マニキュア、或は装飾
「ふうん」
チルッチ・サンダーウィッチは、真っ赤に塗られた爪の先でティーカップの縁を軽くなでた。彼女には、そんなつまらない話よりもその‘つまらない話’をするネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクがさっきから大量のクッキーを消費しては従属官がせっせと追加分を持ってきているその光景の方が、ずっとおもしろかった。
「ネリエル、紅茶も飲みなさい。美味しいわよ」
「あら、ごめんなさい!私、ちょっとお腹が空いてて!」
自分の暴食に気付いたからか、サッと顔を赤らめてティーカップに手を伸ばしたその姿だけを見れば、花も恥じらう乙女だろうが、先ほどまでの食べっぷりを見ていては、チルッチは笑うしかなかった。
「笑わないでよ」
「可笑しいんだもの」
個体差の関係か、破面に女性は少ない。ましてネリエルとチルッチは他の破面から羨望と畏敬の眼差しを向けられる十刃というその席にいて、だから気兼ねなく話が出来る女性の知り合いは、互いに少なかった。気が合うというほどではない。そもそも性格上、ネリエルとチルッチがあまり上手くいくとは思えない。思えないが、互いに少ない気兼ねなく話が出来る相手であることは間違いなかった。
「でも、実際馬鹿よね、ノイトラは」
「……ええ」
「考え方自体は嫌いじゃないわ。あたしたちは戦うことが使命だもの。でも、だったらアンタに負けちゃダメよね」
「そういう問題ではないわ」
「そうね。そういう問題ではないわ。だってあの馬鹿は戦うことと負けることを何一つ知らないのだから」
ネリエルは彼女の言葉に沈黙した。それにチルッチは奇麗に塗られた爪でカリッとティーカップの縁を掻いた。
ノイトラ・ジルガがネリエルに戦いを挑んだのはつい先日の話だった。
下らない理由だったのはチルッチも知っている。女が十刃の三番にいるのが彼には気に食わない話だったのだ。
だが、番号というのはそうそう簡単なものではない。十刃は実力主義だ。第8十刃のノイトラがネリエルに勝てるはずもなく、そうして、ネリエルは敗北したその彼は中途半端で戦士としての何もないと一顧だにせず、止めを刺すことすらなかった。
ノイトラは憤慨した。憤慨したが、どうにもならない。そのことを、彼女たちは愚かだと言うのだ。
「子供なのね、ノイトラは」
紅茶を一口飲んで、ネリエルは言った。それにチルッチはふと笑みを浮かべた。
「そう。子供っていうか、ガキよ。戦うということは勝たなければならないことよ。あたしたちは選ばれた戦士なのだから。負ける、ということを、実力主義、ということを、ノイトラは何一つ分かっていなかった。アンタは情けをかけたわ。それをあたしは正しい判断だと思うけれど、同時に正しくない判断だともあたしは思う」
チルッチの従属官が彼女のティーカップを紅茶で満たす。彼女はふとその香りをかいでから、一口飲んで続けた。
「ノイトラ・ジルガという男は何も知らないわ。戦士となるべく藍染様に覚醒させてもらったあたしたちに、まして十刃にまで上りつめた者に許された敗北はないの。それが仮に十刃同士の戦いでもね。そうして、あの男はアンタの強さも、敗北の意味も、止めを刺されなかったその意味も、全く分かっていなかったわ」
淡々と、それでいて嘲るような声音で言った彼女を、ネリエルは彼女の声に重ねるような言葉で制した。
「チルッチ、違うわ。無用な戦いは避けるべきなのよ。私たちは戦士。だけれど、無用な争いは必要ない。あなたはノイトラと同じようにとても好戦的よ。だけれど戦士としての心構えも十分に備えている。だけれど、ノイトラは違う。敗北の意味も何もない。今の彼の戦いはただの獣のそれだわ」
ネリエルの言葉に、チルッチは少々気分を害した。害したが、それは本当に僅かなことだ。もともと、争いを好まないネリエルと、好戦的なチルッチでは気が合うわけではない。だけれど、彼女の言うことも確かだった。だからこそ、彼女のそれは全く表面化しないほど些細な不機嫌だった。
「確かに、ノイトラ・ジルガは破面となり諦観から抜け出し、自らの存在意義を見出すことが出来た。だけれどノイトラはそこまでで、戦士ではないの。ただただ、女の私が第3十刃であることが許せない、というだけで、そうして自らの力を過信して私に挑んだ。それは戦士の振る舞いではないわ。彼は―――」
そこでネリエルは言葉を区切った。チルッチはその続きを待った。
