決して、安い買い物ではない。
少し前に店頭で採寸をして、柔造が選んだものに近い型のところには、カタログに店員が印をつけてくれた。
雨音、或いは蒼天
めくったページには、様々なドレスが並んでいたが、「写真でなんぞ、似合うのが分かるか!」という柔造の一言に、蝮以上に目を輝かせたのは妹たちだった。
「お申!買うてくれるんやな?」
「しゃあないからお店に予約の電話したるわ!そんな気の利いたことできやせんやろし!」
そうして姉が止める間もなく、二人は予め用意していたであろう店に電話をかけ出した。
「姉様、何が似合うやろ?」
「せやね。ちゃんと選ばんといけんね」
「楽しみやわー、ドレス、ドレス!」
「……言うとくけど、お前らに買うてやるワケとちゃうからな?」
「分かってるわ!」
「一言多いわ!」
ぴしゃりと言われて、未来の妹たちを前に柔造は口を噤む。
「錦、青、あんな?」
「なに?」
「どないしたん、姉様?」
予約が終わり、嬉々としてカタログをながめる作業に戻った二人に、蝮は小さく声を掛けた。
「ドレスかて、安いものやないし、私はレンタルでええと思てるの」
その言葉に、一番に反応したのは、妹たちではなかった。
「お前こそ、一言余計やな」
「柔造…」
困惑した声音の彼女に、彼は渋面を作ってみせた。するとさらに困ったように言葉を継ごうとする蝮に、柔造は作りものの苦い顔から、いつもの笑顔を見せた。
「今更、気ィ遣うとこか、それ?」
「やけど…」
「任しといたらええねん。ちゅーか、俺の顔もたまには立てろや。ここで断ったら錦と青に袋叩きにされるわ」
「お申!」
二人の声が重なるが、そこに真意がないのは分かっているというもので、蝮はさらに困ってしまう。顔を立てる、なんていうために買うのではないのが分かっているから、余計に困るのだ。そんな彼女をよそに、妹たちはカタログを畳んで席を立つ。
「ええな、お申!土曜の二時やから、一時半には迎えに来てや」
「忘れたら許さんからな!」
二人がぱたぱたと部屋を出ていくと、蝮は大きく息をつく。
「なんや、不満か?」
「そんなんと、違うわ」
「やったらありがたく受けとっとき」
優しい手つきで髪を撫でて言った未来の夫の胸板を、蝮は軽くたたいた。
「あんたはほんまに…いやな男になったな」
「なんやそれ」
「結婚の話かて、外堀固めて、決まったら今度は妹に取り入って」
「……今更、やな」
さらさらと指通りの良い髪をすくって、その華奢な身体を引き寄せると、蝮はもう一度大きく息をつき、だが、微笑んで彼の胸に額を預ける。
「今更、やなあ」
それは最早、言っても言わなくても変わらないことだ。
「いまさらいまさら。任しとき。お前は相変わらず気ぃ遣いすぎや。ちゅーか、こんくらいしか、贅沢させてやれんしな」
それで結局、ドレスを決めて、採寸したのがもう三ヶ月近くも前だった。
「流されすぎ…やろか?」
決して安い買い物ではない。だが柔造は「これくらいしか贅沢させてやれん」と、逆に困ったようにそんなことを口にした。
昨年の夏、唐突すぎるほど唐突に、結婚を迫られた時、蝮は必死になってそれを断った。断ったのは困惑であり、同時に、罰を受ける身にはあまりにも都合が良すぎる気がしたからだ。だが、彼は一歩も引かずに、あの手この手で彼女を落としにかかった。本人どころか、それこそ、親兄弟をも絡め取る勢いで。
初めから、断れるはずがなかった、と、今になれば思う。
(やって…)
その先を口にすることを、彼女はいつも躊躇う。言葉にすれば、空虚なものになってしまう気がして。或いは、それが嘘になってしまう気がして。
だが、本当に、罰を受ける身には、有り余る僥倖だったと、今更のように彼女はよく思いもする。
それでも結局、うなずくまで半年近くを費やし、それから諸々の手筈が整ったのは年度を跨ぐ頃だった。…そこからのスピードには、さすがの柔造も舌を巻いたのだが。
蝮が結婚を了承したことが分かるやいなや、結納の席が設けられ、気が付いたら「甲斐性のない柔造の代わりに」、婚約指輪も用意されていた(金造の話によれば、主犯は多分母、ちなみに代金は毎月給料から天引きされるらしく、柔造の顔をひきつらせた)。
