「いって!何すんだ!」

 間抜けた阿近の声がして、ウチの機嫌はちょっとだけ上向いた。
 顔面に叩きつけたのはラッピングもなにもされていないカカオ90パーセントの、お世辞にもチョコレートと呼べる代物ではないと少なくともウチには思える‘チョコレート’やった。





 ひよ里、ひよ里、と切迫した声で自分を呼ばわる声に、ウチは心当たりがなかった。藍染との闘いで受けた傷のために眠るその思考が、その声に揺り動かされる。仲間にこんな声の男はおらんし、それ以外でも聞いたこともない声やった。そして、薄っすらと覚醒する五感が捉えたのは懐かしい霊圧と匂いやった。匂いには、だけれど何故か煙たいものも含まれていたけれど。

『あ…こん…?』

 霊圧は、自分が追われた場所にいた、小生意気で幼い部下のそれだった。そうして匂いは、彼が延々と実験をしていたその薬品の匂いに、煙草の匂いを足したそれだった。
 目を開いて、彼を見る。黒い髪と目つきは、阿近の面影を残していたけれど、それはもう幼さも何もなくて、ウチは痛む傷なんか忘れて可笑しな気持ちになってしまった。

『大きゅうなりおって、このガキが』

 悪態をついてやったら、阿近はウチの髪をくしゃっと撫でた。

『無事で、良かった』
『お前の心配する事なんぞ、何もないわ』
『勝手にいなくなるな、馬鹿』

 その言葉に、ウチは言葉に詰まった。彼の言う『無事』は、この傷のことだけではなかったからだと覚ったからだった。百有余年の歳月が満ちる。
 お前はやっぱり馬鹿だ、と阿近は消え入りそうな声で言った。大きゅうなったと思ったのに、それは相変わらず昔のままのような気が、した。





「仕事中に寝んなや」
「うっせー。休憩中だ」

 阿近の研究室への入室は、あっさり下りた。マユリも案外丸くなったというか、と思ってしまった自分の思考が、妙に郷愁めいていて、独り笑う。

「なんだよ、こっちに用事か?」

 ソファに寝そべっていた彼はくっと伸びをしてウチを振り返った。叩きつけて起こしてやった箱は、未だウチの手の中にある。

「憐れな三席にプレゼント持ってきてやってん」
「はあ?」

 あの日はあんなにしおらしかったくせに、と思ったら、たまらなく可笑しかった。この方がずっと阿近らしい。
 自分たちの距離は、どのくらいだろう。彼の存在は、どのくらいだろう。ウチの存在は、どのくらだろう。
 過去も、今も、ウチはそれを測りかねる。位置も、気持ちも、思考も、全部。
 それは、今も昔も、あんなにも簡単に、それでいて気まぐれにこちらのスペースに入り込んでくるのがこの男だからかもしれなかった。
 過去の研究室でも、先日の一件でも。自分で言っては世話がないが、ウチは自分が排他的なヤツやと知ってる。事件が起こる前から、ずっと。許せる人間しか内側に入れられない。やけど阿近は、その内側にいつだって簡単に侵入する男だった。
 全然変わらないその死神が、ウチは嫌いやない。

「なんなんだよ」

 寝てなくていいのか、と見当違いなことを言われたので、ウチは笑ってやった。

「もう治ったわ。ひよ里様をナメんなや」
「そりゃよかったな。で、そのひよ里様々が直々にわたくしめのところに出向かれた理由はなんでしょう」

 慇懃無礼を地で行くような言葉を彼は並べて笑った。あ、と思う。治ったというそれを、彼が素直に喜んでいるような気がしたからだった。

「ほれ、くれてやる」

 それが何だかこそばゆくて、ウチはその真っ黒な包みのチョコレートを彼に投げる。阿近はパシッとそれを掴んだ。

「はあ!?チョコとか食わねえよ」
「カカオ90パーセントはもうほとんどチョコやないわ」

 ついでに、今日が何の日かなんて彼は憶えていないらしい。憶えていない、というか、日付の感覚がマヒしているのだろうと思われた。
 食わない、とか言いながら、彼はガサガサと包みを開いてそれを一口かじった。

「苦っ!」
「煙草よかマシやろ」

 ウチは笑って彼を見た。
 90パーセントの、測量されたチョコレートを食べる彼を、見た。


情測量計