「失礼します。」
「どうぞ。」

 すぐに返答があったということは、何か重大な案件を抱えている訳でも、研究に没頭している訳でもなさそうだ、と考えて、ネムは声の主、阿近の研究室の扉を開けた。
室内には、紫煙が漂っている。


安逸

「マユリ様からの書類です。早急に提出せよとのことでした。」
「了解。悪いな、副隊長殿にこんな雑用みたいな真似させて。」

 手元の書類から顔を上げずにネムの手から新たな書類を受け取り、適当に目を通しながら、定型となった謝罪を述べるが、彼女の表情は変わらない。

「いえ、これも仕事のうちです。…」

 呟くような返答の後に、僅かな沈黙が訪れた。普通なら、ここで部屋を出ていくのだが、と疑問に思い、阿近は書類に向けていた視線を上げる。すると、灰皿と自分の手で煙を燻らせている煙草に交互に目をやっているネムがいた。

「どうかしたか?」
「…煙草は、身体に毒だと再三申し上げてきたつもりですが。」

 その台詞に、『またか』と阿近は眉を顰めた。
 ネムが彼に『煙草をやめろ』と言うのは(実際のところ、彼女は煙草をやめろなどと言ったことはない。阿近が勝手に変換しているだけだ。)これが初めてではない。これまで幾度となく言われては受け流してきた台詞だ。

「カラダに悪いなんざ、知ってて吸ってんだよ。」

 わざとらしく、ちびた煙草をくわえ直して煙を吐き出す。その姿に、ネムは嘆息する訳でもなく、煙を目で追った。阿近が煙草を吸う間だけ、また沈黙が流れる。煙草はもう十分短くて、二、三度煙を吐き出したところで、彼はそれを灰皿に押し付けた。しかしネムは、その吸殻をじっと見つめている。

「まだなんかあんのか?」

 訝しんで聞くと、彼女はこの部屋に来て初めてその顔に表情を、薄い困惑の色を浮かべた。

「…檜佐木副隊長や」
「あ?」
「檜佐木副隊長や射場副隊長が吸われる煙草からとは、違う香りがしますね。」
「ああ、これか?こりゃ俺が自分で調香してるんでな。他所では売ってないぜ。」

 阿近の言葉に小さく頷いて、だがネムは、まだ何か思案するように吸殻を見つめていた。しかし不意に顔を上げ、小さく呟いた。

「花…」

 その言葉に、阿近はバツが悪いとでもいう様に、眉間の皺を深めたが、ネムはそんなことは気にも留めず、言葉を紡ぐ。

「この煙草からは、花の香りがしますね。」

 その指摘に、阿近は一瞬本当に困った様な顔をして、しかしすぐに悪戯が見つかった子供の様な目をして見せた。

「ご明察。当てたのはお嬢ちゃんが初めてだよ。」

 そう言いながら、阿近はもう一本煙草を取り出して、火を着け、煙を流すその先端をネムに向ける。

「似合わねえだろ、花とか。」
「いえ、そんなことはないです…何の花ですか。」

 その問に、彼は口の端を上げて笑った。

「何の花だと思う?」
「…私は花には詳しくありませんから。」
「馬鹿正直に言われてもなァ。」

 ネムの答えに毒気を抜かれて、阿近は頭を掻いた。困る、とか、必死に考える、とかいう普通の反応を期待したこと自体が間違いなのだということくらい、分かってはいるが何となく拍子抜けしてしまった自分に苦笑が漏れた。しかし相変わらずネムは、そんなことは気にも留めず、煙の行き筋を興味深げに眺めている。

「気に入ったのか?」
「っ…」

 僅かな表情の揺れと沈黙を、阿近は肯定と取った。その位には付き合いが長い、ということだ。

「ちょっと待て…確か…」

 手にしていた煙草を置いて、机の引き出しを探る。

「お、あったな。」

 乱雑に物の詰め込まれた中から取り出した銀のシガーケースをネムの方に放った。

「やるよ、それ。俺が調香したこいつと同じヤツだ。」
「あっ、ありがとうございます…あのっ」
「気にすんな、気まぐれだ。局長には言うなよ。俺が叱られる。」

 そう笑いながら言って、阿近は吸いかけの煙草に手を伸ばした。
 深く頭を下げて、踵を返し、ネムが部屋を出ようとした時だった。その背中に、阿近はふと声をかけた。

「蓮を喰うと、いろいろなことが忘れられるらしいぜ。」
「蓮…?」
「誰が考えたんだかな…もう行きな。局長に咎められる。」






「おや、煙草カネ。」
「マユリ様。」
「ネム、煙草は吸うものだ。どうだっていいが、火など出して騒ぎにならん様にナ。」

 マユリが去るのを見届けて、ネムはまた煙を燻らす煙草に目を落とした。




―私には、忘れたいことなどあっただろうか?

―あの人には、忘れたいことなどあるのだろうか?


長かった煙草の最後の一欠けらが灰になって落ちた。




Lotus・Eater




=========

2010/10/28