「熱ないか?」
「ん」
シャワーを自分の手に当てて、それから彼女の足先に少しだけ掛けて、了承を得る。適温。俺にすれば少しぬるいが、熱い湯が、蝮は苦手らしかった。
まとめられた長い髪をほどいて、彼女の銀糸のような髪にシャワーを掛ける。びくりと僅かに肩が震えるのもいつものことだ。いつまでたっても慣れない―そう思うと、なんだか可笑しかった。
歩
俺が蝮との結婚を宣言してから、事は思った以上に滑らかに進んだ。蝮の身体は、確実に快方に向かい、帰宅を許された蝮を、俺は自宅に連れ帰った。もちろん、宝生の家にも顔は出させたし、まだ結納も何も済んでいないが、とりあえず結婚の了承は得たようなものだったし、第一、宝生の家には男手が足りない。蝮を『支える』というのは、比喩表現ではなく、女の多い宝生家では難しいことだった。失った右目は、蝮から様々な感覚を奪い、彼女は簡単なことで転んだり、躓いたりする。青と錦ではもちろん支えきれないし、蟒様は二人以上に忙しい。それならいっそのこと、志摩の家に来てしまった方がいいという話でまとまったのが3ヶ月ほど前。不浄王の一件から、季節は過ぎ、空気は澄んで冷たくなった。ある意味新婚生活が進んでいるのである。
進んだのは、良い事ばかりではないが。
蝮の称号は剥奪され、除團処分も下った。蝮が祓魔師を名乗ることはもうない。明陀の中に遺恨が全くなかった訳でもない。ただ単純に僧正血統の跡目が裏切った、というだけで事は済まなかった。それは、明陀という一つの組織全体に関わる秘密を暴いてしまった。
未だ、様々な思惑が宝生蝮という存在を介して、しかしながら彼女の存在を無視して交錯する。それは、言うなれば、彼女への罰なのかもしれない。だが、正直に言えば、宝生の家に置いていたら、その思惑に彼女がさらされるのではないかと思うと、俺はそれが怖くて仕方なかった。志摩の家ならば、いくらかましだと思う。果たして多くの思惑や目論見は、主軸たる彼女の存在を抜きにした、空洞のものと相成った。
ザアーっと音を立てて、お湯が彼女の髪を濡らす。
志摩家での同居が始まって、一日。部屋は、変なことはしないという生殺しの誓約の下、俺との相部屋となった。だが、さすがに風呂まで付いていくことは出来ないと思って、とりあえず風呂場まで案内したはいいが、問題はそこからだった。どたどたと不穏な音がして、それから、バッタンと派手な音がした。焦って取って返すと、脱衣所で倒れたらしい蝮の姿。
「おい!蝮!?どないした」
「すまん…ちょっと」
彼女を助け起こしてそれから気がつく。というのも、狭い脱衣所に問題があった。慣れない環境、つかめない距離感、雑然と洗濯機やら洗剤やら、シャンプーの詰め替えやらが置かれたそこ。転ぶな、と言う方が無理というものだった。
浴室は、さらに狭くて床が濡れている。転びでもしたら大変だ。それで俺は青ざめて言った。
「蝮、風呂は一緒に入ろう」
ばちんと彼女の平手が飛んできたのは、言うまでもない。
それでも結局、危険なことに変わりはないので、俺はTシャツから濡れてもいいように作務衣に着替えて、蝮は厳重すぎるほど厳重に身体にタオルを巻いて、俺が手を引いて風呂に入ることにした。一度湯船につけてしまえば、俺は擦りガラスの扉の向こうで待機である。生殺しである。
「蝮ー、湯加減はー?」
退屈で、声を掛けてみると、彼女からの返答は少し上擦っていた。
「ちょお、熱い…かも」
「お前、相変わらずぬるいの好きやんなあ。のぼせんように適当に水足しよ」
「ええって。あんたも金造も熱いの好きやんか」
「あとで追い炊きしとくさかい」
浴室に響く彼女の声は、どこかぽってりとしていて、色っぽい。考えてはダメだ、負けだ、ダメだ…と考えていると、ザバンと彼女が湯船から上がる音がした。
「……この辺の使ってもええか?」
「なに?」
「シャンプーとか」
「おん。適当に使い」
だが、その後から、彼女の動く気配がしなくなる。
「蝮…?」
心配になって声を掛けると、擦りガラスの向こうで蝮はあたふたと手を振った。
「すまん、なんや、どれがどれかさっぱり分からんくて…」
それもそうか。一般的なせっけんやボディソープのほかにも、家族の分だけ使うものがあるこの家の風呂場は、よくよく考えたらかなりごちゃごちゃしているはずだ。そのうち整理しておかなくては。
「それ…に…」
「ん?」
「なんや…こう、距離感つかめんくて…」
ガラスの向こうで、細い彼女の手が宙を掻くのがぼんやり見えた。
「……入ってええか?」
逡巡して言うと、彼女は少しばかり躊躇ったのちに、了承の言葉を投げた。
入ったところで、邪なことを出来る状態ではなかったので、とりあえず蝮を座らせて、髪を洗うところから始めることにした。この分だと、身体はいいとして、髪を洗うのは俺が担当した方がよさそうだ。
「どれがええ?」
訊いてみると、蝮はこてんと首を傾げて言った。
「柔造が使ってるのでいいえ」
(可愛すぎやろうがァァァ!)
