失うなら全てを。
夜行 下
二月、かつての都の端。
俺は、どうしたって彼が一人でここに来ることを許せなかった。
沈めてしまいそうな気がしたのだ。過去の己が、彼をこの川に引きずり込んで、その凍るような流れの中に沈めてしまいそうな気がした。沈めるのが過去の己だとしても、それをやるのは間違いなく‘俺’やった。
俺は、彼が思うよりは多少、過去に執着している。
(鬼が出る)
土手から川面を見つめながら、俺は静かに思った。
「山崎。来ないのか」
土手の下、川縁から市村が声を掛ける。
川底の俺が、俺を呼ぶ声が、した。
(鬼が出る、いうんは、市村やのうて、俺)
彼の方が、多分鬼など呼ばないのだろうと思った。川底から呼ぶ‘俺’の声が聴こえないか?と、ふと思った。叫ぶような声が聴こえんか、と。
「山崎」
彼は、相も変わらず容赦の無い‘優しい’声で俺を呼んだ。俺を呼ぶのが、間違いなく‘市村’で、少なくとも今の俺も市村辰之助という男の傍にいるのだ、ということを、叫び出す川底の彼に教えたかった。教えて、だけれど‘彼’の死がどうなるものでものうて、どうなるものでもないことを知っていて、教えずにいられん‘自分’が、どうしたって憐れやった。
俺は何も言わずに川辺に下りた。困ったような市村が頬を掻く。
「怒ってるか?」
「別に」
怒りより悲しみ。
怒りより恐怖。
「なあ」
俺の声は、そうして彼を飛び越えた。
「幸せかどうかは、分からん」
「山崎…?」
「俺も、‘お前’も、コイツに流された感があるやろ」
川底に向かって言ったら、市村は決まり悪そうに、所在無さげに俺の横に並んだ。
「やけど、満足はしとる」
ハッとしたように市村がこちらを向いたけれど、俺は知らん振りをした。
「しゃあないやん。そういう生き方しか選べんえかった。選べん時に、コイツの弟とコイツに会ってもうたんやから、引っ掛かるに決まってるやんな。ヒドイ男や」
俺は、しゃがんでその凍るほど冷たい水に右手を浸した。
「相も変わらずコイツはド阿呆で、やけど俺はまた引っ掛かって」
冷たい水を、俺は軽く揺らした。流れが更々と俺の手を掠める。
「割と満足してるやろ、‘俺たち’は」
その声を、市村は静かに聞いていた。最期の最後に言えなかったことを、今言おうと思った。
鬼が出る。身の内から鬼が出る。
その身の内に飼う鬼が、川の水面に映って消えた。
然様ならばと謂えども言えず。
「俺の最期に、コイツの弟と、それからコイツが居って、俺は満足やった」
川面に映った鬼の顔が、俺と重なる。身の内の鬼は、‘俺’以外の何物でもなかった。
「条理、不条理、幾らでもあったわ。幾らかて、お前は俺に清算せえと言うやろう」
姉上のこと、友のこと、彼のこと。
一つ一つは、時代ゆえの不条理に掻き消された。掻き消されたけれど、それで良かった。良かった?否、それしかなかったのだ。
俺にとってそれが夜行なら、彼にとってもそれは夜行だった。
「騒がして悪いな。悪いけど、この男は俺のもんや」
俺は静かに言って、竜胆の束を紙包みから乱雑に取り出した。そうしてそのまま、その青い花をその水に浮かべる。
世界には、色が無かった。
冬枯れの無色の世界に、ただただ青いその花が広がっていく。
赤よりは、いい気が、した。
彼の心の内なんぞ、分かりはしないけれど。
それは、彼に俺の心の内が分かりはしない様に。
「この男は俺のもんや。お前には遣れん」
俺は青い花に彩られた鬼に言った。
「あの男が、最期までお前のもんだったみたいに」
本当のことを言ったら、市村は呆れたように息をついて俺の横にしゃがんだ。視線が同じ高さになって、どうしたって花が沈みそうにないことを、彼もまた認識した。
沈まないのだ、と思ったら、なんだか可笑しかった。
「キョーレツな告白だな」
「そうでもないわ。言う機会がなかっただけや」
今も、昔も。
そう続けたら、彼も可笑しげに笑った。
「鬼が出るな」
「今更」
いまさら、か。
悪くない。
「初めっから、夜行みたいなもんやろう」
その道の果てに、沈むことのできない青い花がゆるりと浮かんだ。
*
土手の上を点々と歩く。道は決まっていた。
「どこ行くんだ」
「姉上ん店」
「アユ飯か」
もう鬼の出ることがない大路を、二人、歩く。
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連載再開前に書いたものなので、いろいろありそうですが、山崎忌日に寄せて。
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