描く。
 柔らかな芯が黒い線を描く。何度も消して、何度も書き直せるように。
 俺と彼女の間には、あまりにも長い時間があったから。

「なんと声をかけるんだろうな、俺は」

 鉛筆が、紙の上を行き来する。
 描く。
 己の理想の似姿を、描き続ける。
 己の生の、理想の似姿を―――


Deus ex machina


「結局、置いていかれるんだな」

 培養槽の中で新たに誕生しつつある眠八號をぼんやりと眺めながら、俺はつぶやいた。
 眠七號は、「死んだ」。死んだと、少なくとも俺は思っていて、だが、全ての眠を記憶している俺にとって眠七號の死は、では特別な死だろうか。

「お前は、置いていきたかった」

 槽の透明なガラスに触れる。ひんやりとしたそれは何一つ返答しなかった。
 七號は、ネムは、隊長の最高傑作であると同時に、俺たちの最高傑作でもあった。傑作?違う。理想の?違う。完璧な、個だった。
 眠というすべての要素を持ち、被造魂魄でありながら、俺たちは彼女を一人の死神として、一人の娘として、妹として、女性として、もはや何の疑いもなく愛していた。
 それは、理想の生の似姿だった。
 修多羅千手丸の、浦原喜助の、猿柿ひよ里の、そして涅マユリの似姿だった。
 あらゆる要素を持ちながら、完璧な個を形成しうるネムのことを考えて、そうして俺は、再び彼女の前で自らの個を特定しうる要素を考える。

 あの日の俺の答えは情報だった。
 俺の生を妥当かつ簡便に構築するのは情報だと俺は思っていた。自己の保存、補完。

「昔の話をお前は分かっていたのかもしれないな」

 返答のないその新たな「彼女」に俺は話しかける。
 昔、一人の女が俺の前から何も言わずに消え去った。
 今、一人の女が俺の前から何も言わずに消え去った。

「俺は、お前を求めていたつもりだったけれど、お前が俺を求めていたと曲解してもいいだろうか」

 静かに訊くそれに、やはり応えはない。
 俺はあの日、自身が喪失した時に彼女の記憶の中だけで励起され、再構築され、彼女の中だけで存在する日々を夢想した。……永遠を、夢想した。期待した。希望した。自身の喪失を起点とする、とわの個を獲得することを、期待した。
 しかしてそれは、そのすべてを俺自身が行うことによって跳ね返った。
 眠七號の記憶は、行いは、個は、彼女にまつわるすべての事象は、今、俺の中で緩やかに再構築され、緩やかに書き換えられ、緩やかに励起され、ネムという個人を俺は何度も何度も特定し続けている。
 ここにネムがいた、ではない。ここにはネムがいる。
 誰かを喪う悲しみではない。
 誰かを記憶し続ける、その痛み。
 二人の女が、俺の中に消えることのない痛みをもたらし続けることが、だけれど俺の個を特定し続けている。

「なるほど、そうだな」

 誰かを、何かを、記憶し続け、思い出すたびに引き攣れたような痛みをもたらされるそれは、もしかしたらもっと単純に、「忘れてはならない」という意味なのかもしれない。そうして、傷が痛む度に俺は俺という個人が受けた傷だというその事実を甘受する。


 だから、彼女は。
 だから、二人は。


 気が付いてしまったらもう戻れない。どこかで、気が付かずに済む道を探していた。どこかで、彼女を愛することで忘れていた。
 彼女が、俺の個を特定できることは、俺が、彼女の個を特定できることは、偶発などではない。偶然などではない。すべてはまるであの日俺が連綿と作り出した銀の環のように、精緻に作りこまれた、だけれど俺には関与することのできない事象。


 お前は、俺の生の似姿だった。
 俺は、お前の生の似姿だった。


 何度も描いたすべての符号が噛み合うから、俺たちは互いの記憶の中だけに棲むことができる。描き続けた永遠は、確かに貴女の形をしていた。





 いつかお前に、この銀の環を渡そう。
 いつかの日に、貴女の指に嵌めたこの輪を渡そう。

 次こそは、と思う。
 次もまた、と思う。

 それはきっと、どちらも同じこと。

 次こそは、彼女を置いていきたい。
 次もまた、彼女に置いていかれるだろう。

 きっとそれは、どちらも同じこと。

 遠くで、ただ一人の女神が微笑している。

 なんと声をかけようか、ずっと考えていた。
 俺の、望んだ生に。
 お前の、望んだ生に。

「おはよう、ネム」

 少女は微笑んだ。




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機械仕掛けの神

2017/01/19