大型のショッピングセンターは、入り口から真っ赤に染まっていた。包装されているはずなのに、甘い香りが漂ってくるような気さえして、俺は少しだけ気後れする。だが、隣の彼女が楽しげに店の中に走り込んでいったのに、つられるように笑顔になってしまい、その後を追った。


恋人未満


「やはり現世に来て正解だったな!」
「そうか?」
「うむ。あちらではここまでの品揃えの店などないから」




 2月。日曜に突然、ルキアが現世にやってきて、「買い物に連れて行け」と言い出した。

「何買うんだよ」
「ん?2月だぞ、決まっているだろう、チョコレートだ!」
「チョコだあ?バレンタインか?死神もんなことすんのかよ」
「ああ。皆、案外現世の風習が好きでな。流行に敏感な者も多い」




 ルキアは、物珍しげに端から箱を手に取っていく。

「はんどめいど…と言うのか?手作りの材料のコーナーはないだろうか?」
「あ?あるだろ。手作りにすんのか?」
「ああ。喜んでもらえるとうれしいのだが」
「そりゃ、誰だって嬉しいだろ」
「そう思うか?」

 俺の言葉に、ルキアはパッと笑顔になる。それに、俺は一瞬言葉を失った。

(どうせ、白哉とかだろ。気にしすぎだ)

 心の裡でそう言い聞かせながら、俺の思考は、ルキアが自分で作ったチョコレートを誰かに渡すという、それでいっぱいになってしまった。それが白哉だとしても、恋次だとしても、他の誰だとしても、それはきっと、親愛以上の感情を持たないものだと言い聞かせようとしても、どうしても俺の思考には苦いものが落ちてくる。

「どうした、一護?」

 心配そうに顔をのぞきこまれて、俺はハッとする。眉間にしわが寄っていただろうか、それとも、ぼんやりしていただろうか。とりあえずその場を繕うように笑って、手を振る。

「何でもねえよ」
「何でもないということはないだろう。すまぬ…やはり、こんな売り場に来るのは嫌だったか?」

 しゅんとしてしまったルキアに、焦りが募って思い切り首を振った。

「んなことねえよ!ほら、手作りだろ?こっちだ」

 軟弱なことを考える、自分自身へのせめてもの反抗。俺はルキアの手を取って、歩き出す。

「なんだ。元気ではないか」

 安心したように、たしなめるように、ルキアが言った。余裕のない心の中身までは、さすがの彼女にも見えないらしい。

「それに…」

「…?」

 ルキアが何か言った気がした。だが、その声は喧騒に紛れてしまって、彼女も、するりと俺の手を抜ける。きっと、材料のコーナーを見つけたのだろう。たったそれだけのことなのに、離れていったぬくもりが、まるで、もう一生手に入らないような気がして、俺は自嘲に似た、歪んだ笑みを口元に浮かべた。

「手作りのものを作るには、市販のものより、製菓用…?のものを買った方がいいと松本副隊長に言われたのだが…」
「あー、市販のは甘いからな。チョコだろ?確かそんなこと聞いたことある」

 それから彼女は、手元のメモを何度も見ては、チョコレートやら、バターやらを買い物かごに入れていく。量はそんなに多くなくて、というか、明らかに、俺が想定した白哉や恋次、浮竹さんを始めとした隊の仲間に渡す分量としては、材料が足りなすぎる。

「おい。足りないんじゃないのか?」

 一応指摘すると、ルキアはびくっと肩を揺らした。

「たっ足りなくなどない!これで十分のはず…だ」

 彼女はそう言って、メモを凝視する。だが、その反応の意味が分からなくて、すっと顔をのぞきこむと、ルキアは真っ赤になった。

「あの…、兄様や、浮竹隊長は、チョコレートが口に合わんと悪いから、和菓子でも作ろうと思っていてな。あんこなどはあちらにも美味しいものを売る店があるから」

 しどろもどろというふうに、真っ赤なままで彼女は言った。

(…え…?てことは、これ、本命用…?)

