその段になって初めて気が付いた。
誰も彼もが死んでいった。敵も味方も、今になって思うとなかったような気さえした。ただ時代の不条理がたくさんの事々を踏みつけて、そうして。
―――違う。
「あんたを守れなかったのは、俺だよ」
ああ、叫び出して泣きたい。もうこの世の終わりのように泣いてしまいたい。だけれど、大人になってしまったからか、それともその記憶さえ遠いものになってしまっていたからか、涙は小さな嗚咽と流れるだけの滴で済んでしまった。それがひどく浅薄で、薄情な気がして、可笑しかった。可笑しいと思うほどに、その思いは凪いでいた。
「新撰組副長なんて、結局局長一人守れない馬鹿だったってことだ」
俺は誰かが思うような男じゃない。俺はあんた一人守れなかったんだ。
だからきっと、これは。
俺だけが全てを抱えて、すべてを覚えて、歩いて行くこれは。
「きっと、俺には一番ふさわしい罰だ」
叫び出して泣き出す代わりに笑いが落ちた。俺には何の権利もないのだと、例えば、あなたに縋りついてしまいたいと思っても、そんな権利も、救いも、どこにもないのだと、知っていた。
「浅ましい、どこまでも」
つぶやいて、燃え殻になった煙草を見る。ああ、口寂しいからと、昔の続きのように始めたこれは、もうやめようと思った。
昔話は、もうやめよう。
*
「なんで……俺なんだよ」
「課長優秀だからじゃないですか」
部下に適当に言われて、俺は今生で初めて「近藤さん」に会った日の出来事を一通り思い出して、ぶちまけた書類を適当に片づけている部下に八つ当たりのように言った。
「明日あたり、上からミブロ商事との商談に行け、みたいに言われますよ」
さらり、と部下は恐ろしいことを言って、俺はもう一度頭痛がやまない頭を抱えた。
「そういえば、煙草やめたんですね。喫煙所来ないから、結構みんな驚いてましたよ」
ヘビースモーカーの印象あったので、と男は続ける。
「あ?別に吸わなくても死なねぇし」
ていうか吸う方が死ぬだろ、とか適当に思って答えたら、男はその柔らかそうな地毛を混ぜるようにして笑った。
「そのくらいの決意があればなんとでもっていうか、前の時点でやめた方がいいと思ってたんですけども」
「……?」
何言ってんだ、こいつ、と思う。言っている意味が理解できなかった。
「待ってますよ、きっと。だから明日はちゃんと行ってくださいね」
は?待ってくれ、お前は、だから、俺は名前を絶対に、呼ばないように、そうして分かってしまったら、ただ、辛いだけだ、か、ら。
「副長は筋金入りの頑固者だから、心配なんですよ」
もう十分に大きくなった、というか大学を出て、何年か俺の下で部下をやっていた青年が笑って言った。
「いちむら……?」
「はい?どうしました、土方課長?」
きれいさっぱり、いつもの顔で、「市村鉄之助」が笑った。
何が、起こっているんだよ。
*
『あー、すまんがそこの君、ちょっといいかな』
『……副長のことでしょうか』
『話が早くて助かるな、やっぱり一番の小姓だなあ』
『からかわないでいただけると』
『というかでかくなりすぎじゃないか』
『えーと、失礼ですが今生は俺ももう成人して何年経つかって感じなので、はい』
それからここ会社なんであまり疑われない範囲でお願いします、と廊下の隅で彼は言った。
『あんな調子なのか、ずっと?』
『……そうですね。あんな調子です。俺のことも覚えていない前提で話が進むというかなんというか。ですからこちらからは何も』
覚えていない方がいいと思っているんでしょう、と青年は続けて、だから俺はこの少年、いや、もう十分に青年だと分かる彼も成長して、歳を気遣ってくれていたんだと思ったらなんだか可笑しくて、そういうところが変わっていない気がして、ひどく懐かしいような、それでいて寂しいような心持になった。
『二人そろってうちに来ないか』
『あー、その、副長に聞いてください』
『自主性の時代だぞ』
『でしたらまずお二人で解決してください』
そうきっぱりと、成長した彼に返される。その通りの言葉に、一瞬彼の口からそんな言葉が出てくるなんて、と面喰ったが、本当にその通りだったから、俺は大きく笑っていた。
