それは細い環。

 出来る限りの技術を駆使して、その細く小さい環にあらゆる情報を詰め込む。


銀環


 名前、性別、経歴、行った実験、行った事のある場所、持ち物…

 膨大な情報が少しずつ銀の環に収まっていく。考えうる限りの自分に関する情報。瑣末な事、無意味な事、或いは機密、俺の頭の中にしかない数式。

 本当にあらゆる情報を詰め込んでいく。
 詰め込みながら、個を特定する定義を考える。俺を個人たらしめている定義とはなんだ?この環に詰め込まれる情報は俺を個人として確立させるだけの力を持つものか?答は、多分否だ。この情報の羅列が俺という個人を示すことが出来るなら、俺の存在は殆ど全て消失している。声、肌の温度、今吸っている煙草の香り、昨日飲んだ酒の味。しかしあらゆる事を数値化しようと思えば、それは可能だろう。

 答は、多分否だ。それは大部分の者にとって『否』なのであって、だから俺は存在の定義を情報の羅列である事を『否』と考える。答は、多分否だ。
 そう、多分。その『多分』違う事を延々と繰り返す矛盾。この情報の羅列は俺個人を特定することなど出来ない、という幻想。

「では、何故俺は情報を詰め込む作業を止めない?」

 この情報たちが個を示すことはないという確証の持てない『現実』と、実際には数値化されたこれらは意図も容易く俺個人を特定するだろうという確証のある『事実』。

「つまり、俺の存在価値は殆ど消失している、と。」

 今吐き出した紫煙。そこに含まれる成分、吐き出した角度、視認できる滞空時間…あらゆることを数値化すればそれすらも再現可能な出来事に過ぎない。再現可能なそれらの出来事は、個を特定する定義にはなり得ない。だが、それ以上の事が自分の中にあるのかという問いに、素直に『ある』と答えられる者は稀だ。
 かく言う俺も、そんな現実的で抽象的な自分の存在を指し示すものを持ち合わせていないので、この情報こそが自らを再現する基になるだろうと仮定して、この小さな物体に無意味な情報を詰め込む。

「自己保存の願望。同時にそれは無意識下に働く自己補完でもある。」

 だが残念ながら俺はそんな都合のいい神経も持ち合わせてはいなかった。自己保存、自己補完。そんな事は俺にとって、はっきり言ってどうでもいい事だ。俺の経歴や実験など、こんなものを態々用意しなくても、技局に数ある外部記憶装置が幾らでも補完してくれる。

「自己など、己の存在抜きでも幾らでも証明できる。」

毅然としてそう言っておこう、科学者として、或いは死神として。
自己の補完など軽く出来ると言える、一流の科学者として。
人間が自己の証明として都合よく使う『魂』というものの具現たる死神として。

カチリ、と小さな音がして、環が閉じる。詰め込んだ情報たちは、いずれ来るかもしれない俺の消失点を境に初めて機能する。いや、機能する、だろう。それは仮定であって、確証ではない。科学には確証などというものは存在しない。同時に、自己に確証を抱くほどの幻想も俺の中には存在しない。

「魂だとか、自己だとかいう都合のいいものが、この世に存在するのか?」

「自己はともかく、魂の存在を否定すれば、死神は職を失うと思いますが。」

 紫煙と共に吐き出した呟きには、予想に反して返答があった。入り口に佇む少女(俺にしてみれば、彼女はほんの少女だ)、涅ネムはいつも通りの表情の読めない顔で書類を携えていた。

「いたのか。」
「書類をお届けにあがりました。」

 室内に入ってくる彼女を尻目に、俺は煙草を灰皿に押し付ける。
 彼女には、魂とかいう都合のいいものがあっただろうか。では自己は?アイデンティティは?そんなものを持ち合わせている人間も死神も、この世には存在しないのではないのか?否、正確には、それらを持ち合わせていると確証を持って言える者は存在しないのではないか?そういう点で、彼女は本来の意味で完成された生命体なのかもしれない。そんな科学者めいた考えが首を擡げる。

