壺府が研究室に入ると、甘い香りが漂ってきた。水を含んだ砂糖の香りと、人工なのか天然なのかは分からないが、果実の香り。それに、彼が吸うには甘すぎるような、そうだとしても煙草には違いない香りが折り重なって、阿近の研究室は、想像以上に複雑怪奇な香りで満たされていた。


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「何作ってるんんですか?」

 社交辞令的に訊いたは良いものの、手元を見れば一目瞭然だ。阿近は、研究の隙を見て飴を作っているらしかった。

「阿近さんて、案外器用ですよね。それで何て言うか、世間に流されやすい」
「あ?」
「だから、ホワイトデーに飴なんて、彼氏の意外な一面!みたいな狙ってるんですかっていうことです」
「……お前は少し建前を覚えたほうがいい」

 若干眉間のしわを増やして、だが阿近は手元で鍋に香料か何かの入った壜を傾けている。

「それに、器用も何もあるか。水飴と、砂糖と、水を煮立てたら出来るんだぞ?そんなの、検体をホルマリン漬けにするより相当楽だ」
「阿近さんが言うと、身も蓋もないですね、ほんとに」

 そう言って、壺府はもう山積みにされている飴にふと手を伸ばす。手元の鍋のことを考えると、まだ作ろうというのか。これを包装すれば、ホワイトデーのお返しには十分なるだろうし、というかそもそも、彼がホワイトデーに甲斐甲斐しく、しかも、手作りのお返しを作ろうなどと思っていなかった壺府としては、それだけで驚きだった。

「誰が食べていいなんて言った」
「いいじゃないですか、一個くらい。ていうかですよ、バレンタインにあんなに機嫌が悪かったのに、どういう風の吹き回しですか?」

 見咎められて、壺府はちょっと肩を竦めると、手を戻す。そうだ。バレンタインはあんなにチョコレートをもらって、あんなに機嫌が悪かったのに、何だというのだろう?巻き込まれた身としては、ちょっと腹の立つことだった。

「配るの手伝わせたりしないでくださいよぉ」

 恨みがましく、暗にバレンタインで配送係にされたことをちらつかせて言うが、一方の阿近は、面倒そうに、だが、意味が分からないというような顔をした。

「なんだよ?」
「だから!バレンタインみたいなのは御免だって話です!自分の分くらい自分でやってくださいよ。それで機嫌悪くなったりされたら迷惑です!渡してくれた女性の所属隊なんて控えてませんからね!」

 壺府は、独りでヒートアップする。それに阿近は、やっと勘違いを覚って息をついた。

「配るも何も、一人だからな」

 さらりとそう言って、彼は、煮詰めた鍋を冷やし始めた。だが、その一言に、壺府は目を見開く。

「ええ!?じゃあまさか、これ全部副隊長の分なんですか!?」
「あ?」
「これ全部…!?」

 もう出来上がっている飴の山を指差して、壺府はちょっと青ざめた。如何に菓子の好きな彼でも青ざめる量だった。

「案外甘いもん好きだからな」

 だが阿近は、大して気にも留めずに飴を引く作業に取り掛かっている。案外器用だと思ったが、本当に器用だ、と、壺府は他人事のように考えた。わざわざ飴引きのいる飴にするほど凝り性の男の末路など、あまり良いものはない気がする。大量生産された飴が、もしかしたらその末路を示しているのかもしれなかった。

「いや…何て言うか、いくら涅副隊長でもこの愛は受け止めきれないかと…」

 控え目に言ってみる。パチンと音がして、伸ばされた飴が切り分けられた。

「……作りすぎたとは思っている」

 飴の山ではなく、なぜか手元に目を落として、阿近は低い声で言った。

「……?」
「例えば、今作って切ったこの飴なんぞは、作りすぎの典型的な例だろう」

 ここまできても、なお理系な発言をして、それから、阿近は等間隔に切り揃えた飴を摘む。

「という訳で、この飴は全部お前にやろう」

 いつもの仏頂面で差し出された飴に、壺府は一瞬言葉を失った。

「何ですか!それ!?」
「分からん。何か入った」
「何かって…あ!それ!?さっき入れたの香料じゃないんですか!?」

 飴は、今まで作られていたのが、べっこう色をしていたのに比して、玉虫色という、食べ物にあるまじき色をしていて、明らかに、普通に食べられそうな代物ではなかった。

「ほら、やると言ってるんだ。ありがたく食ってみろ」
「嫌ですよ!そんな得体の知れないもの!」
「まあ聞け。科学というのは失敗によってしか進歩しない。その尊い犠牲になれるなんて、そんな素晴らしいことはないぞ」
「適当な理由つけないでください!しかも、犠牲になること前提なんですか!?」
「上司命令だ。食え」
「職権乱用しないでください!」

