蒼穹
懺罪宮の白い壁を見詰めて、私は確かに思った。これでいいのだ、と。これで、ここで、私の命が断たれれば、それで全てが赦されるのだと。
あの白は、己の中に巣食う罪を呼び起こす。
己が殺した男のことを。巻き込んだ少年のことを。裏切った幼馴染のことを。終ぞ役に立てなかった兄のことを。
安堵さえしたのだ。ここで、刑に処されれば、全てから解放されるのだ、と。
正直に言えば、私は己の進む道を倦んでいた。
或いは、誰かに生かされることを、倦んでいた。
恐いのだ。そうやって私を生かそうとする手を、私はまた―
(また、失うのではないか、と―)
それなら初めから、そんな手がなければいいと思った。ひどい我儘だと知っている。少しずつ削ぎ落して、削ぎ落して、そうして、私は彼に出会った。
「生きたいと思いました」
牢から出て、彼の霊圧を感じた時に、彼が殺されることを恐れる一方で、私は無理な期待をした。生きたい、と。不思議なことだと思う。「助けてほしい」と思った訳ではないのだ。いや、心のどこかにはあったかもしれない。それでも、私の心に鮮烈に思い浮かんだのは「生きたい」という感情だった。助かりたい、ではなくて、生きたい、だった。その差異は、思うより大きい。
「生きて、生きて、生き抜いて、その後だったら、彼の、一護の隣に立てると思ったのです。不思議なものだ―今から死のうという時に」
だけれど、彼の存在は、私にこの『先』を考えさせた。これから、たくさんの罪を抱えて、それでも生きて、傷ついて、そうして己の足で立って、歩く『未来』を。
彼に、「生かされる」のではない。彼は私を助けるかもしれない、助けないかもしれない。どちらでも同じだった。「生かされる」のではない。「生きる」のだ。「生きたい」のだ。
そうして、生きて、生きて、生き抜いて、初めて彼の隣に立てるのだ、と思った。
「希望…だったかもしれない。可笑しいですね、助かる保証は一つもなかったのに、私は未来を考えたのです」
小さな笑みが口許に浮かんだ。不思議なものだ、と今でも思う。
「一護は私に、生きることを考えさせた」
サアッと風が吹いた。
彼は「生かされる」ことを考えさせたのではないのだ。生きることを考えさせた。
「生きようと、思うのです」
そうして彼は、本当に私を救ってしまった。今でもまるで夢みたいだ、と思う。
「生きよう、と」
生きようと、思う。彼が救ってくれたからではない。彼が私を生かすからでもない。
彼が、生きるというなら、その世界に、生きようと、思う。
滴が頬を伝った。生きたい、という願いは、許されるのだろうか、と、今も思う。詮無いことだと知りながら、罰されたいと願う。生きることと、生かされることは違う。生かされることに倦みながら、生かされることの方がずっと楽だと、私は知っている。知っているから、ずっと―
「ずっと、そうやって、誰かに生かされることに疑念すら抱かずにいた」
不平を持てども、疑念は抱かなかった。それが、己の選べる最良の道だと言うように。
過去に、私に、独り生き、歩くことを教えた存在は、あっさり失われた。だから、恐かった。だから、そうならないようにするのが最良の道だと、己に言い聞かせた。そんなの嘘だと知っているのに。
最良の道のはずがない。私は、こんなにも簡単にその最良の道を投げ出そうとしていたのだから。
―死んでもいいと思った。死ぬべきだと思った。
これで、全てが終わるのだ、と思った。
「なんて…愚かしい…!」
私は嗚咽を噛み殺す。ぽたりぽたりと、滴は絶え間なく落ちた。
「死ねば、許されるなんて。全てから解放されるなんて、では、遺された仲間は、友は、家族は―」
私を助けに来た彼らは、そして、一護は―
「どうしろと言うのでしょう?」
死ぬというのは、生きるよりずっと難しいことだと、今なら言える。
遺される者の思いを、声を、全てを、たった一人で背負って沈んでいくということなのだから。死の罰は孤独だ。その孤独を理解もせずに、私はそれを望んだ。全く解っていなかった。数多の死を知りながら、或いはこの手で、死を与えながら、私は―
「貴方に、この手で死を与えてなお、私は知らなかったのです」
泣き叫びたい衝動を抑えて、それでも私は思わず頽れ、墓石に手をつく。
「私は…!」
言葉が続かなかった。言うべき言葉があり過ぎた。だけれど、もし許されるなら。その罪を、ではない。貴方の思いを抱えて生きていくことを、許されるなら。
冷たい石から手を離す。立ち上がり、言うべきその言葉を口にする。
「私は、生きたい」
―それは、罪すら内包している。
生き続けるということは、罪を背負い続けるということだ。死もまた、永遠に罪を背負うことに違いない。だが、生きることもまた、様々なことと向き合わねばならない。
難しいと思う。私のような者には、余計に難しいと思う。
「それでもいいのです。辛くとも、構わないのです」
言葉は、自分で思うよりずっとしっかりと響いた。それが何だかこそばゆかった。
「もう一度、生きようと思います。貴方がくれた世界で、彼の拓いた世界で、もう一度」
あの日、貴方が私を拾い上げてくれて、あの日私は貴方の命を散らして、そしてあの日、私は彼に出会った。貴方は、彼は、私を掬い上げた。
恐れはない。その世界には、彼がいる。
「もう、行きます」
一護に会いたいと思った。どこにいるだろう。でもどこでも良かった。この世界のどこかに、彼がいる―その確信があれば、他には何もいらなかった。
地面には、季節外れの白い花が咲いていた。
それから私は、吹き渡る風に誘われて空を見上げる。
空は青かった。突き抜けるように、青かった。
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待雪草 花言葉は希望
2012/06/10