「明陀で生きるんは、辛いなあ」
彼女の枕辺で、彼はにこりと嗤う。
「せやけど、明陀を抜けて、生きてく道なんて、ないんや」
甘やかな毒
「柔造!」
「坊!お帰りでしたか。ああ、せやった、連休やった。ほんま、この商売は休みが関係あらへんから。廉造と子猫も帰りましたか?」
「ああ。二人とも実家に戻った。夏のことがあったさかい、ただの連休やけど帰してもろてん…」
「そうでしたか。ほんで、坊はなんでこちらに?」
こちら、というのは、出張所のことだった。見れば、大きな荷物を抱えたままで、旅館には寄らず、電車から降りて真っ直ぐこちらに来たようだ。
「その…蝮が…」
言い差して、勝呂は言葉を濁す。
「お会いになりますか?」
それに、柔造は人好きのする笑顔でもって応じて、「どうぞ」と鍵を差し出した。それは、出張所の座敷牢の鍵だった。
「蝮!」
「竜士さま…」
「お前、そないにやつれて…!」
困ったような顔をした柔造を後ろに従えて、蝮の繋がれた座敷牢に勝呂が入った。蝮は明らかに狼狽して、それから、冷たい床に手をつく。
「あては…あてはええんです。竜士さまに、なんてことを…」
「ええなんてことある訳ないやろ!顔上げ!八百造と蟒は何を考えとるんや!俺がおとんに言うて…」
「ええんです。あては、ここにおらんと…また…また和尚さまや竜士さまに…!明陀に…!」
「もうええんや蝮!誰もお前のことを責めたりせん!」
「竜士…さ…」
蝮の唇が震える。何か音を紡ごうとしたその時だった。
「ああ、坊。いけませんわ。牢、閉めな」
時間ですわ、とひどく慌てたふうに柔造に言われて、勝呂は肩を叩かれる。
「蝮も、眠らんと魔障が良くなりませんで。なあ、蝮」
勝呂の肩越しに、彼は蝮に視線を投げる。その途端に、蝮の目から、あらゆる色彩が退いていくのを、勝呂は見やって、驚きのまま声を掛けようとした。
「竜士さま。どうぞ、もうここへは…」
だがそれは、彼女自身の声によって阻まれた。
「どないしよ、蝮。坊は優しいなあ。お前のこと許してくれはるて」
「う…そ…や…竜士さまが、あてを許すはずないんや」
「せやなあ。俺が坊やったら許さへん。せやけど坊は、心ん中でどないに思てても、いずれ座主になる方やからなァ。広い心でお前を許したら、みんな坊のこと、尊敬するやろなァ。裏切り者を許して、改心させたて」
「っ……!」
その言葉一つ一つに、蝮は絶望の淵に立たされる。己が慈しんだ大事な明陀の跡取りは、もう本心から己をかえりみることはないのだと、突き付けられた。先程心配したような顔をしたのも、声を掛けたのも、わざわざ牢まで来たのも、全て、全て、明陀の上に立つ者としての振る舞いでしかないのだと。
「期待しとった?」
坊なら許してくれはるて―と囁くと、蝮はたちまちその場に崩れ落ちた。裏切ったのはお前だと、散々吹き込まれ続けてきた彼女にとって、勝呂その人の行動や言葉などよりも、彼の言葉はすんなりと彼女の中に入り込む―そう吹き込み続けたのが、彼だとしても。
「坊が座主にならはったら、きっと無理矢理でも牢から出されるやろなあ。お前を信用してなんおらんのに」
「っ…」
「どうやって坊にお仕えする?どないしよ?やっぱり明陀で生きるんは難しいかなあ。せやけど、明陀を棄てたら、お前は、助けてくれはった和尚さまのことも、坊のことも、戦った明陀のみんなのことも、ほんまの意味で裏切ることになる」
そんなことが出来ないのを、彼は知っていてそう言うのだ。彼女は、誰よりも明陀を愛するがゆえに、裏切ったことを知りながら、彼はそう言うのだ。
「どない…しよ…怖い…誰、も…あてのこと…」
かたかたと震える彼女に、彼はいつもの通り嗤い掛ける―笑顔だと、彼女が信じる顔で。
「『誰も』なんてこと、あらへんよ」
「金造!おらんのか!?」
どかどかと詰所に入ってきた勝呂に、金造は弾かれたように立ち上がる。
「坊!?どないしたんです?なんで出張所におるん?」
「それはええ!蝮、どないしたんや!お前、何か知らんのか」
それに、金造ははっとして勝呂の肩をつかむ。
「坊…っ!気づかはったんか!?」
「当たり前やろ!何があったんや、なんで…あないな」
言い掛けて、勝呂は口を噤んだ。彼女の姿は、最早言葉で言い尽くせはしないように思われた。
あんな、あんな。まるで、何一つ、誰ひとり、信じないというような目をするなんて。
明陀を裏切った時でさえ、彼女にはきっと信念があった。それが明確に『裏切り』と分かってからも、彼女は言ったではないか、「助けて」と。その時の彼女の目には、確かに光が宿っていた。自分を信じていたのだと、勝呂は思っていた。それが、数ヵ月も経たずに、あんな、何も信じない、何の光も宿らない目になるなど、彼には信じられなかった。
「分からんのや。おとんも、蟒さんも、もう牢から出す言うてるのに、蝮が頑なに出ようとせんのです。和尚さまも、説得にいらしたんですけど、一向に…柔兄が言わんと、飯も食わんくらいなんです…」