 ギャーギャー言う壺府の首根っこを掴んで、その得体の知れない飴を食べさせようとするが、壺府とて無抵抗でいる訳にはいかない。全力でばたついていた時だった。

「失礼します。書類を」
「嫌です!」
「待て!お前っ」
「お持ちしまし…?」


「は…?」「ウソだろ…?」


 幸か不幸か、壺府が全力でばたついた結果として、阿近の手から離れた得体の知れない飴は、書類を持ってきたことを告げる件の死神、涅ネムの口の中に綺麗に収まった。

「はっ、吐き出せ!今すぐ!」
「副隊長すみません!死なないでください、お願いします!吐き出してください!それなんかヤバい飴なんです!」

 吐き出せと言う前に、生死を心配するあたりが、阿近の日頃の行いを示しているというものである。だが、それに反してネムはきょとんと首を傾げた。
 何ということはない。ただの甘い飴である。というようなことを告げようとして、ネムは口中で飴を転がしながら、口を開く。

「……」
「どうした?いいから吐き出せ!」
「そうです副隊長!」

 焦る二人に、何か伝えようとネムは口を開くのだが、何故か、声が出ない。

「何やってる!いいから吐き出せ!」

 終いには研究室の入口まで阿近が走っていって、無理やり口からその飴を抜き取った。半分くらいの大きさになってしまったそれに、ネムは何か謝ろうと口を開くのだが、やはり、声が空気を震わせることはなかった。

「副隊長?どこか痛くありませんか?変な感じしませんか?」

 壺府の必死の問い掛けに、ネムはやはり応じようとするのだが、何故か声が出ない。

「おい、大丈夫か?」

 阿近にも心配そうに顔をのぞきこまれたが、どうしようもなく、はくはくと口を動かすと、その異変に、やっと二人も気がついたらしく、ぎょっとしてしまう。

「まさか…声、出ないのか…?」

 こくこくとネムに肯かれて、阿近はすぐさま先程香料と思って入れた瓶のラベルを確認する。その手から、焦った壺府が瓶をひったくる。そもそも香料と思っていた男が読んでも、多分何の役にも立たないのだ。

「阿近さん!これ!この野草!声帯に影響が出るってこないだ発表になったやつ!ああもう、なんてこったよ!他人の研究にてんで興味がないバカはこういう失敗を犯すんだ!」

 壺府曰く、それは、香料として発表されてから一週間ほどで、技術開発局の何某が、危険性に気づいて、商業利用が止められた代物らしかった。
 それを聞いていたネムは、そんなことかと言うようにうなずいた。それから、持ってきた書類に、取り出したペンで走り書きを施す。

『毒性が低く、効果の持続時間も短い』

 さらさらと書かれたのは、そんな内容だった。阿近に引き替え、ネムはその発表をきちんと把握しているらしかった。

「そうは言っても…実際に声が出ない訳でしょう?一大事ですよ!のど痛くないですか?」

 壺府の問い掛けに、ネムは首を振る。痛くもなければ、違和感もない。本当に声が出ないだけだった。

「とりあえず…局長に報告すべきですかね…死を覚悟して…?」

 本当に青ざめて言った壺府に、さすがの阿近も、わずかに顔をひきつらせる。こんなこと知れたら、ただでは済まないだろう。まさか愛娘の声が出ないなんて、どう言い繕っても、この後ネムは書類を持ってマユリのところに行くのは確実なのだから、逃れようがない。