ウェディングドレスや式場のことで盛り上がる親たちに、たじろぎながらも蝮が、「仏式ですやろ」と言ってみたが、披露宴はどうするつもりだ!と切り返されてやっぱり黙ることになる。最後は柔造が、式場もドレスもこっちで決める、と声を張り上げて事なき…というかなんというかを得たのだが。
それで、結納を済ませた三月末から、未来の若夫婦は仕事とは違う忙しさの中に投げ込まれたのである。それも、そろそろ終わりに近付いている。―あともう少しで、式と披露宴だった。
そんな時期になって、未来の義弟に誘われた買い物は、梅雨時には珍しくよく晴れた日だった。
「今日は金造様がなんでも買うたるえ」
開口一番そう言われて、蝮は眉をひそめた。
「なんやねん、その顔」
「……薄給のお申が何言うとんのや、と思った」
「思っても口にすなっ!この蛇がっ!」
いつもの調子で言った金造に、蝮は笑ってしまう。
「はいはい。せやったら金造様に何か買うてもらおうか」
「初めからそう言うてればええねん」
まだむすっとしているが、この弟分の考えることなど分からない彼女ではなくて、今日は何でも買ってやる、なんて豪語した割に、多分、蝮には敵わないのだろう、と思ったら、金造の頬も次第に緩んでしまう。
―彼にとって、未来の姉は、今までもずっと姉だった。これからも、その関係が変わらないことを、梅雨の晴れ間の大路で、金造は独り祈る。本当は、本当は…不浄王の一件で彼女が裏切った時、本当に怖かった。この大事な存在を守れなかった、そして、この存在を失ってしまうのではないか―様々な感情が交錯して、それは純粋な恐怖になった。悪魔も、不浄王すら、恐れることはなかったのに。
だから、柔造が彼女を娶ると言った時、安堵したのも事実だ。反発もあった。―形式的な、と言うべきか、いや、本心から、こんな蛇女!と思ったのも事実だが、一方で、やっぱり兄は、この姉を愛していて、救いたいと思っていて、そうして、こうやって救い上げるのだ、と思ったら、それは安堵になった。
「どないした?」
「いや、はよ行こ」
感慨に耽る金造に声を掛けると、彼は笑って歩き出す。―笑顔が、よく似ている、と、昔から思っていたことを彼女は少しだけ思い出した。
「蝮って、自分の魅力分かってへんのな!美脚で勝負やろ!やって胸…」
「どういう意味や」
「なんでもないです」
金造を黙らせたところで出たブティックで買ったのはロングスカート。金造がしきりにすすめたのはどれもこれも露出が多すぎて、彼女は全部却下した。
金造の手には、今買ったもののほか、いくつか紙袋が下げられていた。払おうとするたびに彼は先に財布を取り出して、蝮はいろいろな意味で心配になる。だから、というのもあって、少し静かな通りの喫茶店に向かう。
「今日はいろいろ買ってもろたさかい、お茶くらいはおごるわ」
そう言うと、金造は決まり悪そうに眉を下げた。
「いや…言いにくいんやけど…その、誕生日プレゼント渡す暇あらへんかったから、なんか買ったろて思っただけやねんけど…。柔兄もそうやけどお前もほら、いろいろ忙しかったし、俺も時間取れへんかったし」
その言葉に、蝮はぷっと吹き出した。
「そないなこと考える殊勝なところもあったんかい」
「ま、姉様、やからな」
そう言われると、蝮の頬にサッと朱がのぼる。
それを見て微笑み、喫茶店の扉に手を掛けたその時だった。
「あれ?」
「どないしたん?」
「いや、あれ、柔兄と違うか?」
そう言われてふと振り返ると、それは確かに柔造だった。何やら白く小さな紙袋を持ってどこかから出てきたところのようだ。
「柔兄ー!」
今日は金曜日。金造は非番だったが、兄は仕事のはずだから、余計に不思議に思って声を掛けたが、彼はその呼びかけに気が付かなかった。
「どないしたんやろ?」
蝮も不思議そうに遠ざかる背中に視線を向けて呟く。柔造は、早足で通りを歩いていく。大事そうに持たれた紙袋が、やけに脳裏に残った。
『from 志摩金造
柔兄、やっぱし今日は一日詰所におったって。非番やないのは俺も知っとったし
俺の見間違いっぽい。悪い
それより、今日買ったったキャミ、今度の俺のライブに来てこいよ
あと、明日ドレスのフィッティングやから、忘れんなって柔兄から。写メ撮って送れよ!
