それは毒に似ている。
さて一息に毒を飲み干せ
「誰かのために戦うのが好きやってん」
阿近の机の上にちょんと座って、ジャージ姿のひよ里はぶらぶらと足をばたつかせた。
阿近とひよ里の百余年ぶりの再会に、だけれど感動なんてなかった。阿近が私室であり研究室であるこの部屋に戻ったら、卯ノ花に手当てを受けるために瀞霊廷に来た帰りのひよ里が机に座っていた。「久しぶり」の一言もないままに、だけれど二人は互いが百年以上前に失った仲間だと知っていた。
藍染と破面たちとの戦いに終止符が打たれてそれから、いつかどこかで出会うだろうと、少なくとも阿近は思っていた。思っていたから「久しぶり」とは言えなかった。代わりに彼は、部屋に入っていつもすぐに手を伸ばす煙草を取り出すのをやめた。その程度しか、彼女がいることで何か変わることはなかった。
書類を一束取って、彼女はバサッとそれをばらまく。見ていた阿近は何も言わなかった。
「誰かのために」
「ああ」
応えて彼は煙草に手を伸ばす。狭い部屋に紫煙が流れた。
「けどな、ウチは結局自分のためにしか戦えんかった」
「……」
「誰かのためにある刃は強いと思ってた」
瀞霊廷のために、護廷のために、隊のために、仲間のために、振るった刃は届かなかったのだけれど。
彼女の胸元には真新しい白の包帯が巻かれていた。その傷は、だけれど誰のためでもなく、己のために振るったためについた傷だった。
「藍染がいるって思ったら、勝手に体が動いてた。勝手に刀を抜いてた。そうだって言うのに、斬られても、後悔すらなかった」
言葉に、阿近は何も言えずに煙を吐いた。
仮面の軍勢と呼ばれた彼らが瀞霊廷を追われた理由を作ったのは藍染たちだった。そうして彼女は、瀞霊廷のために、大義のために、彼に刃を向けたわけではなかった。
「なんでや。なんで結局、一護の刃が届いて、ウチの刃は届かれへんかった。考えても、考えても、答えは出やせん」
「お前は結局」
熱が指先に迫って、阿近はそこで言葉を切ると灰皿に短くなった煙草を押し付けた。いつの間にか部屋に充ちた紫煙を逃がそうと、彼は軽く窓を開ける。入ってきた風が、ひよ里のばらまいた書類にかさかさと音を立てさせた。
「結局誰かのために刀を振るってしまうんだと思う」
「違う」
「違わない。黒崎は多分、瀞霊廷のためとか、仲間のためとか、そういう感情だったと思う。けど、お前も自分を含めたすべてのために藍染に刀を向けたんだろうなと、思うよ」
「じゃあなんでウチの刃は届かれへんかったのや」
糾弾するように掛けられた問いに、阿近は透明な視線でもって応じた。
「何でだろうなあ」
ガシガシと阿近は頭を掻いた。聞き及んだ情報を何度見ても、ひよ里はひよ里でしかなくて、彼女が彼女である以上、きっと彼女は全てのために戦ったのだろうと思った。だけれど彼女は違うと言う。自らの復讐のために振るった刃は届かなかったと言う。
「お前はさ、自分のためと言いながら虚化した他の仲間や、瀞霊廷や、現世や、全てのことを考えてしまっていたと思う。そうでなければ、俺の知ってるお前は憎しみに駆られたって突っ込めやしなかったと思う。何でだろうなあ。俺がお前に守られてたからかもしれない」
彼にとって、死神であることはひよ里のようにいつも誇らしいことでも、いつも憎らしいことでもなかった。彼の‘死神’としての生は、ひよ里に比べれば遥かに平板だった。
「俺は、瀞霊廷のため以外に生きたことがない」
「……」
「生かされたことがない、という表現の方が適切かもしれない。あらゆる研究も、頭脳も、能力も、瀞霊廷のために使えなきゃ、俺は意味がなかった。あそこから出られやしなかった。だけど、その一方で別に出られなくても良かった」
あの場所に、永遠に囚われていても自分は何も変わらなかったと阿近は思っている。自分が利己的な死神だと彼は知っていた。誰かのために自らの頭脳を使うことよりも、自らの欲求のために理想を描き続ける方が遥かに楽しいのではないか、と。それは平板な愉悦だった。
「仲間ってものが分からなかった。多分分からせたのはお前だったよ。でも、分かってなお、今以て誰かのために戦うことは出来ないだろうと思う」
百年経っても、と続けた阿近をひよ里はぼんやりと見詰めた。
阿近の中にあるひよ里は、いつまで経っても死神でしかなかった。死神以外の彼女を彼は知らない。どんなに彼女が否定しても、猿柿ひよ里は彼の中で死神にしかなりえなかった。
「俺は、仲間ってものがあるとしたら、お前の一番嫌いな死神でいたかった」
それくらいしか俺には出来ない、と彼は小さく付け足した。
死神が嫌いだと言う彼女の、一番嫌いな死神であることが彼に出来る最大限の‘仲間’としての振舞いだった。彼女のように、誰かのために戦うことは出来ない。彼女のように、誰かのために刃を振るうこともない。
百年の歳月を満たすために彼に出来た全ては、最も彼女に憎まれて、最も彼女を害した存在が自分であると思うことだった。それは嘘でしかないのだけれど。
「知っているんだ」
阿近の声が静かに落ちた。何を、と彼は言わなかった。
「毒を食らわば皿までと言うだろう」
「お前は毒に慣れてるかんな」
「そうかもしれない」
ふと彼は、窓の外へと流れていく毒を含む煙を眺めながら笑った。
*
知っているんだ。
お前がこの世で一番憎んだ死神は俺じゃない。
知っているんだ。
瀞霊廷のために、死神のために、護廷のために。
お前が最も憎んだ死神の名は―――
*
知っとる。
ウチがこの世で一番憎んだ死神は誰でもない。
知っとる。
ウチの刀は誰かのために振るうことしかできない。
ウチが最も憎んだ死神の名は―――
*
黒い死覇装に袖を通した時に、それを用意したのが阿近だと何故かひよ里は思っていた。微かに煙草の匂いがしたからかもしれない。
百有余年の時を経て、彼女が最も憎んだ死神がそこに再び現れた。
毒を飲み干す彼女の前に、その死神は現れてしまった。
彼女が最も憎んだ、猿柿ひよ里という名の死神が、瀞霊廷の地面を踏んだ。
2015/02/24