愚かなる仕合わせ
その時まで。
その日まで。
そんな日が、来ないと私は思っていました。
それは、愚かなことかもしれません。
だけれど私は、そのことを悔やんだりはしないのです。
いいえ。
私は、そのことを悔やんだりできはしないのです。
愚かであることは罪でしょうか?
いいえ。
例えそうだとしても、私は、愚かであることを是とします。
それはきっと――
*
「マユリ様は喜んでくださったのですか」
七號、というか幼いネムの問い掛けに俺は一瞬面喰ってからどうにも可笑しくてふき出していた。
「なんだ、急に」
笑いながら言った俺に、ネムは少しだけ機嫌を損ねたようにわずか不満げな顔をした。
「ですから、私が成長してマユリ様は喜んでくださったのですかとお訊きしています」
繰り返す少女に、俺は今度こそ笑い出して、彼女の滑らかな黒髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「どうした、寂しいのか?」
それで俺は、ネムが俺にそんな問いを重ねる理由がだいたい分かっていしまう。
隊長は先日の隊首会で隊舎と技局を離れてから、今度は自分専用の研究室にこもっている。曰く、隊首会で無駄な時間を使った、だそうだ。
それも今日で三日目か。まだ幼いネムに対して隊長は周りが考えているよりもずっと過保護だ。研究室や技局の機材で怪我をしたら大事だと言ってはばからない。それもあって、隊長か俺が同伴している時以外ネムは自室で絵をかいたり菓子を食べたりして遊んでいる。
とは言え、隊長と違って俺は手が空いているから今彼女は技局にいるのだけれど。だが、それじゃあ足りないんだろう。
「俺じゃ物足りないんだろ」
「違います。寂しくなどありません」
気丈に言ったネムに構わず俺は髪をかき混ぜる手を止めない。
「隊長が構ってくれないから拗ねてるんだな、ネムは」
「違います」
重ねて言った彼女に余計可笑しくなる。笑っている俺に、ネムはついに頬を膨らませた。
「私をからかうのはお止めください」
「悪ぃ悪ぃ。ま、隊長も今日にはこっちに顔出すって言ってたぜ?」
「……!」
あからさまに嬉しそうな顔になった少女の、くるくる変わる表情は、きっと子供特有のものだろう。そう思うと余計に可愛らしかった。
「それよりも、先ほどの質問にお答えいただいていません」
だが、その嬉しさを気取られたのが恥ずかしいのか、ネムは取り繕うように言ったが、その頬はまだ赤らんでいる。
「当たり前だろ。隊長に秘密で前に教えてやったじゃねえか。お前が成長してくれて、今もこうして元気でいてくれることを隊長はすげえ喜んでるぜ?」
「……」
そう言えば、ネムは黙ってしまって俯いた。赤らんでいた頬どころか今度はその耳まで赤くなっていて、こうやって嬉しさや喜び、幸せや充足を感じることの出来るようになった彼女の感情に、俺は今度こそ可笑しさではなく、自然と口角が上がるのを感じていた。
そうして今度は俺がかき混ぜてしまってばらついてしまった髪を整えるように梳くようにネムの髪を撫でる。
「それにな、実は俺たちも喜んでるんだぜ?」
「え?」
不思議そうに顔を上げた彼女に視線を合わるように少し屈んだところで、バタバタと足早にこちらに向かう気配があった。
「マユリ様」
それにパッとネムは俺の手なんか掻い潜るように駆けだした。それに俺はやっぱり可笑しくなってしまう。
「ネム、阿近の邪魔をするんじゃないヨ!」
「申し訳ありません」
「全く、お前は本当に手の掛かる奴だヨ」
そう言いながらひょいと小さな彼女の体を抱え上げたのは隊長だった。
「終わったんですか」
「まあネ」
少し気恥ずかしそうに、気まずそうに、それでも抱え上げたネムを下ろすことはせずに言う涅隊長に俺は再び声を掛ける。
「じゃあ、このあとネムは隊長に頼んでいいですかね。薬液とかちょっと使いたいんで」
暗に、触ってやけどでもしたらことだと言えば、隊長は少しだけ眉をひそめた。
「これがいる間に使ってないだろうネ、阿近?」
「使ってませんよ。俺だってネムに怪我させたくなんかないんすから」
「なら良いがネ」
その隊長と俺の会話を不思議そうに聞いて、俺たちの顔を交互に見ていたネムに俺は笑い掛ける。
「そういうこった。良かったな、ネム」
それに、大切な少女は面映ゆそうにはにかんだ。
「はい」
*
七號の成長は、私の夢だった。
私はずっと、夢の中にいた。
私の大切な娘。
七號が成長することが、食事を摂ることが、言葉を話すことが、背の伸びることが、いや、呼吸をする、たったそれだけのことすら、私に幸福をもたらした。
新たな生命体を作ったことに私は愉悦を覚えていたのだと思っていた。
だが、これは違うと気がついた。
何が違う。
多くの「親」と呼ばれる存在が自身の子供の生に感じる感動と、何が違う。
そのことに気がついた時に、私はどうにも気恥ずかしい思いに駆られた。
科学者として生み出した眠が、いつの間にか私という一人の死神が生み出した子供になっていたのだから。
それを七號に覚られるのがどうにもきまり悪く、私は彼女をネムと呼ぶようになった。
だが、それはある意味で私の感情を浮き彫りにしてしまう行為だった。
七號は七號だ。だが、私が眠の中で「涅ネム」という名を与え、呼ぶのは、ネム一人だったのだから。
だから、私のそれは逆説的にネムをネムとして、たった一人の死神として、私の娘として、認める行為だった。
だから私は、こんな結末を望んではいなかった。
絶望?悲哀?哀惜?