じゃ』
帰宅してから蝮が届いたメールを確認すると、金造からだった。多分、本人に訊いてみたのだろう。喫茶店でも気にしていた彼女に気を遣った、というのもあるし、金造自身も気になっていたらしい。柔造は非番ではないし、まさか見間違うなどとは思いもしなかったから。それに、二人が入った喫茶店がある通りは、買い物をしたたくさん店がある通りからみると、横道のようなものである。静かで、それなりの店しかない―それこそ若造の金造が買えるようなものはない。同時に、男が入るような通りでもない。つまりは、彼女が連れて行ってコーヒーやら何やらをおごった喫茶店は、金造にしてみれば少し敷居が高かった。そんな通りは、金造はもちろんだが兄である柔造にも縁がないはずで、二人して首をひねったのだった。
そのメールをじっと読んで、蝮は心が波打つのを感じた。だって、見間違うはずがないのだ。あれは確かに柔造だった。金造は見間違いだったと言うが、そんなこと、あるはずがない。
ぽつりぽつりと晴れていたはずの空から落ちた滴が窓を濡らす。そういえば、梅雨だったのだと、彼女はぼんやり考えた。多分、明日は雨だろう。
(別に…疑う、とかやなくて…)
自己弁解、と言うべきか。だが、この漣を打つような感覚を感じるのは、これが初めてではなかった。どうして、わざわざ嘘をつくのか、なんて、彼を詰ることは出来ない。そういうことではなくて、いや、もしかしたら、そういう感情も含まれているのかも知れないが、そういうことではなくて―
(なんで、あて、なんやろ、って―)
甘やかされているのを知っていながら、それでもその問は彼女を追い込む。それは、彼が思う存分自分を甘やかす時にも感じるものだった。同時に、僅かな彼の揺れにも感じるという、矛盾に満ちた感覚だった。
どうして、己なのか。やはり、僧正の跡目としての責任感?幼馴染だから憐れに思って?だったら―
「私の、この気持は、どうしたらええの?この―」
口にしようとして、その直前で彼女はいつものように口を閉ざす。だけれど、口にはしなかったのに、独りの部屋には、残響のようにその感情が充満して、それから霧散した。
フィッティングルームでドレスを着せられている間中、蝮は上の空だった…というより、柔造と合流して、店に着いてからずっと、上の空だった。聞かれることには適宜返事をするが、心ここにあらず、というような体だ。
店舗の一角に設けられた休憩用のテーブルで、出されたコーヒーを飲んでいた柔造も、そんな蝮の様子に少しばかり焦りというか、困惑を覚える。
「お待たせいたしました」
「……っ!」
真っ白なドレスに身を包んだ蝮が、手を引かれて出てきて、柔造は沈みかけていた意識を浮上させられた。
「採寸通りですので、あとはアクセサリーなどを合わせたいのですが、お疲れかと思いますので、少し休憩しましょう」
そう言って、女性の店員は蝮を椅子に座らせる。
「何かお飲み物をお持ちしましょうか?」
「い、いえ」
「でしたらこちらを。披露宴でお使いとのことでしたので会場の雰囲気に合わせまして、ご用意しましたのでご覧ください。ご新郎様とのバランスも考えたいので、後ほどタキシードもお持ちします」
手渡されたのはティアラやイヤリングなどの小物類がまとめられた冊子だ。それから彼女は一礼して奥に行ってしまう。小物の準備があるのだろう。
「……」
「な…に…?」
あまりにじっと見つめられるので、たどたどしく応じると、柔造はため息をついた。
「綺麗やな」
「え…?」
「そらな、試着も見たけど、ここまでやと思わんかった…って、ちゃうからな。普段が綺麗やないとか、そういうことやなしに…」
そう言って伸ばされた手に、蝮はびくりと反応する。その大げさな反応に、柔造は内心首を傾げた。
「蝮?」
「あ…すま…ん」
そう言って、伸ばされた手を取ろうとして彼女は失敗する。
「蝮?どうし…た…?」
空を切った手は、僅かに震えながら薄化粧の施された目許を覆った。その指の隙間から、ぽたり、と滴が落ちるのを見て、柔造は思わず動きを止める。
「ごめん…ごめん…」
「どないした、蝮?」
「分からんくて…どうしたらいいのか…分からんくて…」
ずっと渦巻いていた様々な感情が爆ぜる。
「どうして、あてやったんやろて、思うの。責任感とか、憐みとか、そんなん言うたら、贅沢やって知ってる。やけど、どうしても考えてまう。だって…、どうしたら、ええの?私は、私は…!」