心の中の叫び声は、もちろん心の中で留めておいた。
「ほい、終わり」
髪を洗って、それから身体を洗って(もちろん目は逸らした)、もう一度湯船にはつけずに、脱衣所に彼女を連れていく。長風呂は厳禁、と言われているから。傷は、まだ完全に治った訳ではなく、体が温まり、血流がよくなれば、傷口が開いて出血しかねない。
身体を拭いて、服を着ながら、蝮は俺の作務衣の裾を見る。
「濡れたやろ…すまん」
そう言われると、確かに作務衣はところどころ濡れていて、ぺたりと肌に張り付いた。
「ええって。あー、やけど、ちょっと冷たいかも分からん。俺、このまま風呂入るわ。おい、金造、おらんのか!?」
大声を出すと、蝮はびくりとする。時を待たずに「うっさいわ!」と、俺の声に勝るとも劣らない大声が返ってきた。
「なんやねん、うっさいわ」
スパンと引き戸が開いて、面倒そうな顔をした金造が現れる。
「って、蝮!何してん?何なん、柔兄やっぱり変態なん?変なことせんって約束して相部屋にこぎつけてすぐこれかい。お風呂プレイとかほんま……何でもないデス」
蝮と俺の冷ややかな視線にさらされて、金造は口を閉ざす。それから、事の次第を掻い摘んで説明した。
「ちゅうことで、ちょい俺の部屋まで連れてったってや」
「分かった。ついでやから髪乾かしたるえ」
金造が蝮の手を引いて脱衣所から出たのを確認して、俺は作務衣を脱いで洗濯機に放り込む。
「やっぱ、ちょっとぬるいな」
追い炊きボタンを押して、少し経つと、熱いお湯が流れてくる。湯船でぐぐっと伸びをして、くつろごうとしたその時だった。
ばたばたと足音がして、脱衣所に人が駆けこんでくる。
「誰やー?」
気の抜けた声を出すと、浴室の扉がガラッと開けられた。
「やい、あほんだら」
「なんや、金造かいな」
「あんた、蝮の髪に何しおった」
「は?」
「蝮の髪や!」
「何…て?洗っただけやけど」
憤然とした面持ちの金造に、意味が分からずそう返すと、金造はますます眉間のしわを増やす。
「自分、まさか、いつも通りに、ちゅうか、自分とおんなじく洗ったんちゃうよな?」
「あ、それ?蝮に言われてん。『柔造が使ってるのでいいえ』ってな!どや、むっちゃ可愛ええやろ?」
上機嫌で言うと、俺の頭に洗面器がヒットした。
「上がれ、今すぐ上がれ。俺は今から蝮と風呂に入る」
それから待つこと数十分、追い出された風呂場から、蝮と金造が返ってくる。金造は相変わらず俺を睨みつけて、蝮を座らせると、何やら壜から金の液体を出して彼女の髪につけた。
「なんやねん」
不機嫌丸出しでそう言うと、金造はもう一度こちらに鋭い視線を投げて、それから、はあっと息をついた。蝮はというと、困ったように縮こまっている。
「やからな、金造。私が言うたんよ、柔造が使っとるのとおんなじでええって」
「アホやん!それでせっけんで洗うとか、どんだけアホやねん!おかげで蝮の髪がきっしきしになりよった!」
金造は、叫ぶように言うと、ドライヤーの電源を入れて彼女の髪に温風を当てる。
「ほんまにアホやな。せっけんで洗って放置とか、どんだけや。せめてせっけん用のリンスがある時にしてほしいわ!ちゅうか蝮の髪むっちゃ細いねんぞ?それをあんだけきしきしのごわごわにしよってからに…!」
「金造、ええって言うとるやろ」
困ったように振り返ろうとした蝮を「動くと上手く乾かせへん!」と一つ窘めて、金造はドライヤーを小刻みに動かす。
「せっけんて、あかんのか?」