苦虫を噛み潰したような顔で、金造はそう告げた。それに、勝呂は、はたと目を見開く。
「柔造…?」
「柔兄の言うことはどうにか聞くさかい、最近は柔兄に丸投げなんやけど…」
「……お前、最近蝮に会うたか?」
「会うてません。柔兄が、今はあかんて…」
「せやったら、なんで俺は会わしたんや」
「…は?」
ならばどうして、あんな状態の蝮に自分を引き合わせたのか。幼馴染の金造さえ、会わせないというのに、彼女の裏切りの根幹に繋がる自分を、なぜわざわざ会わせたのか。
勝呂は、目の奥でちらちらと何かが燃えるのを見た気がした。
己に鍵を渡した時に、彼は確かに、嗤っていたではないか―
「蝮姉さん?起きてます?見舞いに来ましたえ」
「…!」
廉造は、牢の格子に手を掛けて、中にいるだろう蝮に声を掛ける。廊下が暗くて牢の中がよく見えなかったが、こうして覗きこめば、確かにそこに彼女がいて、廉造はほっと息をつく。
「まだこないなとこに閉じ込められてはるん?ええやんなあ、もう解決したんやから」
「ごめんなさい!」
「え?」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!許して、堪忍して」
「蝮姉さん!?どないしてん?」
牢の中で身を折って叫ぶように言う彼女に、何がどうしてこんなことになったのか分からない廉造は、取り乱して何とか蝮をなだめようと試みるが、そもそも牢の鍵を持っていないのだから、入ることもできない。
「俺です、廉造ですわ。志摩の!弟の…」
暗いうえに格子越しでは、もしかして自分が誰かも、彼女は判っていないのではないかと思って、何度も呼びかけるが、彼女が落ち着く気配はない。
「もう…もう…!」
「廉造!何してんのや!」
怒声が、廊下の奥から響いて、人が走り込んでくる気配がする。
「うわっ、柔兄!ちゃうねん、蝮姉さんの見舞いに来てん!さっき柔兄が教えてくれたんやん、ここにおるって!」
現れたのは柔造だった。何もしていないと、手を振って、弁明すると、すぐに退くように言われて、彼が牢の鍵を開ける。
「蝮?大丈夫か」
「ごめんなさい、もう、堪忍し…て」
「どないしてん、蝮姉さん」
心配そうに牢に入ろうとした廉造に、蝮は後ずさって、柔造も、入るなと言うように手を伸ばして彼を遮った。
「蝮、最近調子悪いねん。不浄王復活させてもうたこと、思い出してこないなる。ほんまに、なんちゅーもん背負わせてくれたんや」
「医工騎士呼んでこよか!?」
「大丈夫や。少ししたら収まるさかい。お前は戻り」
「え!大丈夫なん?」
「静かにしとったら収まるさかい」
「せやったら、戻るけど…なんかすんません、蝮姉さん。お大事にしてくださいね?」
納得したような、しないような、そんな複雑な表情で言って、廉造は牢を後にした。
「廉造に何か言われたんか?」
その言葉に、蝮は小さく首を振る。
「何にも言われてへんのに、そないに怖いんか?」
彼女はそれに、かたかたと震えだして、柔造の袖を引いた。
「そやなあ、お前の思う通りかもしれん。おんなじ僧正血統から、こないな裏切り者が出たんや。廉造かて、見舞いに来たなんいうんは嘘かもしれんなあ。廉造もほんまは、俺が来んかったら―」
「やめて…お願い…やめて…」
囁くような声で彼女は懇願する。蝮は柔造の腕に縋って、ぽろぽろと涙をこぼした。それが恐怖によるものなのか、それとももっと別のものなのか、彼女にはもう分からない。
「大丈夫や、蝮。怖がらせて悪かった」
柔造は、腕にしがみつく彼女の手を取って、ゆっくりと抱きしめる。蝮は、その胸に掻き抱かれて、初めて呼吸が出来たかのように錯覚する。―彼の弟がそこにいた時は、本当に、生きた心地がしなかったのだと。この腕の中にいる時だけが、息のできる時なのだと。そう思うように。
「廉造は、俺と一緒の時しか来ないようにするさかい。大丈夫や、連休なんてすぐ終わる」
「…志摩…は…?」
「志摩やないやろ、蝮?」
子供に教え諭すように、頭を撫でて優しく言うと、彼女は甘えるように、だがどこか怖々と彼の肩口に頭を預けて言った。
「柔…造は?」
「俺?」
何のことだか分からないというように、柔造は彼女の髪を梳いて、先を促す。
「柔造は…あてを…あてを」
殺さん?
まるで、愛を囁くように、彼女は訊く。
まるで、愛を乞うように、彼女は言う。
「当たり前やろ。お前は俺が必ず守る」
その耳元で、彼は愛を告げる。
世界が壊れる音がした。
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なんていうか…すみませんでした!
2012/2/20
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