『それもそうだ。じゃあ、また』
次があるのは、不思議な気がした。
次があるのが、当たり前の時代に生まれたことが、不思議な気がした。
だけれどそこで出会えたのなら。
『諭される立場になったかぁ』
帰り路でふとつぶやく。あの少年から諭されて、気を遣われるなんて、もうなんだか終わってるな、俺たちは、と新撰組副長で、俺の右腕で、そうして、誰より愛した男に思った。
『じゃあまず、話をしようか』
*
市村にその記憶の有無だとか、近藤さんのことだとか、そういうたくさんのことを聞こうとしたその時には、彼は「今日は定時で帰ります」ときっぱり言って帰ってしまった。俺も別に残業があるわけではないからとっ捕まえて聞いてやるかと一瞬思ったが、怖く、なった。
「俺だけじゃ、ないのか」
ぽつり、と言葉が落ちる。ああ、荷物をまとめて帰らないと。
誰か嘘だと言ってくれ。
こんな御伽噺は、作り物の、紛い物だと言ってくれ。
そう思って、思った。
そうか、俺は。
「誰も彼も覚えていなくて、これが俺だけの見ている夢なら、どんなに楽で、どんなに幸せで、どんなに苦労もなくて」
どんなに良かっただろうと思っていたんだと、そこに至って気が付いた。
「浅ましいな」
ぽつり、と呟いて、俺は帰路についた。
*
市村に示された可能性、というものに俺はどくんと心臓が跳ねるのを何度も感じていた。
ああ、そうか。彼がもしも覚えているのなら。
他にも覚えている者がいるというのなら。
これが俺一人の夢幻のような紛い物ではないのなら。
「怖い」
一人の部屋で、体が震えた。ガラガラと、現実が、そうして過去という虚構が、音を立てて崩れていくように。
「あの人が、覚えていたら。市村のように、覚えていたら」
俺は何と言って謝ればいいのだろう。何をして償えばいいのだろう。
償えることなど、贖えることなど、もうどこにも残っていない。
ああ、ずっと。そうだ、ずっと。俺は、俺一人だけがこれを抱えて、だから誰も彼も忘れていて、だから償わなくてもいいのだという微温湯に甘んじていただけなんだと思った。
大きくなった少年は「決意」と言った。そんなもの大の大人の俺にはないと笑いたくなった、泣きたくなった。
「ああ、お前にも、償わないといけないことが」
たくさんあって、だから、それで、だけど、その前に、お前は。
「近藤さんに向き合えって、言うなら」
あの少年に気遣われたのだと思ったら、その成長が喜ばしいような、こそばゆいような、今ここにはそぐわないことを思った。思ってそれから、ああ、と思う。
「市村は、覚えていたけれど……」
例えば近藤さんは覚えていなくて、だけれど償うことが決意だと彼が言うのなら。
「怖い」
もう一度、呟く。
誰か助けてくれと叫び出したかった。誰も助けられなかった俺は、今でもきっと、あそこに縫い留められて動けないままだから。
「あの人に、会ってしまうのが、怖い」
本当の本当に、怖いんだ。こんなにちっぽけな世界のどこかで、あんたを救えなかった俺は、あんたに救われていただけの俺は、だから。
「市村に心配されるなんざ、もう終わりだな」
怖い、怖いと思いながら、背中を押されたのだと知って、ひどく安堵している自分もいた。ああ、そうだ。
向き合わなきゃならないんだ。あの、御伽噺のような過去と。
その時が、来ただけなんだ。
二百年の昔話を、今ここで終わらせよう。
*
次の日、明日出張に行ってくれと市村に言われた通りに上から言われて、俺は前のように書類をぶちまけることもなく、唯々諾々とそれを聞いた。
昔話に、終止符でも打てばいいんだろう、と。
*
案内された社長室には、もう茶が準備されていて、人払いが済ませてあったらしい。まあよく分からんが引き抜きならあり得なくもない、のか?いや、たぶんあり得ないと思うがこういうこともあるのかもしれない、なんて適当に思って、勧められたままソファに掛ける。
「本日はどのようなご用件でしょうか」
「慇懃無礼を地で行く感じだな」
「失礼しました」
