彼の亡骸を持ち帰ることは許されなかった。許されなかった、という言い方は語弊があるかもしれない。彼は、亡骸としてもこの世に残らなかった。


別離


「何か御用ですか、松本副隊長」

 ノックもせずに入った狭い研究室で、その部屋の主は、あたしを認めると、煙草を灰皿に押しつけた。

「別に、吸っててもいいわよ」
「一応、上官ですからね」

 どうでも良さそうにそう言った彼に一瞥をくれて、入り口のドアにもたれかかると、どうでもいい軽口を叩いてみる。

「上官って言ったって、ネムの前では吸うんじゃないの?」
「どうだか。まあ、副流煙でシミができたとか、ギャーギャー騒がれるくらいなら、初めから吸わなきゃ良いってだけの話ですよ」
「嫌な男ね、あんたって」
「今更、ですね」

 彼は、やはりどうでも良さそうにそう言った。いつものように憎たらしい笑みを浮かべるものだとばかり思っていたあたしは、少しだけ落胆する。

(何を……)

「何を、期待しているのかしらね、あたしは」

 呟きには、返答がなかった。
 彼はただ、煙草を失った手の行き先が分からないというように、意味もなく書類をめくる。かさり、と、紙が音を立てた。

「で。用は何ですか?」
「敬語、使うような間柄でもないじゃない」

 彼は、あたしよりも早く死神になっていた。十二番隊、技術開発局でも要職に就く彼が、敬語を使うのを、あたしはあまり好まない。

(それに―)

 あたしの心情を吐露できるのは、もうこの憎たらしい男しかいなかった。隊長にも、後輩にも、あたしは話せなかった。当たり前だ、謀反人を愛しているなどと、誰に言えようか。
 そのずっと前から、変わっていくギンのことを誰にも言えない時に、彼は黙って話を聞いてくれた。酷い言い方をすれば、都合がよかった。でも、どうしてだろう。彼があたしの前を去ってから、あたしは、この男は、何故か自分と同じ傷を抱えているように思えた。
 彼が死神になったのはあたしよりずっと早くて、もしかしたら、過去のことも知っているのかもしれない。先の戦いに参戦した仮面の軍勢のこと、それから、あたしが知らないあいつのことも。
 だからと言って、彼があたしと同じ傷を抱えているなんて、どうして分かるのだろうか。ただ、その黒い瞳に、言ってしまいたくなった。彼の抱えるものを、あたしは多くは知らない。だけれど、彼は、ただただ淡々と書類を片付けている時も、訳の分からない実験をしている時も、いつも、どこか遠くを見ていた。


『忘れられないことでもあるの?』

 いつかの問い掛けに、彼は吸いかけの煙草のフィルターを強く噛んで、それからそれを放り投げた。

『たいしたことじゃあ、ないですよ』

 そう言った割に、彼は余裕を失っているように見えた。

『あたしが、ギンのこと、まだ好きだって言ったら、驚く?』

 余裕を失った彼に、あたしは何とも見当違いで間抜けな告白をした。彼の「忘れられないこと」は、きっと、過去の、誰かだろうと思ったから。それが女か男かなんて分からない。だけれど、「忘れられない」というその一点において、あたしたちは一致していた。
 彼はあたしの告白に、大して驚きはしなかった。ただ、小さく『同じですね』と、自嘲の笑みを浮かべて言ったその顔を、あたしは忘れることはないだろう。それは、彼があたしと同じ傷を抱えていることの証明だった。彼が、誰を思って心に傷を負ったのかなんて知らない(彼はそれを言いやしなかったし)。ただ、彼の忘れられない誰か、というのは、きっと、あたしの、それから他のほとんど全ての者の、知らない誰かだろうということだけは分かって、同時に「同じ」と彼が言ったからには、あいつを失ったように、彼もまた、彼、或いは彼女を失ったのだろう。きっと、唐突に、何の前触れもなく―
 その傷を舐め合いたいほど阿近もあたしも弱くはない。弱くはない、か。若くはない、と言った方がずっとしっくりくるかもしれない。
 それから、彼に、あいつとのことをぽつりぽつりと話した。彼は何も言わずに、それを聴いていた。