「書類を…」

 俺が不毛な考えを巡らせているうちに、彼女は俺の乱雑に書類やら実験器具やらが置かれた机を挟んで目の前まで来ていた。

「こちらを。」

 差し出された書類を受け取りざま、俺は何を思ったのか彼女の手を引いた。

「っ…!?」

 驚いた様に前のめりになった彼女に構わず彼女の左手を取る。

「何を…?」
「まぁ、たまにはいいじゃねぇか。」

 ほっそりとした手指を己の掌の上に載せると、ほんのりと体温が伝わってきた。同時に自分の手が驚くほど冷えている事に気が付く。何となく笑い出したい様な気分になった。口の端を上げていつも通りの不敵な笑みを浮かべると、彼女は更に困惑を深めた様な顔をする。
 そのまま彼女の手を引き寄せて、先程まで大量の情報を詰め込み続けてきた、言わば俺を具現化出来るであろう銀環を彼女の左手の小指に嵌める。何故こんな事をしているのか、自分でも良く分からない。

「これ、は…?」

 素っ気無い銀の環は、彼女の小指に上手い具合に嵌まってくれた。それを確認して、俺は新たな煙草に火を点ける。

「…昔の話だ。一人の女が何も言わずに俺の前から姿を消した。どういう理由があったのか、その後の消息は?俺には何一つ分からなかった。」

 目の前の彼女には、何を言われているのか全く理解できないだろう。だが俺の思考は、燻らす紫煙の向こうで急速に過去へと引き戻された。

 何も言わずに、何も残さずに俺の前から去った女。女性と言うには彼女の容姿はとても子供じみていた。言動も、行動も、子供だった。でも俺にとっては、初めて傍近くに体温を感じた『女』だった。
 その時はまだ俺もガキで、一丁前の『男』なんかじゃなかったが、そういう俺に『女』というものを意識させたのは間違いなく彼女だという事に、初めて女を抱いた時に気が付いて、目眩を覚えたのはもう遠い過去の話だ。

「ま、そんな女の事なんざ、忘れちまったけどな。」
「…覚えていらっしゃる様ですが。」

 律儀に話を聞いていた彼女に、自嘲の笑みが漏れた。

「年寄りの昔話なんて聞き流しとけ。」

 自分で話しておきながら、随分と理不尽な要求だ。

だが、確かに俺は彼女の事を『覚えている』。彼女は何一つ残してはくれなかったが、その記憶は何度も濾過され、彼女自身も、自分自身もその段階で美化され、美しく輝く記憶として改竄された。
その記憶を抽斗から取り出すとき、引き攣れた様な鈍い痛みを伴う事だけが、唯一改竄を免れた本当の意味での彼女との『記憶』であり、同時に『思い出』というヤツなのだろう。

つまり、彼女は俺に痛みしか残さなかった。

 その単純な事実は、どんな刀よりも鋭く、的確に俺の胸を抉る。そこから紅く、生温かい鮮血が流れる事を確認して、俺は安心する。それは何れ来るかも知れない未来に、彼女の前に再び立つ為の寄処であり、同時に、目の前に立つ少女の手を握る事の許可だ。

「忘れないってのは、難しい事だが、忘れるってのも同じくらい難しい事だな。」
「そうでしょうか?」

 俺は彼女との記憶を書き換えてみせた。長い年月をかけて、ゆっくりと、着実に。だが忘れるという選択をすることが出来ないまま、結局その記憶の核心たる痛みをずっと連れ回してきた。忘れるということは、それ相応の対価を支払ってもなお高く、酷い矛盾と痛みをもたらす、暴力的な行為だ。俺はそれを、記憶を少しずつ濾過し、美化していく事によって回避してきた。だがそれは緩やかな忘却だ。いずれその痛みすらも薄れて、どこをどう突付いても、美しいだけの記憶にそれらが成り下がる日も、来るかも知れない。そして俺は、心のどこかでそれを望んでいるのかも知れない。

「あんたは、忘れないか?」
「それは、私の記憶能力を疑っておいでだととっていいのでしょうか?」
「まさか。俺が局長を疑う訳ないだろ。」

 そう言いながら、銀の環を嵌めた彼女の白い指を撫でる。彼女の肌にぴたりと寄り添うそれは、矛盾だらけの俺の選択を赦してくれる様に、微かに輝いて見えた。
 俺という個を特定するために作製された小さな外部記憶装置。俺に関するありとあらゆる情報の詰め込まれたそれは、しかし、やはり個を特定する材料にはならないだろうという妙な結論に辿り着く。自分抜きでも自己は証明できる。この様々な情報は俺を指し示す。しかし、最後に俺という個を特定するのは、この記憶装置によって励起される情報を手にした彼女の『記憶』だ。彼女が感じた俺の体温、脳内で再生される音声、煙草の香り…あらゆる記憶が呼び起こされ、彼女の中の『個』が特定される。それが俺にとって最良の、同時に最大の証明し得る自分自身という『個』だ。結局俺は、自身の存在証明、存在価値すら他者に依存する。