こちらをじっと見ている近藤さんに言われて、俺はこの人に仮に記憶がなくても、思い出さなくても、今日ここで、終わりにする決意をしてきたのだから、と自分に言い聞かせる。
「土方歳三」
「はい」
はっきりと、昔と変わらぬ声で、変わらぬままの名を呼ばれて、短く応える。終わりにすると決めてきた。それが決意というやつだった。
「なんか堅いなぁ」
そう言って近藤さんは立ち上がってこちらに寄ってきた。
「やっぱりこっちの方がしっくりくるよな、歳」
とし、と呼ばれて、総毛立つ。破顔した近藤さんの顔は昔とちっとも変わらなかった。
あんたも、覚えて、いてくれて。
じゃあ、あの日、あんたを救えなかった俺を、覚えて、いるんだろう。
じゃあ、どうして俺を、どうして、どうして、どうして。
「俺の右腕になってくれ、頼む」
言われて俺は、視界が真っ赤になって、真っ暗になる、そんな奇妙な感覚を味わって、それから叫んでいた。
「俺はあんたの右腕なんかじゃない!!」
*
「俺はあんたの右腕なんかじゃない!!」
叫んで、気が付いたら泣いていて、泣き叫ぶなんてもうきっとないだろうと思っていたのに、笑った近藤さんに言われたら、泣き叫んでいた。この社長室が防音かなんか知らない、どうでもいい。
初めてすべてを思い出して泣いた日のように、濁流のような記憶が押し寄せて、終わらせる決意をしてきたのに、涙は止まらなくて、嗚咽がこぼれて、そのまま俺はスーツ姿の近藤さんにしがみついていた。
「右腕だったら、あんたを死なせたりしなかった。俺がもっと、もっと強くて、賢くて、そうして正しければ、俺はあんたを喪わずに済んだんだ、あんたは死なずに済んだんだ!」
そう叫んだ俺を近藤さんがグイっと引き寄せる。しがみついておきがなら、やめてくれと思った。だって、そんなの、違う。駄目だ、と。
「あれは俺のせいだよ」
抱き寄せて、大きな手で俺を撫でて、彼は笑った。
「俺が死んだのが歳のせいなわけないだろう」
ちがう、おれが、もっと。
違う、俺が、止めて。
言葉が形にならないままに、彼に抱き留められたそこでじっと見つめられる。そうして、近藤さんは突き放すような、優しい言葉を言い放った。
「自分が死んだ責任をお前に取らせるような局長になった覚えはないぞ、土方副長」
「あ……」
この人は、どこまでもあの隊の全てで、この人を喪ってからも新撰組という形を続けた俺は、じゃあ、やっぱり、紛い物の、そう思ってぼろぼろと泣きながら彼を見返したら、今度は頬を優しく張られて、それから両の手で優しく顔を挟まれた。目線が、逸らせない。
「俺が死んでからも、新撰組を最後まで引き継いでくれたのは、お前だろう、歳」
違う、違うんだ、あんたを、喪った痛みに耐えらえないのに走り続けた俺は、だから、本当は許されるようなことなんて一つもなくて。だから。
全部、終わりにするために今日ここに来たのに、なんで。
「よく頑張ったな。俺がいない間もずっと」
違う、そうじゃ、ないんだ。だから、違うんだ。
叫びだしたいのに、目を見つめられたらただただ涙が流れるだけで。
「お前は間違ってなんかいない。俺がいなくなってからも、ずっとずっと走り続けた。俺たちは」
そう言って近藤さんはゆっくりと俺の顔から手を放して、そうして俺を抱き締めた。されるがままの俺の涙が、彼のスーツの肩口に落ちた。
「少し速く走りすぎたな」
ああ、そんな許しのような言葉を聞いてしまったら。
ああ、そうだ。俺たちは、あの不条理な時代で、速く走りすぎて、どこかで立ち止まって、どこかで誰かを止めていれば、きっと何か違ったのかもしれなかったのに、と思ってしまうから。
「だけど、もう過去のことは変えられない」
言葉に肩に顔を押し付けたままこくんとうなずく。変えられない、変えたかった。日野のあの旅立ちの日から、あんたを止めていれば良かったと今になれば思う。だけれど、それはきっと出来ないことだから。
だから俺たちは、ここで向き合わなければならないのだろうから。
「なあ、また一緒に行かないか、歳。今度は、歩いて」
笑い含みの声が言った。顔は見えないのに、彼があの俺が大好きだった、今でも大好きな笑顔でいることがすぐに分かった。