『なんで、あんたなんかに話したのかしらね』
『俺に聞かれても』

 そう言って、彼は視線だけをスッと横に向けた。まるで、何かを、誰かを、懐かしむように。


「ねえ、阿近。あんた、運命って信じる?」

 じっと、彼の底なし沼のような黒い瞳を見据える。吸い込まれそうだ。何を考えているか、本当に分からない。ただ、きっと呆れているだろうな、ということは分かって、それでも目を逸らさずにいると、彼は細く息をついた。

「『信じる』って、言って欲しいんだろ?なら余所を当たれ。俺は、運命なんて信じない。神なんて信じない」
「言うと…思った」

 分かっていたの。それが欲しかったの。でも、同じくらい、信じると言って欲しかった。『彼』がくれなかったものを、誰かからもらえるなんて、そんな、バカみたいな期待も、確かにあった。突き放して欲しかった。運命なんてものは、この世にはなくて、カミサマなんていなくって、私たちはそれでもここに立たされるのだと、きっと彼は知っていた。知っていたから、何一つ残さなかった。


 もっと もっと もっと


 あたしを突き放して欲しかった。もう、立ち直れないくらいに。だけれど、彼は、いつだってあたしが立ち直れるギリギリの境界線を知っている。甘やかされているのだと、今なら分かる。

「ふざけないでよ。死んでまで、あたしを甘やかして、それで、何になるのよ―!」

 ガッと壁を叩く。力任せにやったのに、分厚い壁には傷一つつかなくて、あたしの手は痛みを訴えた。それを見ていた眼前の彼は、何も言わない。

 一拍の空白。焼け付くような痛みが、手から脳に伝わった。それは、刀で切られるよりも、もっと、ずっと、即物的な痛みの気がして、あたしの脳は悲鳴を上げる。

「泣けば?ここには誰も来ない。あんたを心配しすぎる隊長殿も、あんたが大好きすぎる副隊長殿も、それから……あんたを愛しているいつかのどっかのバカも」


 誰も、来ない。ダレモ、コナイ。
 彼は、もういない。


「もう十分泣いたわ」

 あいつの、亡骸の前で。懺悔に似た思いを抱えて。

 顔には、自嘲の醜く歪んだ笑みが浮かんでいるのが、鏡も見ていないのに分かった。

「そうかよ」

 相変わらず、至極どうでも良さそうに、彼はそう言って、煙草を一本取り出した。彼の吸っている銘柄なんて知らないが、それは大層甘い香りがした。
 その姿を見ていたら、どうしてか、もう出しつくしたと思っていた雫がこぼれる。煙草の煙のせいだ、と言い訳しようとしたら、滲んだ視界に、本当に煙がたゆたって、目を射った。

「バカじゃないの、あんた。女泣かせて、何が楽しいのよ。バカ、じゃ、ないの」

 ぽたりぽたりと雫が滴り落ちる。

「……あいつは、ギンは、何一つ残さなかった。残したら、あたしが歩き出せないのを知っていたの。そうやって、あたしを甘やかすくせに…あま、やかす、くせ、に…!」

 ああ、嗚咽を殺した声がどうにも惨めだ。化粧が落ちる。でも、そんな事共が、今はどうでも良く思えた。

「何一つ残さなかったなんて、ウソだろ。少なくとも、あんたの中には残ってる」

 その声は、乱雑に物の置かれた、狭く薄暗い部屋に、場違いなほど凛として響いた。

「あんたを呼ぶ声が、触れる指先の温度が、微笑みかける視線が―何もかも残っていやがる。捨てたくても、捨てたくても、そいつらは纏わりついて離れやしない。だけど俺たちはまた歩き出す。まるで―」