こんな感情が、私の中にまだ巣食っていることに私は俄かに混乱した。
散り散りになった私の娘を、呆然と、いや、茫然と見つめる私は、その時最早科学者ではなかった。唯一人の、彼女の親でしかなかった。
その愚かさ。その浅薄さ。そうして、その途轍もない貴さに、身動きが取れなくなる。
「ネム」
思わず呟いたその名は、‘七號’ではなかった。彼女の‘名前’だった。
私を護る?
違う。違う。違う。
私がネムを護らなければなかったのだ。
「私は―――」
思考が言葉になる前に、忌々しい破面が脳の中で嗤った。そうして私は、科学者としての自分を叱咤した。
だが、脳内で嗤ったのはあの破面ではない。私の脳の中で嗤ったのではない。笑ったのは、ネムだ。
ネムを生み出し、ネムが疑うことをせず、ネムが最期まで守った私を、叱咤するように、檄するように、そうでありながら穏やかに、私の脳裡で彼女は微笑んだ。
そう、彼女は最後まで私に科学者としての、そうして護廷の死神としての、矜持を、誇りを、そうして私の最も是とする眠七號という夢を、思い起こさせた。
「全く、こんなことでは笑えないネ」
回収したネムの大脳は、私たちの過ごしたあらゆる日々の記憶を持っているだろう。
だから私は、瓦解する左腕を見ながらその大脳に、いや、ネムに向けるように呟いた。
「私はお前の親失格だネ」
声が届いているとは思わない。そうだというのに、私は続けた。
「だが、お前も娘失格だヨ。親より先に逝くのは何よりの親不孝と世間では言うらしいじゃないカ」
どうしてか、私の心はひどく穏やかに凪いでいた。
*
ああ、嗚呼。
嗚呼、ああ。
瞬間的に崩壊していく自身の躰に、だけれど私は悔いを抱いてはいなかったのです。
あの日、兄のようなあの方は私が愚かなままでいられないと仰いました。
だけれど、私は愚かです。
知能でも、戦闘力でもない。
ただただ、マユリ様を、父を悲しませる愚かな娘です。
だけれど私は、その愚かさを悔いてはいないのです。
そうして私は、あの優しかった日々が続くと思っていた愚かなおさなごです。
だけれど私は、その愚かさを悔いることなどできはしないのです。
「マユリ様」
たった一言の言葉は声になったでしょうか。空気を震わせることが出来たでしょうか。マユリ様に届いたでしょうか。
きっと届いてはいません。だけれどそれでも私は、もう機能していない声帯も、舌も、喉も無視して、その残った思考回路だけで何度もマユリ様を呼びました。
私の父を呼びました。
そうして、続けました。
『私は幸せでした』
いいえ。違います。
『私は今も幸せです』
たくさんのことがありました。
たくさんのことを学びました。
たくさんの方々の愛情を受けて私は育ちました。
そして、誰よりもマユリ様、貴方は私を愛してくださいました。
思い起こされる日々が狂おしいまでに愛おしい。
走馬灯という言葉をいつか覚えました。
これがそれなのかも知れませんね。
だけれど不思議なことに、思い起こされるのは私に課せられた責任や戦いよりももっともっと単純で、平板な、マユリ様や技術開発局の皆さんや、女性死神協会の皆さんや、たくさんの方々と、何でもないことで笑い合った日々なのです。
それともこれが普通なのでしょうか。
『教えていただきたいことが、まだまだありました』
そう、そして。
『学びたいことが、まだまだありました』
嗚呼、だけれど私はそのことすら悔いることがないのです。
マユリ様。
私の、一番大切な方。
貴方をお護り出来たなら、私は愚かで構いません。
貴方が悲しまれることを知っていてすら。
そのように愚かなことを犯すことすら、構いません。
ああ、このような時になんと言えばいいのでしょう。
まだ私には知らないことが多すぎるようです。
だけれど、無意味な謝罪はきっと意味がないのだということは知っていました。
私は
七號は
眠は
涅ネムは
ネムは
『幸せです、マユリ様』
ああ、愛おしい日々が、愛おしい方々が、私の裡に満ちていく。
最期に言うならば、これ以外の言葉を今の私は思いつきません。
だから、次があれば、もっと違う言葉を思いつけるように、たくさんの事を学びます。
だから、次があれば、もっと違う言葉をマユリ様が教えてください。
今の私には、これ以外の言葉が思いつきませんから。
『ありがとうございました、マユリ様』
本当に、私は幸せだったのです。
2015/09/22