「違うな。」
「…何がです?」

 違う。他者に依存するのではない。『彼女』に依存するのだ。ずっと求めていた。彼女を失った日から、ずっと求めていたもの。それは、もし彼女と同じ様に己がこの世界から、唐突に、突然に消え去ったとして、その後も、己の存在を証明してくれる、己の存在を許容してくれる存在。それは情報によって形成される数値ではなく、緩やかに書き換えられながらも個人の記憶の中で、連綿と思い描かれる。誰でもいいはずがない。そういう点で、曲りなりにも俺は、彼女に選ばれた。それは殆ど偶発的な出来事だった。想像するに、彼女にはきっと、誰かにそういう役目を任せる余裕すら無かったのだろう。その結果として、彼女は抹消され、俺は彼女の、俺の中での彼女自身の『個』を特定し続ける。そして俺は、彼女と同じ徹を踏まぬ様に、周到に、目の前の少女を罠に掛け、彼女を選んだ。
彼女は知らない。今まさに、俺が最も残酷な方法で、彼女の中に存在し続ける権利の様なものを獲得した事を。
 だが、それが俺にとって最良の選択であり、同時に、彼女にとっても最良である事を、傲然と願う。傲然と切なる願いを持つというのは、我ながら器用な事だ。だがこうして自分と自分を証明する存在を持とうという事自体がきっと驕りなのだ。自身の証明などという大それた考え自体が、今自分が彼女の『個』を証明しているなどという幻想が、将来彼女が俺の記憶を甘やかに書き換えながら俺の『個』を証明してくれるだろうという思惑が、驕りなのだ。
それでもいい。それくらいには自分が卑小な存在である事をこの100年という長い空白の中で学んだ。

空白。

それは今まさにこの銀の環によって埋められる。

「あの…これ、は…」

 銀の環と、彼女の肌との境目を埋める様に這わせた指とその環を困惑したように見つめる彼女に、精一杯の笑みを口元に浮かべる。きっと、とても情けない顔をしているに違いない。

「なんて言ったかな…あれだ、ピンキーリングって言ったか。指環の一種。詳しい事は松本副隊長にでも聞けば教えてもらえるんじゃないか…今日は…」

 ふと、この私室には在りもしない窓を見上げて、それから机上の伝令神機の日付を確認した。12月25日。確か、クリスマス。

「メリークリスマス。もしかしたら、何時かとても面白いものが見られるかも知れない。」

 そう、俺がこの世界から『消えた』瞬間に、この装置は作動する。それまでは、彼女の指で装飾品として納まっているだろう。

「面白い、もの…?」
「それは何時かのお楽しみ。」
「何時か…」

 彼女は自分の小指をちらりと見て、首を傾げたが、『何時か』が何時なのかは問わなかった。

 何時か、来るかも知れない未来。

それは言うなれば希望だ。『自己』という個が消失した時に初めて生まれる希望。期待と言い換えることも出来るし、抵抗と言い換えることも出来る。
とても狭隘な世界の、とても小さな、幸せ。その未来、それを彼女と共有出来るのかは、その指に光る輝きを守れるかどうかに懸かっているのだろう。

彼女を、愛そう。もう随分前からそう思っていた。娘の如く、或いは妹の如く。そして一人の女性として。

そうして、俺は初めて彼女の記憶の中でなら、赦される存在になるのだろう。

外で雪の降る気配がした。この部屋に窓は無い。だが確かに雪が降っていた。




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ハッピーメリークリスマス!という訳で阿ネムでした。全然ハッピーじゃない件…。そして根底に流れる阿ひよらしい気配。ネムちゃんのターンがかなり少ないですね。せっかく指環を贈ったのにラブラブモードがゼロだよ…。せっかくのクリスマスなのに!
うちの阿近さんはどれもこれも歪んでますね。愛が屈折してるよ!
余力があればちょっと日記の追記に続きらしきものを書くかもしれません。ネムちゃんのターンでちょっとギャグっぽいのを…。
2010/12/25