もしもの噺
「桃はー?」
ふらりと十二番隊、技術開発局に現れた平子真子に、阿近はバインダーに綴じられていた書類を適当に机に放って、礼をはらう姿勢を取った。会釈というには深いが、跪礼をするほどではない、礼だった。
「雛森副隊長でしたら、四番隊に御向かいです」
「あー、遅かったか」
新たな五番隊で雛森は役職はそのままだが、しかし百有余年の年月を経て隊長に復任した平子の副官として今、その職務に努めている。だが、受けた傷は深く、技局で臓器回復が済み、復隊が認められても、定期的に技局と四番隊での診察を受けなければならなかった。
「仕事終わってん。やから付き添いしたろと思ってたんやけど」
「それでしたら、四席の者が付いていましたが」
他愛もない会話だが、阿近の声色、というか、言葉は慇懃無礼を地で行くいつもの態度に戻りつつあった。……相手が相手だからかもしれない。今更、と互いに思う程度には旧知の様なものだった。
「ま、しゃあないか。アイツ付き添い行ってるなら心配ないしええわ。んー、でも追いかけるか?お、そういや阿近、ひっさしぶりやなあ!」
そう言うと、平子は唐突に阿近との距離を詰めてわしゃわしゃと彼の髪を撫でた。
「止めてください、平子隊長」
「お前にそう呼ばれんのも、ほんま久しぶりやわ」
こういったスキンシップ、というか、屈託のないように見えて、悪意に近いものが幾許か含まれた彼のからかいが苦手なのは、どうやら百年以上前から変わっていないらしく、平子は可笑しくなって笑った。
「大きゅうなったな、ホンマ。ひよ里に見せたいわあー」
だが、子供扱いのからかいとその髪をぐしゃぐしゃにする手に、心底嫌そうな表情でそれでも応じていた阿近は、平子の最後の一言に、パシッとその手を払った。
「言っときますけど、隊長に手を上げた、とかそういうので謝りませんよ」
払いのけた手を、面倒そうに下げて、そうしてはっきりと阿近がそう言ったら、平子は困ったように笑った。
「悪い。今のはオレが悪かったわ」
平子は素直に謝ると、壁にもたれかかって阿近を見た。自分が知っているそれよりも、ずっと大きくなった、彼を。大きくなっただけではない。あらゆることが変わっている。そうしてそれから、彼は思う。阿近という、猿柿ひよ里の嘗ての部下は、今、こうして成長し、大きく変容したのだ、と。当たり前のことだった。
「ひよ里は」
壁にもたれかかる彼を真っ直ぐに見遣る阿近の声は僅かに震えていた。
「死神が憎いんでしょう」
「……」
平子は、応えなかった。沈黙は肯定、とは良く言ったものだ。だが、その沈黙には肯定以上の意味があった。
「藍染との闘いのあと、書類で写真見ました。死神が嫌いってのは、まあ聞こえてきますよ。だけど、写真のアイツは何も変わっていないように見えた」
彼は吐き捨てるように言った。
「だけど、何もかも変ったんだよ。虚化させられて、あんなに矜持を持っていた死神として生きることを赦されなくて、その死神達に追われて、その誇りを持っていた死神を憎んでた」
(嗚呼…ああ)
平子は、静かにその声を聴いて、そうして心の裡で嘆息した。
彼は知っていて、自らを責めるのだ、と。
ひよ里が死神を嫌うには、たくさんのことがある。たくさんのことがありすぎた。
だけれど、彼女が一番嫌いな‘死神’は多分、彼女自身だ。追われたとか、そういうことじゃない。虚化したとか、そういうことじゃない。
‘死神’という誇りを、矜持を、そうして安息を、全て無にせざるを得なかった自分自身を、彼女はひどく憎むのだ、と、眼前の彼は知っていた。そのことが、平子にはひどく辛かった。
「俺のせいだ」
絞り出すように阿近は呟いた。
「違う」
平子は即座にそれを否定する。
違う。
違う、ちがう。
だけれど、阿近は言い募る。
「あいつが、‘死神’を憎むのは、俺のせいだ」
「違う」
「何が違う!?俺は、すぐそこにいた。最後に会って、その時に吐いたのはいつも通りの暴言だった。もっと他のことが言えて、もっと他のことが出来たなら、俺はアイツを失わずに済んだかもしれなかったのに!一番恨まれるべき死神は、俺だ!」
叫びは、まるで幼かった頃の彼のようだった。幼かった頃、か、と平子は思う。幼かった頃だって、冷静沈着で可愛くない子供だった阿近が声を荒げるのは、何時だってひよ里の関わることだけだった。
「違う。ひよ里はお前を恨んでやせん」
諭すように平子は言った。ここには居ない、ここには戻らないと言った彼女の言葉を借りるように。
「違わない!俺は、出来るならあなたと同じになりたかったと今なら思う。今なら思える。思ってしまう!」
平子は、それに反駁も怒りもしなかった。彼らは望んで離反した訳でも、虚の能力を得た訳でもない。だとしたらそれは、怒りを見せていい、というか、そうしてしかるべき言葉だったけれど、彼はそれをしなかった。
「一緒に墜ちてしまえれば良かった!あの時一緒に墜ちてしまえれば…!」