 相変わらず真っ赤な顔をしたルキアに、ガツンと殴られたような気がする。つまりあれか。俺は、本命用のチョコの買い物に、しかも、手作りチョコの買い物に付き合わされたわけか。
 ショックはショックだ。だが、例えばここで、彼女を置いていくなんて考えも浮かんだが、そこまで辛辣にはなれない。惚れた弱みというのが、事実上振られてからも有効だということを、俺はここで初めて知った。




「付き合わせてすまなかった」
「いや、別に気にしてねえよ」

 そうはいっても、声音はどこか暗くなる。それを察してか、「やはり…」とルキアは申し訳なさそうに俯いた。

「やはり、面倒だろうか。こういうことに付き合わされるのは」
「面倒とか…そういうんじゃねえけど」

 声は、思ったよりも冷たく響いた。ルキアはパッと顔を上げる。きっと情けない顔をしているだろうと思って、早く帰ってくれと思った。我ながらひどい思考だ。

「すまぬ…」

 ルキアはそう言って踵を返す。そちらは、俺の家とは違う方角だった。いつもみたいに、帰る前に「寄っていけよ」という、たった一言が、今日は言えなかった。




 火曜日の六限目。ぼんやりと窓の外に視線を投げる。今日なんて、早く終わればいいのに、と思いながら。朝から、下駄箱の中には小さな包みがいくつか入っていたし、たつきからも叩きつけるように箱を投げつけられた。井上も、石田やチャドにも渡してきたのだと言って、包みを一つくれた。何の日かは分かる。分かるが、分かりたくなかった。
 長閑にチャイムが鳴って、一日の授業が終わる。がやがやと人が出入りする教室で、啓吾と水色がやってくる。

「一護、この後暇?ちょっと買い物あるんだけど、付き合ってくれないかな」

 水色に言われて、返答しようとしたその時だった。

「……!?わり、ちょっと用事!」
「一護!?なんだよ、んな焦るほど、」

 啓吾の言葉を聞き終わる前に、俺は教室から飛び出していた。霊圧を見分けたり、追ったりするのは苦手だ。だが、この霊圧だけは、間違うはずがないから―

「ルキア!」
「…!一護、か。授業が終わったようだな」

 校門の近くの壁にもたれかかっていたルキアは、俺とは逆に、霊圧を察知できなかったようだ。驚いたように目を見開いて、それから、少し笑う。

「お前、何か用事は?」
「お前こそ、わざわざそんな格好して来たからには、誰かに用事じゃねえのか」

 プリーツスカートに、Pコート。マフラー。わざわざ現世の服を着ているからには、多分、何か人間相手に用事があるのだろう。任務ではないということは、はっきりしていた。

「……用事ならある。時間はあるか?」

 問われて、俺はちょっと返答に困る。ルキアの霊圧を感じて走り出てきたはいいものの、この間のことが頭の中をちらついた。あんなの、喧嘩別れといってもおかしくなかったし、まだ笑顔で話せるほど大人でもない。

(それに……)

 今日はバレンタインなのだという事実もまた、重くのしかかる。

「……暇でないならいい」

 ルキアも多分、この間のことを気にしているのだろう。どこか寂しげに笑うと、さっと歩き去ろうとする。だが俺は、思わずその腕をつかんでいた。

「一護!」
「こんなところで話してたら、知り合いに合うかもしれねえだろ。適当に行くぜ」
「…っだから!」

 何か言おうとしたルキアの言葉を遮るように歩き出す。どうしたらいいのか、なんて、よく分からなかった。だけれど、少なくとも、彼女がどこかに行ってしまったら、それはどうにも、耐えられないことのような気がした。


「おい、一護!いい加減放せ!」

 引きずるようにルキアを連れて、近くの公園まで来たところで、そう言われて、ハッと我に帰る。

「悪ィ…!」

 「全く…」とだけはっきりと言ったが、その先は上手く聞き取れなかった。最近―と言ってもここ一週間ほどのことだが、ルキアの言葉を聞き逃している気がしてならない。それは、なんだかもったいないことをしているように思えて、俺は放した彼女の手にもう一度手を伸ばす。すると、ルキアの手に触れる代わりに、無機質な感触が手に触れた。