『今日は、黒腔に行っていらっしゃいます』

 二人を見て、ネムはさらさとペンを走らせる。

『効果は三十分というところでしょう』

「いや、副隊長。こんなもの作った阿近さんを局長に突き出すべきです。甘やかすとロクなことがありません!」

 壺府の主張に、ネムは困ったように首を傾げる。

「お前が素直に食ってりゃ、こんなことにはならなかった」
「この期に及んで人のせいにするんですか!?外道!」

 きゃんきゃんと非難するが、壺府のそれはそれで正論だった。だが、被害者であるネムに、訴えを起こす気がなさそうなのが一番の問題と言えば問題だった。

「いいんですか?こういうところで追い詰めておかないと調子に乗るんですよ?だって、副隊長、黙ってたからってこれを使って阿近さんを脅したりできないでしょう?損ですよ」
「なんてこと言うんだお前は。さっきも言ったが建前を覚えろと言っているだろう」

 そこで壺府は、ハッとしたように手元の書類を見る。

「ああ!もう!変なこと巻き込まれた!阿近さん、これにハンコ押してしてください。もう行かないと叱られる!……はい、そこです。普通のハンコでいいですよ!…副隊長、お大事にしてくださいね!」

 ばたばたと騒ぐように言って、壺府は研究室を出て行った。




 出て行った壺府と同じく、書類を差し出すネムに、呆れたように「ダメだ」と言って、書類とペンを取り上げ、備え付けのソファーに適当なスペースを作る。

「座ってろ。横になるか?」

 手を引いてネムを座らせて聞くと、彼女は困惑したように首を振る。声が出ないだけなのだ、休む必要などない、とでも言いたげに。

「その…悪かった」

 謝罪に、ネムは今度こそ困ったように、それでいてどこか不安げに視線を投げた。手元のペンと書類は取り上げられてしまって、謝ることなんてないということを伝えたくても、その手段がなかった。その状況は、思った以上にもどかしい。声。声一つで多くのことが解決する。一言言えば伝わることが、声が出なくては伝わらない。

「何て言うかなあ…まあ、言い訳なんだが、悪意があって作ってたワケじゃない。その…」

 そこで彼は言いよどんだ。それから、山積みにされた、こちらは上手く出来ているであろう飴に視線を流す。

「普通の飴を作っていてな。今日は、ホワイトデー…だったか。それで、まあ…お前の分なんだが」

 歯切れ悪くそう言って、阿近は一つ手に取ると、ネムの口許にそれを運ぶ。

「のど飴じゃないが、これはちょっと清涼感のある薬草で風味づけしてある。少しはいいかもしれないから、なめてみろ」

 それに、ネムは様々なことが伝わらないもどかしさの半面、嬉しくもなって、雛鳥のように口を開けた。そこに阿近が飴を入れてやる。
 なるほど、さっぱりした風味と、嫌味でない砂糖の甘さは、口の中で転がしていても、売っている飴のように、甘ったるくて途中で飽きてしまうことはなさそうだった。
 美味しい、というのを伝えようと、ネムは彼に微笑みかける。だけれどやはり、「美味しい」とその一言が言えないのはもどかしかった。

「美味いか?」

 微笑みに問い掛けると、ネムはこくこくと肯く。それに、阿近は珍しく破顔した。
 ネムは、いろいろなことが言いたくなる。自分のために、こんなふうに飴を作ってくれたのか、とか、先ほど誤って食べた飴だって、今までに感じたことのない新しい香りだったのだから、不手際があったとはいえわざわざ準備してくれたのだろう、とか、言葉は頭の中をぐるぐると回る。だが、声は出ない。
 そんなネムの心中を知らずに、阿近はわらわらと立ち上がり、窓のない研究室で、唯一外と繋がる扉を開ける。どうしたのだろうというふうに、ネムがそちらに顔をめぐらせると、彼は苦笑した。

「煙草の煙は、のどに良くない」

 なるほど、研究室には煙草の煙が充満していた。だがその香りはどこか甘い。飴のせいだけではないだろう。ネムは、ふと思い出したように、阿近の机の灰皿と、横に置かれた煙草の箱に目をやった。
 橙色の箱と、白の吸い殻でいっぱいになった灰皿に、1本紛れた明るい茶色の吸い殻。
 少し考えてみると、その甘い匂いは、ちょうど一か月前に自分が渡したものの香りだ、とネムは思い至る。
 捨てずに吸っていてくれたことが嬉しくて微笑むと、彼は決まり悪そうに視線を逸らした。

