初恋が破れた日のことを、俺は今もよく覚えている。
「二度目やんな」
縁側で俺は大きく伸びをした。二度目だから、悲しくない。
「むしろ嬉しいねんな」
嬉しい、か。不思議な感情だと思う。ああ、俺はどこかでこの日を予見していた。もしかしたら期待していたのかもしれない。
徒花に実は生らぬ
『じゃああては、柔造の嫁さんになったる』
その言葉を聞いた時、ひどくびっくりしたのを覚えている。何でもない日だった。まだ小学生かそこらの年齢で、ままごと遊びの途中に蝮の言ったそれに、兄は笑っていて、だから反論は俺がするんだと思った。
『蛇に柔兄の嫁さんになんかなれるかい』
そう言ったら、蝮はむっとした顔をして俺をにらんんだ。その時だ。俺の初恋が破れたのはその時だった。
『黙りよし、金造』
そのむっとした顔、というのが、苛立ちだけではなかったのだ。寂しそうな、悲しそうな、そんないろいろな感情が綯交ぜになった顔で俺を制した蝮に、俺は、ああ、彼女は本当に兄のことが好きなのだなと何故か覚ってしまった。
そうして同時に、彼女がそのような感情を向ける相手は決して俺ではなくて俺の兄なのだ、という事実を、俺はすんなりと受け入れていた。なんて当たり前のことなんだろうと思った。当たり前のことなのに、俺はどうしてか傷ついていた。
『蝮じゃ無理や!』
そうして俺はそんな捨て台詞を吐いてその場から駆け出した。そのあと、柔兄と蝮がどんな話をしていたか、だから俺は知らない。
蝮は柔兄が好きなんや、と思った。思ってそれから、だから俺は蝮のことが好きやったんやと思った。ああ、柔兄のことを好きでいてくれる蝮のことが、好きやったんや。
今でも思う。なんて酷い巡り合わせなんだろう、と。俺は蝮が好きやった。だけれどそれは、柔兄が好きな蝮を好いてるんや。ずっと近くにいてくれる、という確信が持てる蝮が好きやったんや。
だからやっぱり、それは初恋だけれど初恋じゃない。俺の初恋は姉弟に抱く感情だった。置いていかないでほしかった。だから彼女が柔兄に対してよそよそしい態度を取るようになった高校時代から、俺はかなり蝮に反発していた。柔兄にも反発していたような気がする。二人が仲良くしていてくれないと、俺はどうしてか落ち着かなかった。
その懸念は、見事に的中したのだけれど。動物的な勘だったのかもしれない。蝮と柔兄の溝が、結局不浄王の復活に結びついていたように思う。
などという小難しい考えを珍しくもこね回していたら、ふと縁側で横になる俺の上に影が差した。
「金造」
「ん?」
凛とした声に俺はなんでもないことのように応えた。そうしたら、彼女はすとんと俺の横に腰を下ろした。
「なあ」
「なに?」
短い言葉の応酬に、だけれど彼女は―――蝮は、文句も言わずに俺の髪を撫でた。まるで子供にするようなそれに、俺は反発するでもなく従っていた。
「なあ、やっぱりあてには無理かな」
「柔兄の嫁か」
「そうや」
静かに言った蝮を困らせたい訳ではなくて、あの日の言葉を撤回したくて、だけれど俺はその問い掛けになんと応えるのが正解なのか、今でも迷っている。迷っているけれど、俺は二人が一緒にいてほしいとずっと願ってきた。願ってきたから答えは一つだった。
「無理や、ないよ」
「ほうか」
それでも出てきた言葉は頼りない。
ああ、その場所に立つことは俺には無理や。立とうとも思わない。けれど、幼いあの日に彼女を愛していたのは兄だけではないのだと、今日この時に、お前を愛しているのは兄だけではないのだと、愛の形は違うかもしれないけれど、俺は―――
「あんたが納得してくれんとなあ、こう、安心できんのや」
彼女の細い指が俺の髪を梳いた。好きだよ、誰よりも。だけれど俺の好きは、柔兄の好きとは違うんや。
「蝮、幸せになってな」
ああ、たった一言で良かったんや。
幸せになってくれたら。兄と姉が幸せになってくれたら、多分俺はそれだけで十分だった。
幸福を祈る。
誰よりも深く、貴女の幸福を祈る。
その幸福の裡に、俺は住んでいる。
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2015/12/03