「歩いてで、いいなら」
「もう走らなくていいから」
ああ、終わりにしようと思ってきたのに。
もう一度、あなたと歩き出すことが許されるのだろうか、本当に。
謝りたい、償いたい、贖いたい。
そうずっと思ってきた。
だけれどその人は、そのどれもを自分の責だと呑み込んで、そうして俺に、もう走らなくていいと言ってくれた。
永く遠い昔話を終わりにしてくれたのは、やっぱりこの人で、俺はずっとこの人に助けられていて、だから。
「近藤さんがいないと、俺は駄目だな」
泣きながら、笑って言ったら、近藤さんは笑った。
「歳がいないと俺も駄目だから、お相子だな」
そんな軽口が、ひどく嬉しかった。
*
「歳の部屋なんにもないなー」
「そう、か?」
その足で部屋行ってもいいかと言われて、別に断る理由もないし、と思い、部屋についてから、しかしまあ、大会社の社長を入れるような部屋でもなかったか、とぼんやり思う。思ってそれから、ふと思ったことを口にしていた。
「あのさ、近藤さんってミブロ商事の社長なんだろ」
「うん?」
なんかあまりにもアレな社名だよなあと今更のように思いながら問いかける。
「奥様とか、いないのかなって」
聞きたくないのに言葉は落ちて、ふと思ったことだったけれどそれは少しだけ痛みを伴う言葉で。だって、ずっと、と一瞬思って、自嘲に似た感情が落ちた。
出会えただけで十分だろう。
覚えていたなら御の字だろう。
というよりだ、許してもらって、こうしてまた二人で歩いていけるのに、もう走らなくていいのに、もっとその先を求めようとする俺は、だから、浅ましい。
あの過去の感情は、ずっと引きずってきた感情は、全部仕舞って、飾っておけばいい。誰にも触らせないように、誰にも気づかせないように。
「いないけど、なんだ、急に?」
けろりと答えられて面喰う。いや、だって、年齢的にも、役職的にも、と言葉を継ごうとしたら、急に口づけられた。
「……は?」
「いやだって、歳どっかにいるかなあってほんとに先週まで思ってて。結婚する気はなかったが」
「なに、言って?」
「え?歳って俺のことが好きだったろう?」
そう言ってその人はからりと笑った。やめてくれ、そんな顔、違う、駄目だ。それは、駄目で。
「俺も歳のこと好きだったけど、忙しかったしな、うん、走り過ぎだな、アレ。今の会社やってるよりもかなり堪えるなってこの段になって思うが」
平気なふうに言われて、俺は過去と向き合うとかそういうこととはまた違ったどうしようもない難問にぶち当たって、そうして、気が付いたら、ドンと近藤さんを突き飛ばしてしまっていた。
「知ってたのかよ!」
「いや、あの態度で気づくなって方が難しい気がするんだが」
バレバレかよ!?と思ってそれから、じゃあなんで、とか、バレバレでもいいから、とか、もうぐちゃぐちゃな感情が駆け上ってきた。
「ずっと我慢して、俺は副長で、あんたは局長で、だから、俺はずっと!」
「なんかそういうのも可愛いなあ、くらいに思ってたけども」
「ば、馬鹿じゃねえのかあんた!?俺がどれだけ、だから、あんたを死なせちまった時も、ほんとに、だから、だって」
近藤さんに記憶があると分かった時以上に取り乱しているのが自分でも分かる。言葉はまともな形にならなくて、だって大好きだった、愛していた。
いくらだって女を買ったさ。いくらだって遊んだよ。
だけど、俺の中にあったのは、俺の中にいた一人の人は、近藤さんだけで、それはあんたが局長だからなんかじゃない。
あの日、そうだ、止めればよかったあの日野のあそこで、あんたに出会ったその日に、押しかけるように出会ったその日に、あんたに惚れてたなんて、だって、誰にも言えなくて。
言えたのかもしれない。でも、きっと言ったら壊れてしまう気がしていて。
嫌われるのが怖くて、邪険にされるのが怖くて、だから、ずっと。
そうだというのに、そんなにあっさり、そんなにさっぱり、言うなんて。
「ずるい、だろ」
「なんだ、いまさら。俺が狡賢いのくらい知ってるだろう?」
笑って言われる。なんだよ、それ、ってことは全部、俺が、言い出すまで?
