forget-me-not
忘れてくれ、と言いたかったのかもしれない。
それがどちらの言葉かは、彼も彼女も、誰も、知る由もない。
*
阿近は、星十字騎士団に蹂躙された瀞霊廷の惨状の中で必死に技局での作業に当たっていた。その時だった。不意に彼の意識が僅か霧散する。
(こんな状況でも、か)
それに彼は苦い笑みを微かに漏らした。そんな笑みにはその場にいる誰も気がつかなかっただろうと思う。彼はまた作業に戻りながらも、良くないことだと知りながらも、意識をその霊圧を探ることに僅かに割いていた。
「猿柿副隊長様々かよ」
カタカタと作業を続けながら、彼は呟く。懐かしさと愛おしさと、希望と絶望と、悲哀と渇愛をはらんだ、どうしようもないほどぐちゃぐちゃの思考が脳の無意識の階層にあって、それをごく冷静に作動している意識が俯瞰していた。作業の手は止まらない。
「こんなとこに、来たくなんぞなかったろうに」
また呟く。皮肉げに彼は口許を歪めた。
彼が感じ取ったのは、瀞霊廷に降り立った猿柿ひよ里の霊圧だった。何一つ変わっていない。破面との戦いが終結してから虚化していたと知ったが、それすら感じられないほど、それは幼かった阿近が百余年前に感じていた霊圧となんら変わっていなかった。
他にも懐かしい霊圧がいくつもある。だけれど、彼にとって霊圧を探ることに少しだけ割いている意識がもっとも脳に、直感に、意識の深部にその霊圧を刻み込むのは、今も昔もひよ里のそれだけだった。
彼は作業のかたわら、一瞬だけ奥の部屋に視線を投げる。そこにある、一着の死覇装を思って。
*
猿柿ひよ里は死亡した、と幼かった阿近は伝えられていた。
実際には粛清からの逃亡なのだが、そのような種々の秘匿された内容を、隊長でも副隊長でも、ましてや席官でもない阿近が知らされるはずもなかった。
隊長であった浦原喜助、そして副隊長であった猿柿ひよ里を失った十二番隊は俄かに混乱の渦に呑み込まれた。しかし、浦原とマユリとの当初からの約定であった「涅マユリを技術開発局長に据える」ということは浦原の筆跡で確約書が残されていて、マユリはその時点で卍解を習得していた。そのために、マユリがそのまま十二番隊の隊長になることは円滑に事が進んだのだった。
副隊長の件は、副隊長の選任は己が決めると言ったマユリの進言が許可され、そうして涅ネムが作製された。十二番隊は、隊としても技術開発局としても前任の隊長と副隊長が消失したことを表面上は感じさせないように機能を取り戻した。
ただ、阿近の中には埋めようのない寂寞が巣食っていた。彼はまだ少年のような体つきだったにも拘らず、その空白を埋めるように煙草を吸い始めた。だけれどそれでその空白が埋まるはずもなかった。
「阿近」
そんな折、研究に没頭する阿近にマユリが声を掛けた。技局に残っていたのはいつの間にか阿近だけだった。
「局長」
霊圧にも気配にも気がついておらず、驚いたように振り返った彼に気分を害することもなくマユリは言う。
「煙草を消したまえ」
「あ、すいません」
試験管や書類に灰が落ちることを指摘されたのだろうか、と思い、咥え煙草のそれを灰皿に押し付けたら、そうではないと言うようにマユリは小さくため息をついた。
「お前に渡したい物があってネ」
「は?」
今の阿近に新しい研究をやる暇がないのは、マユリとて百も承知だろうに言われたそれに、阿近もさすがに素っ頓狂な疑問の声を漏らさずを得ない。しかし、マユリはそのようなことを考えていたわけではなかった。
「これは、お前がもっていた方が良い気がしてネ」
そう言って、マユリにしては丁寧な手つきで畳紙に包まれた小さなそれを彼は阿近に手渡した。
「あの、これ?」
包んでいるのは畳紙だ。衣類なのだろうということくらい阿近にも分かる。だが心当たりがない。そこから微かに感じる懐かしさが、脳の中で怖気に似た警鐘を鳴らした。それで疑問が重なって問い掛ければ、マユリは珍しく返答を躊躇う素振りを見せた。焦らすとか、勿体ぶるとか、そういう愉快犯的ないつもの素振りではない。本当に躊躇うようなそれが、阿近の疑問と怖気を増幅させた。
「落ち着いて聞けるかネ」
「えっと…はい」
阿近はマユリに憧れているし基本的に従順だ。それにまだ幼い。正面からマユリを見据えて言えば、マユリはその小さな背丈の彼を見下ろしながら、息を細く吐き、それから言った。
「それは猿柿元副隊長の遺品だ」
「…っ!?」
しかし、その一言に阿近の疑問は吹き飛び、今度は動揺が彼の中に走った。
「それ、は…」
どういうことですか、という言葉が続かない。喉がからからに渇いて引き攣れる。声は音にならず、掠れた呼吸音だけが落ちた。
「猿柿元副隊長の死覇装だ」
言い放たれた一言に、阿近は最早呼吸をすることを忘れた。数瞬ののちに、思い出したようにゼエと荒い呼吸を再開する。
どこかで、生きているのではないかと思っていた。
頭では分かっていたのだ。
彼女が死んだと伝えられた以上、少なくとも阿近の中ではそれが事実で。
