「ネームーッ!」

 豊満な胸に押しつぶされるように後ろから抱きつかれて、ネムは前のめりに倒れかけた。

「松本副隊長…」
「乱菊って呼びなさいって言ってるでしょ!それより、あんた、バレンタインの準備、してある?」


Sweet Valentine


「バレンタイン、ですか」

 ネムの頭の中にも、その単語はきっちりと納まってはいた。バレンタインデー。現世の風習は流行りものの好きな死神たちによって、瀞霊廷にもいつしか浸透していた。現世のそれに倣って、愛を伝える者、義理と称して上司や部下に配る者。配るものはチョコレートだったり、酒だったりと、それもバリエーション豊かなもので、もう現世のそれと遜色ないだろう。
 しかし、準備も何も、ネムの中にはその程度の基本情報しかなく、背中から離れた乱菊に、きょとんと首を傾げるくらいしかできなかった。

「やっぱりね。何も考えてなかったでしょ?」

 そう言われても、何と返していいか分からずにいると、乱菊の瞳がキラリと輝いた。

「決まりね。一緒に現世まで買い物、行くわよ!」
「あの、現世、ですか?」
「そ。一人で行ったって楽しくないのよ。勇音は忙しいって言うし、七緒は手作りで頑張るって言うし。そういうわけで、あんた、涅隊長から休みもらってらっしゃい」

 その言葉は、半分事実、半分嘘だった。現世での買い物は、確かに一人ではつまらない。だが、強引に誘えば勇音あたりを連れて行くこともできる。だが、乱菊はバレンタインの買い物はネムを連れて行く、と決めていた。
 そもそもネムは、現世に買い物など行かないから、バレンタインなど、その方面のことには疎いし、何より、たまには息抜きをした方がいい、というのが乱菊の考えだ。ついでにアクセサリーショップにでも寄れば、気に入るものがあるかもしれない。それは、きっといい息抜きになるだろう。

(それに…)

 それに、今年はきっと渡したい相手がいる、と彼女は踏んでいた。それは、わざわざこんな男選ばなくても、と思うほど無愛想な男だが、彼女が選んでしまったのだから仕方がない。

「ね、いいでしょ?」

 半ば強引に、しかし、きっちりと計画を練った上での乱菊に、ネムが敵うはずもなく―


「手作りしたっていいんだけど、義理にそこまでするのもあれだし、ラッピングとか考えると、やっぱり現世で買った方がよさそうなのよね」

 バレンタインを前にしたデパートは、思った以上に人でいっぱいだった。ネムは、それにも驚いたのだが、それ以上に、その人ごみよりもにぎやかなバレンタインのチョコレート売り場に圧倒されているようだった。

「いろいろ、ありますね」
「でしょ?高いのから安いのまでそろうから便利なのよね。いろいろ買っておきましょう、ホワイトデーは三倍返しなんだから。修兵とか恋次にも渡しておくとお徳よ」

 ぱちりと片目をつぶってみせた乱菊に、ネムは疑問符を頭上に掲げた。バレンタインのことは大体頭に入っているが、三倍返しなどという単語はネムの頭の中にはない。
 とりあえず、乱菊に倣って、落ち着いた色調のパッケージのものを幾つか選んでいく。渡す相手は、さすがに乱菊ほどではないが、隊や技局の面々のことを考えると案外多い。人波に負けないように、ネムも必死で手を伸ばした。


「そういえば、ネム、あんた本命はどうするの」

 一通りチョコレートを買い終えて、喫茶店に入ると、乱菊はさり気なく切り出した。

「え…」
「だから、本命よ、本命。それが一番大事でしょうが」

 チョコレートを物色するネムを見ていて、彼女が本命を買っていないことはすぐに分かった。そんなわけで、自分のことは棚に上げて詰問すると、ネムは困ったように俯いてしまう。
 ネムはネムで、悩んではいたのだ。乱菊の言う「本命」とは、一番世話になっている相手、くらいにしか彼女は捉えていなかったが、その相手がいけない。甘いものなど、絶対に口にしないことを、ネムはよく知っていた。

「…甘いものは、嫌いでしょうし」

 俯いたまま、ぽつんと言うと、乱菊は軽く溜め息をつく。

「誰だか知らないけど、あんたからもらえるっていうのに、贅沢なヤツね」

 何も知らない風を装ってそう言うが、心中穏やかではない。そんな贅沢を言えば、めった斬りにしてやる、と思うくらいには穏やかではない。


 それから、喫茶店を後にした二人は、乱菊おすすめの洋菓子店やショコラティエのいる店などを回ったのだが(本当に、どこから情報を得てくるのだろう、とネムは何度も不思議に思った)、結局ネムは「本命」を買うことができず、さすがの乱菊も諦めて、二人でアクセサリーショップに向かった。店舗に入るその時、ネムは隣の店をちらりと覗いた。

「どうしたの?」
「え…あ、いえ」

 覗き見た、雑然とした店内。視線はすぐ明るいアクセサリーたちに戻される。


 乱菊はネムの胸元にいくつもシルバーのネックレスを当てる。しかし、ネムはどこか上の空で、されるがままに受け入れているだけだった。終ぞ一言も話さなかったので、乱菊は仕方ないとばかりに、手にした品を買うと、その袋をネムに渡した。