叫ぶように言って、彼はガンっと鈍い音を立てて乱雑に書類の散乱する机に拳を振り下ろした。
「笑ってください。とんでもない利己心ですよ。一緒に墜ちてしまえれば、俺は大事な女に恨まれずに済んだと思ってるんです」
飛び散った書類を、平子はひらりと拾い上げる。その中に、仮面の軍勢についての紙が一枚紛れていた。
(ホンマに、しょうもない子供や)
平子は静かに思う。それは呆れなどではない。呆れなどではなくて、憐れみでもなくて、ひどく穏やかで、言うなれば安堵に似た思いだった。
百有余年も、そうして彼女を待ち続けた子供が、いつの間にか大人になって、大人になってもそうして彼は彼女を待ち続ける。挙句、彼女の許に行けたら良かったと叫ぶ。
(ひよ里は、幸せかもしれん)
確かに彼女はあらゆるものを失って、憎んで、恨んで、そうしてその果ての復讐も果たせなかった。だけれど、その遥か遠くで、待っていた誰かがいた、という彼女の、僅かばかりの、だけれどひどくあたたかい幸せに、平子は目を伏せた。
「俺は、ひよ里と一緒だったら墜ちたって良かった。墜ちた方が良かった!あんなふうに手を離すくらいなら、」
「ド阿呆」
阿近がその言葉を叫び立てるように言ったその時だった。
ガッと二人がいる技局の扉を、乱暴に足で開ける者があった。
開ける者があって、その女は、真っ直ぐに阿近を見据えて、「ド阿呆」と罵詈を吐いた。
「ひよ…里…?」
放心したように振り返った阿近を、彼女―――ひよ里は鋭い視線で見遣った。責めるような、それでいて、見透かすような、視線で。
「そんなん、ウチは望んでんわ」
阿近とひよ里の間に、もう数え切れないほど長きに亘って横たわった空白が、流れた。
平子は、その二人の空間を静かに見つめた。言いたいことが山ほどあるのは、何も阿近だけではないのを、彼は知っていた。
「だけど!俺は!」
「ウチは死神が嫌いや。やけど」
ひよ里は言葉を区切った。阿近が言うことの応えにはまるでなっていなかったけれど、彼女は続ける。
「それはお前のことと違う」
「駄目だ…恨んでくれ。憎んでくれ。これは俺の利己だ。お前が俺を恨んでくれれば、俺を憎んでくれれば、それで俺が救われる」
彼は、静かに言った。彼女に初めて言う本音だった。利己だ、と言うのに、その利己はどこまでも彼女のための利己だった。
恨んでくれれば、憎んでくれれば、自分が救われる、と言いながら、彼が一番救いたかったのは、一番救いたいのは、いつだって彼女だった。今だって、彼女だった。
その憎しみを。
その恨みを。
その痛みを。
ぶつけてくれと彼は叫ぶ。叫ぶ彼に、ひよ里は呆れたように笑った。
「図体だけやのうて、頭ん中味も多少は成長したみたいやな」
「ひよ里、俺は、」
言い差した彼に、彼女は笑った。笑ってそれを遮った。
「久しぶりやな、阿近」
ここまでやり合っておいて、全く以て見当違いな挨拶に、二人を眺めていた平子は耐えかねた様に声を上げて笑った。
「自分ら、不器用すぎやで」
「うっさいわ!」
がなり立てたひよ里と、視線を彼に戻した阿近に、彼はひらひらと手を振る。
「四番隊行くわ。漫才見てたら桃に追い付けんくなる。ひよ里、お前も喜助の指図で技局で検査やろ?あんま騒ぐなよ」
阿近もまたそのうち、と言って、彼はひらりと預けていた壁から背を離し、入口近くのひよ里の横をすり抜けてその乱雑な部屋から出ていく。
その背中を、阿近はぼんやりと見つめて、それからもう一度ひよ里を振り返った。
「久しぶり、だな」
本当に久しぶりの再会だというのに、最初に出てきた言葉たちは互いにひどく乱雑で、乱暴で、どうにかして百年を超える月日を埋めようとするものばかりだった。
だけれど、本当に埋めるべき言葉は、こんなにも単純で、こんなにも簡単で、そうして、こんなにも優しかった。
「相変わらず元気そうで、ま、腹立たしいわ」
「うっせ」
昔のような言葉を交わして、それからひよ里はひょいっと、事も無げに机に飛び乗るように座った。あの頃から変わらず背の低い彼女とは、そのくらいの高さが話すにはちょうど良かった。ちょうど良いかも知れないけれど、話すべきこと、というのが、彼らの間にはもうなかった。
もしも。
もしも、彼女の手を離さなかったら。
もしも、彼女の手を引くことが出来たなら。
もしも、彼女と一緒に墜ちることが出来たなら。
もしも、
もしも、
もしも―――
もしも、という仮定は、だけれど今は最早何の意味もなさなかった。
何の意味もなさないことを知っていたから、彼は緩く笑んだ。
百有余年の哀しみも、寂寞も、恐怖も、痛みも、何もかもを内包した、だけれど幸せな笑みだった。
それに、ひよ里は満足したように微笑んで、幼子をあやすように、彼の髪をくしゃっと撫でた。
彼は、それに、たった一つだけ言うべき言葉を紡いだ。
「おかえり」
もしもの噺
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2014/04/21 <