「いや、うん。でも今はその自分の狡賢さが仇になったなあと思ってる。お前が言い出すまで待ってようと思ってたんだがそんな暇無くなっちまったからな」
俺は、だから、我慢して、必死にこらえて、だけど言葉にならなくて、だっていうのに、あんたはいとも簡単にそんなふうに言うなんて、ずるい、だろ。
俺が言うのを待ってたくせに、今生じゃ先に言って。
「好きだって言いたかったのに」
「言ってるじゃねぇか」
近藤さんが笑った。
そうだ、俺はこの人が好きで、愛していて、誰よりも大切で。
だから、それはとても大切なことで、ずっとどこかに仕舞っておけばいいと思っていて、それなのに。
愛していると、好きだとずっと言いたかったのに。なんであんたが先に言うんだよ。
いいけど、それだっていいけど、だって俺は、必死にその思いをかき集めて、仕舞って、それで、だから。
「馬鹿野郎」
「歳に言われるとほんとにそうだと思うなぁ」
「なんだよ、俺が、ただの嫉妬女みたいに、なって」
「お、妬いてくれてたのか?」
「妬いてたよ!あんたは隊士だけじゃなくていろんなやつに慕われて、だから、一番はどうせ俺じゃないと思ってて、だけど名目上の、地位の上での一番は俺だから、と自分を慰めてきた俺は、だったら」
そう叫ぶように言ったら、ふと笑われた。
「俺の一番は歳だよ、ずっと、全部」
ああ、そんなふうに笑われて、俺は何を返せるのだろう。俺は、あんたが大好きで、あんたに惚れていて、あんたを愛していて。
「……せない」
「うん?」
「返せない、なにも。あんたが愛してくれるなら、俺は何も、返せない」
昂っていた感情がふと凪いで、ゆっくりと近藤さんにしがみついて言ったら、彼は可笑しそうに笑った。
「いいさ、何も返さなくて」
でも、だって俺は返さないと。あんたの思いに、報いたいんだ、だから。
「なにせ全部もらうからな」
「……え?」
からりと言われた言葉に目を見開く。どういう、意味なんだ、と。
「仕事もそうだが、お前、明日にはこの部屋解約しろ」
「は?」
「俺の家に住めって言ってる。犬が一匹しかいないが、けっこう広いぞ。お前のことそのうち絶対見つけると思って買った家だから。キャッシュだぞ」
ちょっと、待て。あんた何言って。
「好きなんだろ、俺のこと。まあ仮に嫌いだとしても俺は好きだし愛してるから勝手にさせてもらうが、仕事もプライベートも四六時中そこにいてもらうからな」
「こんどう、さん?」
「恋仲だろ、俺たちは」
ていうか結婚するか?と言われて、俺はやっと思考が繋がって顔が真っ赤になってしまうのが自分でも分かり、たたらを踏むように一歩下がった。そうしたらその体ごと抱えられる。
「全部もらうから、何も心配することないぞ、何か返そうなんてな」
あんたはいつも強引で、優しくて、だから。
「ほんとに、いいのかよ」
「歳じゃないと嫌だ」
だから、今度はあんたとゆっくり歩んでいけたなら、それで十分だから。
何かあったら立ち止まろう。何もなくても、空を見上げて立ち止まろう。
もう走らなくていいんだ。
あんたと歩いて、ゆっくりどこまででも。
御伽噺に、さようなら。