「たまにこういうの、着けてみなさいよ」
「…あ、ありがとうございます」

 それでもネムはどこか上の空で店を出た。外に出ると、ネムは、吸い寄せられるようにふらふらと隣の店舗に入っていく。

「ちょっと、どうしたのよ、ネム!」

 乱菊の止める言葉も聞かずに、彼女が入っていったのは―


「失礼します」
「どうぞ」

 返答は、何故だかいつもより不機嫌な色を含んでいて、扉に手をかけながら、ネムは少しだけ首を傾げた。
 室内に入ると、その原因は容易に知れた。
 散乱する、色とりどりのパッケージ。目が痛くなるような赤から、落ち着いた茶色、高級そうな黒…。それらが全て、バレンタインの贈り物なのだろう。そういうことが、いかにも嫌いそうな彼のこと、届けられるそれらが、かもし出す機嫌の悪さの原因だろう。
 その光景に、ネムはひっそりと溜め息をついた。懐に忍ばせた箱の形を、無意識に指でなぞる。

「書類か?なら適当に置いてってくれ」

 いつも以上にぶっきらぼうに阿近は言ったが、ネムは僅かに逡巡した後、甘い香りのする包みが山積された、彼の座る机に近づいた。

「どうした?」

 書類を携えていないことに気がついて問うと、彼女は躊躇いがちに言った。

「バレンタイン、ですね」
「なんだ、お嬢ちゃんまで踊らされてるのか?」

 ネムの一言に、彼はげんなりとした様子で紫煙を吐き出す。

「まあ、自分で持ってきただけ、合格だがな」

 阿近はモテる。表立って騒がれるようなことはないが(そんなことをすれば、きっと彼はその相手を嬉々として実験台にしようとするだろう)、それなりに顔のいい彼は、案外女性死神から人気があった。
かと言って、相手は技局の鬼。そう易々と声をかける訳にもいかない。そこに、バレンタインというイベントである。これを利用しない乙女はいまい。しかし、彼女たちにも、直接彼の元にプレゼントを届けようなどという度胸も、それはそれでなかったのである。結局、大量のチョコレートたちは、技局の前に置かれ、壺府の手で阿近の元に届けられた。壺府など、今日一日で、彼の部屋と技局の入り口を何度も往復させられただけでも災難なのに、世間話のつもりで「こんなにもらえるなんて、うらやましいですね」なんて言ってしまったものだから、それこそ針の筵に立たされる様な状況に陥ってしまった。
そんな経緯があって、阿近の元には大量のチョコレートが届けられたが、直接持ってきたのは、ネムが初めてだった。

「一応、言っておくが、食わねえからな」

 甘いものは嫌いだ、と呟くように煙とともに吐き出すと、ネムは困ったように頷いた。

「存じています。チョコレートではなくて…」

 呟いて、懐から明るい橙の小箱を取り出す。それに、彼は驚いたように目を見開いた。

「煙草…か?」
「はい。受け取っていただけますか」

 こてんと首を傾げて差し出されてそれに、阿近は自然と手を伸ばす。
 なんのラッピングもされていない、むき出しの箱。過剰なまでに装飾され、散乱する包みに比べて、ずっと簡素だったが、手への馴染みはどれより良い。
 ネムが、アクセサリーショップの隣で見つけたのは、どこにでもあるような、小さな煙草屋だった。雑然とした店内。初めて入るそこで、しどろもどろに、状況を説明すると、店主は何も言わずに微笑んで、橙の箱をすすめてきた。煙草のことなど、分かりはしなかったが、甘いものを渡すよりはずっといい気がして、彼女はそれを購入した。
初めから彼女のプレゼントを無碍に扱うことなど考えてはいなかったが、それにしてもそれは都合の良すぎるものに思われて、思わず彼は口端を上げた。

「煙草、これが最後の一本でな。壺府にでも買いに行かせようかと思ってたとこなんだ」
「そう、でしたか」

 ほっとして息をつく。部屋に入ったときは、受け取ってさえもらえないかと思っていたネムだ。彼は、そんな彼女の心中を知ってか知らずか、慣れた手つきで煙草を一本取り出した。

「吸っても?」

 短く聞くと、彼女もまた、小さく頷いた。
 吸っていた煙草を灰皿に押し付け、懐からライターを取り出して、取り出したそれに火を点ける。煙を少し吸い込んで、彼は思わず眉を上げた。

「こりゃあ…」

 呟いて、それから彼は不適に笑んだ。

「チョコレートなんざより、ずっといいじゃねーか」

 そう言って、もう一度煙を吸うと、彼は机の向かいでその姿を見つめていたネムの細腕を掴んだ。

「っ…!?」

 前屈みになって近づいたネムの唇に、自然と己のそれを重ねる。

「な?」

 唇を離して、悪童のように笑った彼の言うとおり、彼の唇からは、チョコレートと煙草の煙が混ざったような、甘い香りがした。いつの間にか、室内は菓子でも焼いているような、甘い香りで満たされている。

「おもしれえ。…ホワイトデー、楽しみにしとけよ」

 そう微笑んで言われて、ネムは何と返していいかも分からずに、口元に手を当てて、部屋から飛び出した。


 どうしてか、熱の集まる、甘い、甘い、唇をおさえて―


It is sweeter than chocolate




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あ、甘っ!ということで、バレンタイン阿ネムです。「食わねぇ」なんて嘘ばっかり!ネムちゃんからもらったものは、チョコレートだろうがなんだろうが根性で食べるくせに!げんなりしたのも全部演技です、照れ隠しです。うちの阿近さんはネムちゃんにとっても甘い。最早仕様。話自体も甘いです。阿ネム特有の薄暗さがない。それはそれで物足りない。ていうかネムちゃんが乙女。もう少しシビアに行きたいものです。
乱菊さんは恋する乙女の味方です(笑)ネムちゃんは自覚ゼロですが。

2011/2/14