だけれど、感情が、置いていかれたという感情が、どうしても彼女がどこかにまだいて、いつものようにひょっこり研究室に現れて、自分を怒鳴って、はたいて、悪態をつくのではないかと、どこかで期待していた。
その全てが、打ち砕かれた。
その包みから微かに感じた懐かしさは、全てを覚った今、微かなどではない。懐かしさなどではない。そこにまだ残る、猿柿ひよ里の霊圧だと阿近にはしっかりと分かった。
「筋、なんて言葉は野暮ったくて使いたくもないがネ。この十二番隊で、技術開発局でそれを渡せる筋合いのある相手がお前しか思いつかなかったのだヨ。捨てようが焼こうが好きにしたまえ」
そう言いながら、マユリの声音はひどく沈んでいた。彼もまた、口やかましかったひよ里を、だけれどそこまで邪険に思っていたわけではないのだ。
「どうして」
俺なんだ、と叫び出したかったその先は、嗚咽で声にならなかった。
まだ小さな体を折ってその包みを抱える阿近に背を向けて、マユリはその部屋を後にした。
百余年前の頃の出来事である。
猿柿ひよ里という死神が失われ、彼のその傷癒えぬままの頃の出来事である。
*
「結局捨てられなかったんだよなあ」
近づいてくる霊圧を、今度こそ阿近は意識的に探っていた。これから瀞霊廷を、尸魂界を護るために起こそうとしている行動のほとんどの準備が出来ていたから出来たことだった。
あとは、その近づいてくる霊圧を待つしかない。
捨ててしまえれば良かったのかもしれない。
その喪失は、彼女の死覇装一つで埋められる空白ではなかったのだから。
破れたところを繕えば、慣れないことで指を何度も傷付けた。
その痛みが、時には空白を忘れさせた。
でも、それはいつも一瞬のことだった。
破れたそれを繕えば、その死神の戦いの壮絶さを思わせた。
残る霊圧を感じれば、その死神としての彼女の力を思わせた。
残る血臭を感じれば、その死神が生きていたことを思わせた。
それらは少しずつ、少しずつ、消えていった。
死覇装が元に戻る頃には、その全ての痕跡が消えた。
消えて、それは猿柿ひよ里というそこにいたはずの死神の背丈に合うだろうただの死覇装に戻った。
少しずつ消えていくそれは、まるで阿近に彼女が自分のことなど忘れろと言っているように思えた。
同時に少しずつ消えていくそれは、まるで彼女が阿近に自分のことを忘れるなと言っているように思えた。
そうしてそれは、自分が彼女に忘れてくれと言っているようにも、自分が彼女に忘れないでくれと言っているようにも、阿近自身には思えた。
彼は、捨てないという選択を、忘れないという選択をした。
「どんなに辛くても、俺はやめられなかった」
述懐のうちに、その霊圧がそこに辿り着いた。
*
解剖室の右手奥の棚、と浦原に言われてその棚をひよ里は見遣る。彼女はそれに、一瞬目を見開いた。先ほどちらりとだけ見た男は、見た目だけでは誰か分からなかった。誰かは分からなかったが、その霊圧はどうしようもなく彼女が過去に大事に思っていた死神のものだった。
そうして、その棚の、自分用に背丈が調えられたそれを手に取って、彼女の中のあまりにも膨大すぎる、懐かしくも、楽しくも、そして悲しくもある記憶が脳を占拠した。
その死覇装から感じた微かな霊圧は、先ほど誰か分からなかったのに、懐かしい霊圧をしていた男のものだった。
今はもう、それがかつて自分の部下で、自分の弟のような存在だった阿近のものだと分かる。
彼女は静かに目を伏せた。
「お前が持ってたんかい。どうせ、針なんぞ使えんお前じゃ直しても指から血ィ出まくりやったやろ」
呟くように皮肉を言う。
そうして彼女は、幼いころから変わるはずもないその霊圧を残すそれに泣き出したいような、苦しいような、それでいて、自らが‘死神’に戻れるその喜びのような、複雑な感情の中で、その死覇装に袖を通した。自らの霊圧が、彼の霊圧をかき消すように、或いは融け合うようにその死覇装に伝わる。
彼はきっと自分のことなど忘れているだろうと思っていた。
そでいいと思っていた。
だけれど、心のどこかで忘れないでほしいと思っていた。
自分が死神であったことを。
自分と過ごした日々を。
自分が死神として過ごした日々を。
「ありがとな、阿近」
呟いて、彼女は泣き出しそうな気持ちで、それでも微笑んだ。
着てやった、という叫ぶような怒号でもって解剖室から戻ってきたひよ里の声を聞いて、阿近はそこに目をやる。目をやらなくても分かった。
そこにいたのは、かつての変わらない‘死神’の姿で、かつてと変わらない‘死神’の霊圧を纏うひよ里だった。
「忘れないさ、どんなことがあっても」
阿近は呟いて、その目許を緩めた。
その視線に気がついたのか、この緊急事態だというのにひよ里はちょっとだけ舌を出して見せた。きっと、その意味は阿近にしか伝わらない。
(忘れないでくれなんて、贅沢かもしれんけど)
(忘れるなんて、できやしねえんだけど)
それでも
forget-me-not
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『forget-me-not』勿忘草の英名。直訳『私を忘れないで』
2015/8/1