 くしゃりと、彼は吸いかけの煙草を折った。

「まるで、何事もなかったかのように…!」
「……?」

 それは、彼には到底似つかわしくないように思える。彼がこんなにも取り乱す姿を、あたしは知らない。

「祈りは、俺に何も与えなかった」

 相変わらず、彼の口から出てくる言葉は彼に似つかわしくなかった。だが、祈り、などというものとは、無縁に思える男が言ったそれが、今なら分かる。


 祈って、祈って、祈って
 縋って、縋って、縋って


 それでも、あいつは、何一つ言わずに目を閉じた。そして、その目が開くことは二度となかった。


 何を祈っていたの
 何に祈っていたの
 誰が救ってくれるの
 誰を救ってくれるの


 運命なんてものがあるとして、それは私から惜しみなく全てを奪った。
 神様なんてものがいるとして、それは私からあらゆるものを奪った。

「祈り、なんてものは、神に捧げるものじゃあない。運命、なんてものは、何かを変えるものじゃあない」

 また一本、煙草に火を点け、フッと紫煙を吐き出して、彼はどこか達観したようにそう言った。

「呪うなら、自分を呪えってことかしらね」

 自嘲も度が過ぎると嫌味だ。自分でも分かっている。それでも、そう言わずにいられなかった。

「後悔、懺悔、自嘲―延々と繰り返す。何一つ解決しないのに。それならいっそ、あいつを恨めたらいい。どうして俺の前から消えたのか、どうして何も言ってくれなかったのか。全ての罪を、あいつになすり付けることが、俺にはできた―」

 そこで、彼は毒を含んだ煙をスッと吸い込んだ。

「できた、かも知れない」

 その言葉たちは、そっくりそのままあたしに跳ね返る。

 祈る神は何も叶えてくれなかった。

 だけれど、それ以上に、彼は、何一つ残さなかった。あらゆるものを残しながら、何一つ残さなかった。
 だけれど、そのことを恨めたら、きっと、もう少し薄汚れた悪あがきができたのかもしれない。でも、そんなことを、誰が、彼が望むだろうか。

「さっきも言ったけどね、甘やかされてるの、あたし」
「そうかよ」

 恨まれるのが嫌なんじゃなくて、あたしが『誰か』を恨むこと、それ自体。そのために泣き出すことそれ自体。それがきっと、彼が一番望まなかったことだ。

「実に単純な問を一つ。あんたは、今、幸せか?」

 単純―単純だった。明快だった。だけれど、あたしはその答えに窮する。

 死んでまで甘やかされても、まだ、まだ、まだ、足りない。

「貪欲なの、多分」

 答えは否だった。

 だって、

 彼はここにいない。

 だけれど、私はきっと歩き出すだろう。その傷口が開くことを恐れながら。
 開くこと?
 違う。傷口はいつも開いている。それでも、彼は何一つ残さなかったから、もう一度、祈るべき神も、救いを齎す誰かもいないこの場所に立つの。もう一度、歩き出すの。
 それが幸福かどうかなんて、高が知れている。それでも、彼が望むというのなら、何一つ残さなかったのが、彼の望みだというのなら―

「あんたは?幸せ?」

 問い掛けに、彼は今日初めてその顔に笑みを浮かべた。

「シアワセの尺度ってヤツが、百年も経つと変わっちまうからなあ」

 変わる、か。あたしもいつか、あいつとの出会いと、日々と、別離を幸せな思い出に書き換えるのだろうか(彼がそうしたかはまた別の問題として)。鳥肌が立った。そんな、「赦し」を、あたしはいつか手にするのだろうか。それは、紛れもなく赦しだった。雑多で、恐ろしいほどあたしを縛り付ける、「何一つ残さなかった」彼との全てを、いつか赦されるの?だが、赦された瞬間に、それは新たな罪を生む。忘却という名の、罪を。

「案外幸せだぜ。痛みしか残ってない。傷が痛む度、俺はあいつのことを思い出す」

 ああ―そう、か。逆だ。忘却は「赦され」なかった。

「そういう道もあるか」
「…止めとけよ、キツイぜ」

 彼は、楽しげにそういって灰を落とした。窓のない部屋には、煙が充満している。寄りかかったドアを細く開ける。煙は、一散に広い廊下に流れていった。

「戻るわ。さすがに隊長がキレるから。それにここ、煙草の煙ばっかりでお茶も出ないじゃない」
「待遇が悪くてすみませんでしたね」

  彼は、それこそ憎たらしい、いつもの笑みを浮かべて、そう言った。

 そう。あたしはそうやって日常に戻っていく。ただ、欠落したのは彼一人。その世界に、その日常に、あたしはまた戻らなくてはならない。

それが、彼の望みだから。
それが、あたしの望みだから。




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煮え切らない男女で茶番劇。需要とか無視して、趣味に走った結果です。とりあえず、後悔も反省もしていない。
余力があれば、日記で少し補足というかなんというかをしておきます。
2011/9/16