私の中の空白
窓の向こうに鳥が見えた。嵌め殺しの窓は開かない。開かない窓に向かって、俺は白い煙を吐き出した。
「どこかに」
いるのか、という言葉は続かなかった。
どこかにいるのだろうか。
どこにもいないでほしい。
もう手が届かないのだと、分からせてほしい。
ひどく理不尽な感情たちが、俺の中に巣食う空白を塗り潰した。
*
煙草を吸う、という発想に至った時の自分、というものが、今でもよく分からない。ただ、ガキでも吸える、甘い、むせ返るような煙は、未だにこの手に挟まれている。もっとマシな方法もあったはずなのに、俺は突然訪れた喪失に妙な方法で対応しようとした。
それが煙草だった。
「なあ、俺は、どうすりゃよかったんだ」
問い掛けに応える女はいない。
彼女は、上司と言うにはあまりにも近くて、だけれど友人と言うにはあまりにも遠い女だった。女、か。猿柿ひよ里という死神は、俺の中に初めて現れた女だった。女性と言うにはあまりにも幼かったような気もしたけれど、彼女は間違いなく女だった。
そうして喪失は突然に訪れた。それはあまりにも呆気なかった。
理由も、処罰も、それどころか所在すら、何一つ理解できる要素がないまま、ひよ里という存在は失われた。
あの日のことはよく覚えている。よく?そうはいえども断片的な記憶ではあった。手の中の煙草の箱を軽く放る。落ちてきたそれは、相変わらず甘い香りのする煙草で、あの日、俺は気が付いたらこれを買っていた。むせたのをよく覚えている。馬鹿みたいに息苦しくて、涙が浮いた。その息苦しさが、煙草の煙のせいだと思うことにした。
そのためだったのだろうな、と今なら思う。彼女のいない空白を、息苦しさを、違う要素に転嫁しようとした結果が、煙草だったのだろう。その発想はひどく幼くて、幼いなりに考えたことを、今でも実行している自分がいることに、妙な感慨を覚えた。
「どこにもいないなら、それでいい」
或いは、どこかにいるなら、それでいい。
また会いたいなんて、そんなにも我儘なことは言わない。
そう、思っていたのに。
「阿近、換気くらいしたらどうなの」
ひどい煙よ、と、思考から俺を引き上げるような女の声がする。
「采絵、声くらい掛けろ」
「掛けたわよ。あなた、全然聞いてないじゃない」
「何だよ」
「……無意識の回避行動かしらね」
そう言いながら彼女は書類を俺の机に積み上げる。見たくもない書類。
「いい加減目を通してくれるかしら、阿近三席」
敢えて席官であることを主張してきた采絵に、俺は多少の苛立ちを覚える。
「あなた、今、すっごく格好悪いわよ」
そう言って、彼女は俺の手許から煙草を一本抜く。火なんざ貸してやらねえ、と思ったが、詠唱破棄の鬼道で勝手に付けやがった。つくづく可愛くない女だと思う。
「あら、煙通り甘いのね」
お菓子みたい、と彼女は軽く笑って、それから煙を二、三度吐いた。
「いるんでしょ、そこに」
煙草で指した書類の束は、仮面の軍勢についての詳細の書類だった。
「あなたのことも、彼女は知っているんでしょう?」
「知らないのと同じだろ」
百年だぞ、と俺は小さく続けた。
「あなたが知ろうとしないように?彼女もそうだと言うの?」
何も知らないのに?と可笑しげに彼女は続けた。
知ろうとしない、か。それに俺はひどく凪いだ気持ちで嗤った。
「引き返せないだろ、知っちまったら」
「阿近、あなたやっぱり格好悪いわ」
采絵はふふふと笑った。笑って煙草を灰皿に押し付ける。
「知ろうとしないと、何も始まらないわよ」
それとも始まることが怖いのかしらね、と彼女は一つしかない俺の研究室の扉を開けた。煙が廊下に流れる。だけれど、そんなことはどうだって良かった。
「な…?」
彼女と、すれ違うようにこの部屋に入ってくる女が、いた。
*
「ひよ…里…?」
「ひっどい部屋やな。掃除くらいしたらどうや」
采絵とすれ違うように一つしかない扉から入ってきたのは、俺の中に巣食う空白の全てだった。
「なんで…?」
声は掠れた。ひどく現実味がない。ひよ里は何も変わっていなかった。あの日のまま、時が止まっているようだった。
「なんで?やと?マユリに用事あったさかい、ついでに顔見に来てやった上司に対する態度がそれかい!相変わらず可愛いないやっちゃな!」
叫ぶように言って、ひよ里はバンっと扉を閉める。煙はだいぶ流れていって、部屋に煙たさは残っていない。残っていたのは甘い香りだけだった。
「でかくなったのは図体だけか?もうちょいマシな男になってるかと思ったらこれかい。大体、」
彼女は元々饒舌だったけれど、今のそれは、輪を掛けて饒舌に思われた。それに俺は、昔のように口を挟むことが出来ない。互いに、距離を掴みかねているような、そんな気がした。
「お前は相っ変わらずこないな部屋に籠って研究三昧かいな。ほんま、」
「ひよ里」
そこで、俺は初めて彼女の言葉を遮った。
本当は、彼女がしゃべり続けるのを聴いていたかった。昔と変わらぬ音でしゃべり続ける彼女の声を。
「ひよ里」
空白が、煙草よりももっとずっと真っ当な方法で塗り潰されていく。彼女という存在が、ここにいた。
「ひよ里」
「なんや」
応えた彼女の目は、きっぱりとしていた。避け続けた俺は、本当に格好が悪い。
「生きて、いたんだな」
「まあな」
一切視線を逸らすことなく、彼女はこちらを見ていた。そうだというのに、俺の方は視界が滲んで、その視線を受け止め切れなかった。
「生きて…」
「泣くな」
この小さく、そうして大きすぎる自らの空白に、縋りつけたら、と思う。
知りたくなかった。この感情の行方を。
だけれど本当は。
知っていた。知るまでもなかった。
その空白は、いつも貴女によって呼び起こされる。
ひよ里が生きている、という現実を、俺は知りたくなかった。何という傲慢か、と思う。思うけれど、もう会えないと思う方がずっと楽だった。そうだというのに過ぎ去る日々は、積み重なる度に俺に痛みを齎した。
「お前がいなくて」
「ああ」
「どこにも、いなくて」
次はどうすればいいのかと考えてきた。貴女の空白を、次はどうやって埋めようかと。
「探しもしなかった俺を笑うか」
「笑わんわ、ド阿呆」
気が付いたら俺は泣いていた。ボロボロ泣いて、そうして彼女の小さな体を抱きしめていた。彼女は何も言わなかった。
「すまない、ひよ里。すまない」
「お前が謝ることないやろ」
呆れたように、それでいて安堵したように彼女は腕の中で静かに言った。
空白に彼女の存在がしみ込んでくる。
その空白を埋めることが出来たのは、どうしたって彼女だけだった。
「阿近」
静かな声がした。俺の肩越しに、彼女は窓の向こうを見ていた。
窓の向こうのその景色は、懐かしいだろうか。―――懐かしくあってほしかった。懐かしいままであってほしかった。
「ごめんな」
お前が謝ることじゃない、と彼女のように言えたなら、俺はもうちょっと格好良かったのだろうと思う。
褪せることのない唯一人の貴女が、俺の中の空白を静かに埋めた。
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私の中に巣食う空白
2014/03/06