日記

久しぶりにただの日記です。

この間、仙台に行ってジャンプショップにも寄ったので荒木先生のジョルノのサインも見たのもあり、ぼんやり考えていたことをまとめました。
ジョジョの6部と8部と岸辺露伴は動かないの内容が含まれますが、だいぶ私自身の私見が多いです。
あと新書「荒木飛呂彦の漫画術」の話も少し。悪役の作り方の方は入ってないと思います、たぶん。

そんな感じの日記というか考察みたいな日記です。

考察未満というか日記なので日記に書けというのもそうなんですが。
荒木先生のこともぼんやり考えていたのは先日仙台に行ったからもあるかもしれない。ジャンプショップでジョルノのサインも見たし。

6部と8部、動かないのことを考えていたんですよね、何となくですが。なんでか分からないけども、6部のころにBLEACHの一護が成長して上がっていく一方みたいなのが好きで読んでいた傍で読んでいたからバッドエンドに見えていたんだと思っていたのですが、今考えても6部はバッドエンドなんじゃないかなあと思います。

続きの7部SBRがタイトルも変わって「これジョジョなの?」って本誌で気付いたのが結構後だったし(名前のスライドだけで内容はわりと変えた違う連載にしたと思っていた)、一巡したことに意味はあったのか、と思います。
ジョジョ自体がロマンスホラーやSF入ってる漫画だと言われればそれまでなんですが。

プッチ神父は承太郎を殺したことで何を得られたんだ? というのもけっこう考えても分からないなという部分で、ディスクは分かるんです。記憶。日記。思い出。だけども殺した時にジョースターの血との因縁への決着という意味で徐倫を殺すこととは全く意味が違うと思う。
むしろDIOは既に承太郎に殺されていて、共に天国に旅立つことは不可能だ、という事実を深く自覚することしか得られるものはなかったと思うんですよねー。しかも承太郎の死因が失血死というなんだかんだ言っても「絶対にここで退場させる」という、明確な意図があっての死亡で、もちろん6部で全部終わるけども、承太郎は絶対退場っていうのは決まっていたのかなと今更ですが思います。

そこから一巡して7部があって8部は壁の目、震災があってそれを意識せざるを得なかった、というそれが「厄災の条理」というふうに表現されていて難しいところだったけれど個人的に「富豪村」を思いついた切欠やスタンス、考え方を「荒木飛呂彦の漫画術」の新書で読んで腑に落ちたところが大きかったのです。この考え方が8部にすごく切迫していると個人的には思いました。というか8部に納得できたのは「富豪村」についての説明を読んでからだったとも言える。

「正しい道筋を聖人が間違わずに歩んだとしても悪事は起こり、それは避けられない」それを「厄災」としてそこには一定の「条理」があるとした、そうしてそこから外れているから定助はそれを超えていける、呪いを解ける、ということなんでしょうが、その考え方自体は「富豪村」と同じだと感じます。

富豪村については8部以上に自然の脅威とかそういうものを人間がコントロールしようとすることの「傲慢さ」というような感じで書かれていましたが、ある程度作者自身露伴のような超能力、スタンド使いでも「無理だろうなあ」くらいに思ってるんじゃないかなあと感じるのがすごいなあというか、なんだろうねこれ。あまりにもシビアかつ諦めと厳しさが滲んでいる気がします。
震災の時は日本海側ですが私も東北なので電気もガスも何もかも止まるわなんだかんだで、被災云々以前に、被害の全容も分からないままでいた方面の人間なのですが、今になって思うとそういう立場、荒木先生だと宮城ですから直接に被害を被った地域の側で頑張る頑張らない以前に「自然災害それ自体をコントロールする」ということに疑問を投げかけた作家は、漫画家だろうと小説家だろうと脚本家だろうと、珍しいのかもしれないなあと8部や「富豪村」の露伴先生には思います。あんまり荒木先生自身のスタンス詳しくないけども。

「別荘にイノシシが出たから駆除してもらおうっていうのは違うんじゃないか」という「富豪村」を描き始めた切欠はとても厳しいが正しい。そこに住んでいるのだろう? というのは厳しい、でもある種とても正しい。

定助はあの世界には全く異質な存在だから厄災の条理を超えられたけれども、それはジョジョの奇妙な冒険の中の、さらに異質な存在だから許されたことで、「富豪村」からは露伴先生と京香さんは締め出されている≒ルールから逸脱していると判断されている、と考えると、人間賛歌といいつつもシビアなところはあるんだろうなあと思います。

むしろ8部、「富豪村」「密漁海岸」「ホットサマー・マーサ」と「自然や自然現象には逆らえないし、敬意が必要だし、時間は元には戻らない」ということがどんどん濃縮されていくのは普通なのかもなあと思わないでもない。
2部のリサリサ先生なんて外見上若いままでいられたけれど、今ならどうなったんだろうなあとかいろいろ考えます。

DIOは死んだ、死人は元には戻らない、記憶のない人間は死んでいるのと同じこと、すべて思い出から始まった。なんだかんだと6部と8部は近い気がするのだけども、分からないですね。
ただ、8部と岸辺露伴は動かないの世界観における「厄災」とか「自然災害」とか「神」に対する作者のシビアさというか、諦念にも近いような考え方は少年漫画の読者全員に受け入れられるものではないかもしれないし、絶対的な勝利ではないだろうけども、震災後からぼんやり受け入れている私のようなのも一定数いるんじゃないかなあと思います。
震災は春なんだけど、冬前の寒い時ってあの頃に似てるからなんとなく思い出しただけーですー。

正しく間違わず頑張っても厄災や自然災害はいつかは起こり、それは避けられないというのは「頑張って復興しよう」というメッセージとは絶対に相容れないくらいには両極端なんですが、東北の日本海側の山奥に住んでいて「雪が降るのが嫌だから気象科学の研究をして天候を操作しよう」と思い立つのはただの傲慢だ、というのは途端に当たり前のことになる。この不思議さはどこからくるんだろうなあと突きつけられているようないないような、と雪眺めながら思っています。積もらないといいなあ。

追記
死ぬほどどうでもいいけど、荒木飛呂彦先生と同じようなことを司馬遼太郎もちらっと書いていたなあと思った。本当にちらっと、書きたくもない、思い出したくもない、というレベルでの話だったと思うけども。「錺職というのはまこと理に適ったものである」みたいな。だいぶ違うようでだいぶ似てると思う。

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