「…なん…だ?」
「分からぬか!空気の読めん男だな!」

 手に触れたのは赤いラッピング。それと彼女の顔を、視線で何度か往復すると、ラッピングに負けず劣らずルキアの顔も赤くなる。

「今日が何の日か分からぬのか!」

 怒ったように言われて、俺は頬に血が上るのを感じた。

「バ…バレンタイン、だ…な」
「そ、そうだ!皆まで言わすな。受け取れ!」

 ぞんざい過ぎて、少しだけ寂しいが、それ以上に、今の己の手の中にあるのが彼女からのバレンタインのプレゼントなのだということが頭の中を支配する。だがそこで、俺は一つの可能性に突き当たった。

(例えば…これの中身が和菓子だったら…つまり、あれだよな、別に本命やったってことだよな)

 思うよりも弱々しく考えて、だが、手は勝手に動いた。彼女に同意も取らずに、礼も言わずに、ガサガサと包みを開く。

「一護!こんなところで…!」

 顔を真っ赤にしたルキアが止めようとするのも無視して、俺は中の箱のふたを慎重に開けた。

「…………チョコだ」
「当たり前だろう!貴様は私をなんだと思っているのだ!」
「だってお前、和菓子作るって言ってたじゃねえか」
「それは!兄様たちの分だ…その…ほ」

 『ほ』と言ったきり、ルキアは固まってしまった。その先が出てこない。だが、だいたいの予想はついて、俺は、顔に熱が集まるのを感じた。

「ルキア、お前、真っ赤」
「うっ、うるさいぞ!貴様こそ真っ赤ではないか!」
「で、なんだよ。言ってみろ『ほ』?」

 ここまで来て、俺の中で少しのいたずら心が芽生えた。ほ。その先を、彼女に言わせたい。本当なら、俺が言うべきなんだろう、男として。だが今日は、特別な日だ。もし彼女がそう思ってくれているなら、今日この日と、今手の中にあるチョコレートは、彼女を後押しする大きな材料だ。―後押しされるのは、俺も一緒だけれど。

「ほら、言わないと分かんねえぞ」

 うらみがましくこちらを見上げた視線が、わずかに潤んでいるように見えた。だが、じっと見つめ続けると、ルキアの唇が小さく動いて、空気を震わす。

「本命は、チョコレートにしようと思った」
「……!」
「何をする!一護ッ!」

 予想していたとはいえ、それは思ったよりもずっと心に響いて、俺はルキアを抱きしめていた。

「一護!やめろ!」
「やめねえよ」

 声は、かなり冷静に響いて、腕の中でばたついていたルキアの動きが止まる。

「やめねえ。お前が本命って言ってくれたから、これは俺から言うぜ。やめねえよ。俺はお前が好きだからな」
「ッ!」

 「好き」という一言は、案外あっさり口からこぼれた。

「貴様は…私の気も知らずに、手を繋いだり、抱きしめたりと、やりたい放題だな」

 ため息をつくように言われて、ふと思い返す。聞き取れなかった彼女の言葉は、いつも俺が彼女の肌に触れた時に上げられたものだったように思う。
 ずいぶん遠回りをしてきた気がする。お互いに好意を抱きながら、こうやって切欠がなければ進展しない関係。それを先に破ろうとしたのがルキアだったことが、少し悔しくてうれしい。俺は大概怖がりだった。例えば、好きだと言ってしまって、今までの微温湯のような関係を失うのが怖かった。
 そう思ったら、なんだかばつが悪くて、俺は彼女を抱きしめたままで言う。

「お前さ、本命相手に買い物付き合わせたわけ?」
「そっ、それは!例えばお前が…チョコレートが嫌いだったりしたら、売り場に行くのも嫌がるのではないかと思ったのだ。そうなれば、もっと別のものを用意しなくてはならないだろう?」
(うわ…可愛すぎる…!)

 口には出さないが、思ったよりもずっと可愛い返答で、俺はルキアを抱きしめる腕の力を強めた。

「一護、苦しい」

 小さく言われても、俺はぎゅうぎゅうと彼女を抱きしめた。それから彼女の黒髪に、気づかれないように唇を落とす。それは、嬉しさの、安堵の、そして何より、愛しさの詰まったキスだった。
 彼女を抱きしめる腕を緩めて、視線を合わせる。言うことなんて決まっていた。

「今日は別に仕事とかないんだろ?なら、寄っていけよ」


恋人未満砂糖をかけて




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恋人未満からの発展について。ハッピーバレンタイン!
2012/2/14