贅沢、というよりも、不安というのが近いのかもしれない。分かっている。解っている。彼が、そんな責任感や憐みで接している訳ではないことなど、こうやって一年近く接していれば―いや、幼い時からずっと共に過ごしたその時間が、否応なく教えてくれる。
不安は、彼の持つ感情ではないのだと気づいている。気づいているのに、口にするのが怖かった。形にするのが怖かった。それは徐々に大きくなってしまって、幸せの中に身を投じるごとに、その一方で濁ってしまう感情を知っていた。
言葉にしないのに、その感情は思考を占領して、彼女は幸せと不安の間を行き来する。そうして、真っ白なドレスを着た自分の姿を鏡で見た時に、感情の中の全ては形なって、伸ばされた彼の手は、その感情を容易く表出させる。
もう、言わずにはいられないと思った。ずっと前から、言わなければならない気もしていた。その一方で、言ってはならない気もしていた。だけれど、止めどなく流れる感情は、もう止まってくれない。
「あては、柔造が好き…好きやから…!」
言ってしまえば、こんなに簡単なことなのに、その一言がひどく遠かった。ひどく遠くて、ひどく怖かった。
「蝮」
「あ…、ごめ…ん」
「アホやなあ。謝るとこと違うわ」
彼は優しく笑って、それから目許を覆う左手に手を伸ばす。今度は怯えることもなくその手を預けると、彼は軽く蝮の目許を拭って、それから僅かに苦笑した。
「ほんまは、今渡すもんと違うけど。あー、それに、あれやな、なんちゅーか…怒られそ。うん、一応、それとなーくリサーチはしとったんよ?カタログ見せたり、婚約指輪のサイズ聞いたり」
「?」
「うん、まあ、普通は相談して決めるもんなんやけど、婚約指輪の件があったから、ちょい見栄張りたかったとか、いろいろあんねん!」
言い繕うようにぶつぶつ言い続けながらも、彼は蝮の左手をしっかりつかんだまま、バッグに手を伸ばす。取り出した小さな箱。
大切な宝物を扱うように、彼はゆっくりと彼女の指をたどる。
「柔造…?…え…?」
ひんやりとした感覚に、蝮は目を見張る―それは、光を帯びた小さな環。
「結婚指輪!」
直截に言って、彼はもう一つの指環を己の指に嵌める。
「昨日、やっとできたん。受け取りに行ったらまんまとお前と金造に見つかってたし」
「あんた…昨日…」
「あー、まあな。秘密でやってたんに、ばれたらお笑いやろ?今日の帰りにでも見せよ思てたんやけど」
「ドレスかて!安い買い物やないのに、そないに…そないに…」
甘やかさんで、とか、気遣わないで、というような言葉は、どうしても口にすることができなかった。その、彼の想いを、知っているから。
それから彼は、ゆっくり彼女の指先に口付ける。指輪をはめた薬指が、少しくすぐったい。
「何遍言うても、お前が不安に思うのは、分かる気がするわ。やから俺は、そん度に言えばいいんやなて、最近は思います。何遍でも、いつでも」
そう言うと、蝮は言葉を失ったように呆然と彼を見つめ返す。柔造は今度は柔らかな口付けを、唇に落として、それから優しく笑った。
「大好きやから。誰より愛しとるから。結婚しよう」
(ああ―)
眼前で微笑む男に、蝮は感嘆に似た感情をもらす。
(こんなに幸せで、ええのかな、って―)
怖かったのは、濁っていってしまったのは、多分、この幸せに身を投じることに、畏れを抱いていたからなのだと、今になって初めて気が付いたような気がした。その一方で、そんなこと分かっていた気もした。
「幸せにする。やからお前も、その…」
どこか気まり悪そうに、彼は視線を泳がせ、それから、照れたように言った。
「俺んことも、幸せにしてくれんか?」
「あ…て、で、ええの?幸せにできる?」
「お前がいい。一緒に幸せになろ」
形にすることを恐れた感情は、いとも容易く融解して、それからあたたかに彼女を包んだ。
何度でも言うと、彼が言ったから。不安になる時には、きっといつだって彼が隣にいるだろうから。
頬を伝った一条の滴が、薬指の輝きに落ちる。
窓の外では、柔らかな雨が降っていた。彼女が好きだという柔らかな雨に目をやって、二人は微笑んだ。
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June bride意識したのです。大安狙っていました。そして6月は蝮さんの誕生月だし!
2012/6/15
2012/7/31 pixivより移動