「甘い菓子は食わねえが、煙草は吸うぜ」

 なくなってしまうのがもったいなくて、日に1本も吸っていない、というのは、ここはひとつ、秘密にしておきたいところだ、と彼は考える。

 ネムは、心中で、その煙草を吸って欲しいと思った。一ヶ月前のように。だが、のどに悪いと言う限り、彼は吸わないだろう。
 様々な言葉が脳裡を過るのに、そのどれも、音にはならない。

「声、聴ききてえなあ」

 そんな彼女の心中を察したようにも思えることを言って、阿近はネムの黒髪に触れた。
 彼女は、普段から饒舌ではない。だが、その声が、思うよりもずっと多くのことを彼に告げていた。―表情を読むのも、阿近は上手い。人が笑っていると気がつかない微笑みにも気がつくし、彼女の好奇心にも敏い。だが、そういうことではなくて、彼女の存在を感じるのに、彼は声を欲する。欲していたのだと、気がついた。
 何かを見て笑った時も、阿近の手元の煙草に気を取られた時も、傷が痛む時も、疲れている時も、全部分かる。だが、それを、彼女の口から聞きたい。察して、それで、こちらが声をかければ、ネムは驚いたように目を見開く(長い付き合いだが、隠している感情を読まれる時ほど彼女が驚くことはなかった)。察することはできる。だが、それを彼女の口から聞いたことは、多くなかった。
 声が聴けないという状況で、それは実感となって表れた。
 この少女の『望み』というもの。それを聴きたいと思った。

「お前は、ほんとに周りのこと気にしてばっかだし、こんなことになっても文句ひとつ言わねえし。少しくらい、我侭言ってもいいんだぜ」

 そう言って、阿近はネムの髪をくしゃりと撫でる。それから、少しだけ決まり悪そうに言葉を躊躇って、付け加える。

「特に俺には。寄り掛かって、我侭言って、甘えろ。お前がそういうの下手なの知ってるし、俺も、その…愛想がないからな。何とも言えねえが、少しは、な?」

 ネムの髪を撫でる手つきは、いつになく優しかった。

「やっぱり、声聴きてえなあ。我侭も聴きたいし、文句も聴きたいし、して欲しいことも聴きたいけどよ。やっぱり、いつもみたいに声が聴きたい」

 ぽつぽつと言う。

「俺はお前の声が好きだ」

 意識して言った訳ではなく、こぼれ落ちるように阿近は言った。それに気がついて、一拍ののち、阿近はあたふたしだした。

「ち、がう、からな!好きっていうのはお前の声で…だっ、だが、お前が嫌いだなんてことは絶対にない!絶対に!」

 その様子に、先ほどの一言に頬を赤らめたネムは、一転して笑いだした。微笑みから始まって、それは―


「ふふ」


 空気を震わせた。

「笑うな!…ん?声」
「ふふふ」

 なお笑うネムだったが、それははっきりと音になっている。

「治ったのか!?」
「あ…そ、そのようです…ね?」

 ネムはネムで、笑ってしまった申し訳なさというか、様々な羞恥でそのことに気がつかなかったのだが、ネムの口からは、確かに声が出ていた。

「良かった…」

 心底安堵したように阿近は言って、立ったままでソファに座るネムの頭を抱き寄せた。

「ご心配をおかけしました」

 その一言に阿近の眉間のしわが増えた。

「言っただろう、今回の件は俺が悪い。文句を言ってもいいし、我侭を言ってもいい。気を遣いすぎだ」

 申し訳ありません、と言おうとして、ネムはそれを躊躇った。それはまた怒られそうな言葉だ。
 代わりに、彼女は言葉を探す。
 言葉が出なかった時は、あんなにももどかしかったのに、こうして話せるようになっても、どう言ったらいいのか、分からなくなってしまうところがあった。
 だが、思いついたようにネムは彼の胸板に顔を埋めたまま、言った。


「煙草を吸っていただけませんか」


 彼の困惑が手に取るように分かる。だが、彼が己の声が好きだと言うように、ネムは、彼が煙草を吸う姿が好きだったから―




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ホワイトデー阿ネム。去年のバレンタイン阿ネムと繋がっています。
ベタですみません!
甘々を目指しました。バレンタインホワイトデーくらいはね、甘いカップルになってもらいたいものです。それにしても阿近さん、うっかりさんですね!
2012/3/14