かぎろい


 ああ、この体はまるで陽炎のようだ。
 ああ、この体が陽炎のようであるなどと、少なくとも自分では認められない。
 認めたくない。
 漏れたのは乾いた笑いだった。
 嘲る。
 誰を?
 自分自身を。


「これが、成れの果てか」

 死神と、虚とを混ぜた自分なんて、そんなもの。
 何かの拍子に戻ってこられなくなる自分なんて、そんなもの。
 陽炎のような自分など、信じたくなかった。






「お前は戻ってこないのか」
「……」
「平子隊長だって戻ってきただろ」
「……阿近」
「なんだ」

 ああ、この陽炎のような体を、陽炎のような自分を、未だ慕うこの子供に、ウチはひどい憤りを覚える。

「戻らん」
「ひよ里、」
「ウチは死神が嫌いや」


 吐き捨てたその言葉は、その怒りは、だけれど全て自分に跳ね返った。





 虚化時間最長―――ひどくゆらゆらしたそんなもの、どうでもいいことだった。
 自分の中に死神と虚の力、その両方が宿っている。その事実がいつもウチを苛んだ。
 ウチにとって死神である、ということは高い誇りと深い矜持に裏付けられた事柄だった。それはどんな死神でもそうだろうが、自分のそれは他の誰より深かったと言ったって嘘にはならなかった気がする。深かった?違う。ウチは死神であることにきっと誰より固執しとった。
 曳舟隊長の下で副隊長になれた自分、死神として強さを磨き続ける自分。強さ、誇り、矜持。それは全て自身の努力に裏付けされたものだと思っていた。
 だから、喜助が十二番隊の隊長になって、マユリや阿近が引き抜かれて、隊が大きく変容していった時、ウチは戸惑っていた。自分の磨いた強さとは全く違う新たな形の力や強さに、ウチは戸惑っていた。戸惑いを怒りに委ねて反駁したりもしたが、だけれど結局ウチはその新たな十二番隊の在り方の中での力や強さに惹かれていった。
 研究なんぞ分かりはせんから、ウチの努力が実を結んだことはなかったけれど、それでもウチはその新たな隊の中でも自分にできる剣と戦いで隊を支えていたつもりだった。それは、やっぱりウチが死神であることへの誇りや矜持を深めていった。

「お前と一緒にいた頃は、ああ、死神で良かったって思うてた」
「……」
「そんで瀞霊廷を追われてからは、ああ、死神でありたかったって思うた」

 苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている阿近は、だけれど何も言わずにじっとウチの言葉を聞いていた。片手の煙草が少しずつ煙を漂わせている。

「死神だった自分が、一等好きやったんや。虚と混じって、虚でも死神でもなくなってもうた自分なんて、認めたなかった」

 ゆらゆらと、陽炎のようにこの身は揺れる。
 死神と虚の間で、この身はゆらゆら揺れる。
 ウチは死神が嫌い。死神でのうなったウチらを追い遣った死神が嫌い。
 死神の仲間の振りしてウチらをこんなふうにした藍染どもが憎い。
 だけど、だけど、だけど。

「ウチが一番憎くて、ウチが一番嫌いで、ウチが一番惜しんだ死神は、‘猿柿ひよ里’なんや」

 吐き捨てたウチの利己に、阿近もタバコの煙をフッと吐いた。白い煙がたゆたった。それはまるで陽炎のように視界を揺らめかせる。
 ああ、そうだ。
 ウチはずっと全てを憎悪と嫌悪で上書きしてきた。
 本当は―――本当にウチが一番憎んでいる、嫌っている死神は、死神でのうなった‘猿柿ひよ里’という死神なんや。死神でいられなくなった自分自身を隠すように、自身の心を押し殺すように、ウチは全ての死神を嫌いだと言い続けた。

「だからウチはここには戻らん。ウチはもう、死神にはなれんから」
「そうかな」

 言った言葉に、間髪を入れず阿近はそう言った。あの時、別れてしまった百年前のあの時、まだ小さかった彼は今ではもはや立派な青年だった。彼を見ていると、時の止まった自身の体がまたゆらゆらと揺らめく気がした。

「俺にとっては、お前は死神のままだよ」

 そんな阿近の、慰めのような言葉に、だけれどウチは返答に詰まった。慰めのようなのに、どうしてかその真意を測りかねた。

「そのままなんだ、お前は。死神じゃなくなったと死神の矜持や誇りを懸けて自分自身を律する姿も、お前自身を含めた仲間のために怒る姿も、戦う姿も、全部俺の知ってる‘猿柿ひよ里副隊長’なんだ」
「なんや、それ」

 やはり測れない真意に問えば、阿近は困ったように頭を掻いた。

「変わってないなって話だよ。死神としてとか、仲間としてとか、戦士としてとか、そういうの全部。俺にとってはそういうのは全然知らなかったことで、本当を言えばどうでもいい類のことだった。だけど、そういうことを俺に教えたのは百年前のお前だった。そうやって、死神のあるべき姿を示したお前と、今のお前が変わったように、俺には思えないんだ」

 ああ―――
 ウチは自身が陽炎のようだとずっと思ってきた。
 それを否定することは今の自分には出来ない。
 それは紛れもない事実だから。
 だけれど、その陽炎のような、幻影のような、その背を見つめて、今まだ死神として生きる男がいる。

「戻らんよ、ウチは」

 その顔が彼に見えないように、床を見つめてウチは笑った。

「そうかよ」

 ウチの顔なんて見えていないだろうに、その声はどこか嬉しげだった。

 もしその陽炎すら、その幻影すら、確りと捉える誰かがいるのなら、
 確りと捉えて、ウチに「ひよ里」と呼びかける死神がいるのなら、
 かつて自身が全てを懸けて守ったこの場所に、彼がいるのなら、

 ここに戻らなくても、大丈夫だと思えた。

「阿近」
「なんだ」
「忘れんでな」

 ウチにしてはずいぶん女々しい言葉に、阿近は笑った。

「忘れられるかよ、どんなに頑張ったって」

 その男は、陽炎のようなウチを確りと捉える。
 ウチを縛る幻影を、ゆらゆらと纏わりつく幻影を、捕らえて打ち砕く。

 もう一度、ずいぶん高い位置になってしまった彼の目を見た。
 驚きともからかいともつかない阿近の黒い目に映ったウチは、揺らいでも、霞んでもいやしなかった。




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冷たい幻影を融かして、その中にいる貴女を捕まえる

2016/06/25