「ひよ里」
「なんや」

 呼びかけに応答があることを、阿近はどこか遠くの出来事のように捉えていた。


まだき


「よぉ、阿近!ひよ里と仲良うしとるか」

 ひょいっと廊下で通りかかった小柄な死神を摘み上げて言ってみたら、彼は心底嫌そうな顔をして平子を見た。

「……平子隊長」
「なんや、その間は」

 一拍の間のあとにきまり悪げに言った阿近に、平子はからからと笑いながら彼を着地させる。

「別に」

 言葉少なに言い返した少年に平子はやはりからから笑う。

「ひよ里と喧嘩、したんやってな」
「いつものことでしょう。もういいですか」

 どうしてあなたが知っているんだ、と阿近は言い出したかったが、きっとひよ里が思う様彼に自分へ向けた悪口雑言を言ったのだろうと解釈して、幼い阿近の機嫌は余計に悪くなる。喧嘩の理由なんて覚えていない。毎度毎度、どちらかから突っ掛るそれが、今回はどうしてかどちらも上手く謝ることが出来なかった。
 でもそれだって初めてのことじゃない。喧嘩が長引くことも、それがいつの間にか終わることも。それは彼にとっても彼女にとっても日常の一部になっていた。

「なあ、阿近」
「なんですか」
「お前らはいいなあ。喧嘩しても仲直りできるんやから」

 そう言って平子はひらひらと手を振って廊下を歩いていってしまう。
 その言葉が、その声が、阿近にはひどく自分を「子供だ」と言われたように思えた。





「あの後、俺、ひよ里と本当に仲直りしたか覚えてないんですよ」
「ふうん」

 隊長職に復帰した平子の前で全くはばかることなく煙草を吸いながら述懐めいたことを言った阿近は、灰皿にそれを押し付けると、もう一本とんと煙草を取り出した。

「一本くれや」
「どうぞ」

 彼がそれを口許に持って行く前に平子が言えば、阿近は取り出したそれをそのまま平子に渡す。そうして彼が煙草を銜えるのを確認すると流れるような動作で先端に火を付けた。

「おおきに」
「いいえ」

 フッと煙を吐いてから礼を言う平子に阿近は小さく返した。例えば、煙草を彼が吸っているなんて想像することはほとんど不可能だった、と平子は思う。ましてその煙草を誰かに譲って、火を付けるなんて。ああ、彼は自分の中で本当に子どものままだったのだなと彼は重ねて思う。

「なんやあれやなあ。お前がタバコ吸ってるのよりも、お前が上司にタバコ渡して火ィ付けるっちゅうのが死ぬ程年取った感じするわ」
「想像力の欠如ですね」
「ひどっ!」

 平子のたわ言を一言で切り捨てて阿近は今度こそ自分の分の煙草を取り出す。

「俺にしてみれば、平子隊長の前で煙草吸うなんて死ぬ程年取った感じですよ」
「うーん、一致しない見解ってやつやな」

 可笑しそうに笑いながら平子は言った。
 年月が過ぎたことを、互いに知りながら、その実感を得ることが出来ないまま再会してしまった自分たちの不幸を嘆くように。

「あの後、確かに俺たちはいつも通りだった。喧嘩したままだったし、俺もひよ里も謝らなかったけれど、いつも通りその喧嘩を引っ提げたまま、憎まれ口をたたきながら一緒にいた。仲直りしたんでしょうね、いつの間にか」
「ああ」
「それが続くと思っていたからだと思いますよ。あそこで謝らなくても、いや、一生謝らなくても、ずっと喧嘩したままでも、そのままだと思っていた。結局はどこかでひよ里か俺が折れて、言葉にしなくても仲直りする。それが俺たちの日常だった」

 それが愚かなことかどうかは分からない。
 その日々は間違いなく確かな日々だった。明日をも知れぬ身ではなかったのだから。それで良かった。平子の言う通りだ。二人はいつの間にか仲直りできる関係だったのだから。

「子供だった、って訳じゃないと思うんです」
「ああ」
「あの時の俺たちにとってはそれが普通のことで、その普通が壊れるなんて俺たちは思っていなかった。それが子供だって言われればそれまでですけど、でも俺はあの時はあの時で正しかったと思ってる」

 正しさなんて、と本当は思うのだけれど。
 どこにその正しさがあるのかすら、本当は知らないのだけれど。

「あの時は謝らなくても良かった気がする。でも今は」

 彼はそこで言葉を切った。その空白に平子は紫煙を吐いて笑った。

「続きは自分で考えんとな」

 もう子供ではいられないのだから、と言われたような気がして、阿近は苦笑した。

「分かってますよ」
「これ御馳走さん」
「どうも」

 灰皿に吸殻を押し付けて、平子はやはり笑った。笑って、言う。

「お前らはいいなあ。喧嘩しても仲直りできるんやから」

 あの日と全く同じ言葉を、だけれど阿近は全く違う言葉のように聞いていた。





「ひよ里」
「なんや」

 何から話そうか迷った。
 何から話せば、この空白を、この悔恨を、埋められるだろうと思ったのに、彼女から応答があるそれだけでその空白は埋まっていくように思えたからだった。

「お前に、謝らなきゃなんねーなってずっと思ってた」
「なにを」

 返ってきた言葉に阿近は何を言えば良いのだろうと思う。

「何を謝りたいのかもう忘れちまったんだ」
「阿呆やなあ」

 だから阿近は正直に言ってしまう。彼女に嘘をつくのは、百年経っても難しい。

「喧嘩したこと、謝りたいと思ったこともある」
「そうか」
「お前がいなくなったことを詰りたいと思ったこともある」
「うん」
「お前を守れなかったことを、謝りたいと思ったこともある」

 言葉は淡々と落ちた。
 百年分の日々が、歳月が、彼の言葉に充ちていた。


「ごめんな、ひよ里」


 下らないことで喧嘩して、
 傷付けて、
 守れなくて、
 離れてしまって、


 たくさんの言葉が、たった一言に詰め込まれているのを、言った阿近もそれを聞いたひよ里も知っていた。
 知っていたから、きっと辛い。

「お前とは、よう仲直りせんわ」

 だからひよ里は床を見つめて言い返す。

「……そうだったな」

 その言葉に阿近は一瞬目を丸くしてから微かに笑った。
 そうだ。
 仲直りなんてしなくていいから。
 喧嘩したままでも、明日も会える約束をしてくれたなら、それだけでいいから。

「俺たちは、仲直りなんてしないな」
「だからお前は明日もウチのことで怒って、ウチも明日もお前のことでイラついて、ずーっと、喧嘩しっぱなしやろ」
「そうだな」

 明日も、明後日も、その先も、約束なんてしなくても、貴方を思って生きていくから。
 仲直りなんて、出来やしない。

「どこにいても、お前のこと考えてるから」


 もし踏み出す先が別の道でも、貴方を思って生きていく。
 今までずっとそうだったように。
 それがどんなにむごい道でも。

「死ぬまで喧嘩しっぱなしだな」
「それでええねん」

 貴方を思って生きていく。
 まだ、仲直りは出来ない。




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「恋すてふ 我が名はまだき立ちにけり 人知れずこそ思ひそめしか」壬生忠見

2016/01/14