「戦士として生きるということを何も知らないの。戦士は高潔であるべきだ、なんて私は言わない。だけれど、彼の振る舞いは違う。ただ弱者と思う者を蔑み、強者と思う者を求めるだけ。それは戦士ではないわ。敗北は即ち死だという単純な理路すらない者に、戦士の資格はない。まして戦いの中に己の死すら求める。そうして、敗北は即ちそんな美学的なものではない死だと知る者なら、あなたのように好戦的な者あれ、私のように戦いを好まない者であれ、その矜持を持っている。持っているはずよ。ノイトラにはそれがない。それがないなら、私は彼を戦士とは認められないし、同時に助けなければならないとも思うの。彼がそれに気が付けるように、助けなければならないと」
チルッチは頬杖をついてネリエルの言葉を聞いていた。それは退屈だ、とか、下らない、という感情ではない。彼女の言葉をゆっくりと噛みしめ、考えていたがゆえの行動だった。
「……アンタは優しいわね」
「そう、かしら?」
チルッチは頬杖をやめて真っ赤に塗られた爪を顎にあてた。
「第3十刃ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクに挑んだノイトラ・ジルガは誰が見ても愚かよ。だけれどアンタは、それを助けて戦士にしなければと思ってる。優しいというか、お人好しというかだわ。そんなの、恨まれるかもしれないじゃない。そのくらいのことは分かるでしょう」
それにネリエルはティーカップを静かにソーサーに置いて目を伏せた。
「分かっているわ」
「それでもアンタは、ノイトラを放っておけないのね」
チルッチは微笑んだ。それに、目を伏せたままネリエルは僅か苦笑した。
「そうね。あのままでは、ノイトラはいつか死んでしまうと思ったら、どうしてか情けをかけても、恨まれても、戦士のあり方を諭すべきだと思った」
チルッチはそれに何も言わなかった。それが強者としての導きであるのか、慈しみであるのか、情愛であるのか、彼女にも分からなかったからだった。
*
「ネリエル、アンタ本当に馬鹿ね。ノイトラと変わらないくらい馬鹿だわ」
恨まれるのを知っていながら、彼女はノイトラを諭し続けた。その結果が、彼女の強大な力の全てを奪った。
その頃には、チルッチ自身も最早十刃落ちの身であったが、そうであるからこそ、かつてのそのことがひどく滑稽で、ひどく空しかった。
「ノイトラも、やっぱり馬鹿ね。アンタがネリエルに拘るのは―――」
*
第5十刃ノイトラ・ジルガはティア・ハリベルの自室に招かれていた。横柄な態度ではあるが、相手は第3十刃であるから、断りはしなかった。
「ノイトラ・ジルガ。私が第3十刃であることが不満か」
「別に」
吐き捨てるように応じてそれから、ノイトラは、ふとハリベルの手元を見る。かつてのチルッチ・サンダーウィッチのように装飾されていないその爪がどうしてか気になった。
「ではネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクがかつて第3十刃であったことは不満だったか」
「……殺されてえのか?」
凄んだが、ハリベルはそれを意にも介さない。
「我らは、あまりに不器用だな」
ハリベルの言葉に応えずに、ノイトラは乱暴に席を立って、その部屋を後にした。
*
(戦いの中で死ぬのは、戦士の本望じゃねえのか、ネリエル)
更木剣八の刃を受けながら、自らが力を奪った一人の女性へ、彼の思考の裡の言葉は向いていた。
(きっと、お前は違うと言うんだろうな)
更木の刃が彼を斬り裂く。
分かっていた。彼女の言う戦士とは何か、何故自分が認められなかったのか。
だから、ノイトラ・ジルガがネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクに抱いた感情は羨望だった。嫉妬だった。畏敬だった。敬愛だった。そうして、自らの司る死である絶望だった。だから、ネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクが齎した絶望こそが、自らを死に至らしめるのだと思っていた。そうである限り、己が彼女の言う戦士になれないことを、彼は知っていた。
(俺を殺せるのは、お前だけだと思っていた)
その全てを奪っておきながら、と思ったら、自嘲に似た笑みが浮かんだ。
倒れゆくその身の、まだ機能を有していた隻眼が、否、思考の裡の一つの瞳が、ノイトラ・ジルガの脳裡にネリエル・トゥ・オーデルシュヴァンクの後姿を映した。背を向けられたのだと、彼は覚った。
「ノイトラ?」
彼を死なせたくなかった彼女の声が、彼に届くことは、もうなかった。
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憧憬と絶望を齎す貴女へ
2014/08/30