「少なくとも、昨日まで普通のシャンプー使ってたやつが急に使うもんと違う」
少しばかり落ち着いた金造に言われて、俺はぽかんとしてしまう。普段せっけんで洗っている俺にはよく分からない話だ。
「リンスかなんか使って中和せんと、ごわごわになるから、せっけんとか、せっけん素材のシャンプーを使うんやったら初心者は要注意」
当然のことみたいに言って、金造はさらに続ける。
「それを、普通にせっけんで洗いよったから、蝮の髪はきしきしのごわごわ。中和用のリンスあらへんから、しゃーないんで、水で流して、ダメージヘア用のシャンプーとトリートメントとコンディショナーで入念に手入れしました。ついでに椿油もつけました」
ドライヤーの風にあおられて、彼女の長く細い髪が舞う。
「無神経な柔兄の髪とは別もんなんです。モテる割に気がつかんもんやな、あほんだら」
今日、というか、この一時間で、このド阿呆の弟の口から「アホ」という言葉を何度聞いただろう。苛立たしいことこの上ない。
「蝮、しゃーないから明日から俺の使い。ダメージヘア用やから、合わへんかもしれんけど、今週末買いに行こか」
髪を乾かし終わったのか、丁寧にブラッシングして、彼は器用に蝮の長い髪をまとめた。
「お前、家で何使ってた?」
「あるのでええよ」
「買った方がええて」
押し問答の末、その週の土曜に、3人でドラッグストアに行く算段が取り付けられた。
それがもう3ヶ月前。あの時のようなへまは俺もやらかさなくなり、それでも髪を洗うのは俺の仕事で、蝮の、糸のように美しい髪は今日も水に濡れている。
彼女のために選ばれたシャンプーとコンディショナーは、今ではすっかり我が家の浴室に馴染んでいた。ポンプを押すと、感触が軽い。そろそろなくなるのだろう。
「シャンプーの詰め替え、あるか?」
「……多分ないな。もしかして、あらへん?」
少し考えてから、蝮は困ったように声を上げた。それは、シャンプーがないことに困るというよりは、迷惑を掛けてしまったというような声音で、俺は苦笑する。気にしなくてもいいことを、彼女はまだ気にしていた。だから結局、シャンプーの詰め替えも彼女が買っているし、そこはそれなりの値段のものしか買わない。
「今日はええけど。明日な、俺休みなん。買いに行こか」
「分かった」
こくりと肯いて言った彼女の柔らかな髪に指を通して、わしゃわしゃと泡で髪を洗いながら、俺は声を掛けた。
「あんな」
「なに?」
「俺は、シャンプーとかあんまり分からへんのやけど、ちょい金造にお勧めのもんとかないか聞いてみるわ。お前、せっかく綺麗な髪しとるんやから、ちょっと良いもん使ったらええと、さすがの俺も思います」
買ってやるさかい、と付け足すと、蝮は本当に困ったように、焦ったように振り返った。
「あかん」
(言うと思った…)
「あ…私な、ただでさえ髪、長くて…シャンプーとか、すぐ無うなるやろ?あんまし経済的やないから、ずっと思ってたんやけど、髪、切ろう、思てて…」
これも予想の範囲内の発言。俺は、その言葉を遮るように、シャワーで泡を流す。
「お前は、今更何を遠慮しとんのや」
「当たり前やろ!?居候の身でそないなとこにお金かけてなん、おれん」
居候…?今のはさすがに傷付いた。予想の範囲内だとしても傷付いた。無自覚にこういうことを言う蝮に若干の苛立ちが募って、俺はそれを隠しもせずに声を上げた。
「…オイ」
「な…に…」
声音と表情に、蝮は僅かに肩を竦める。そうやって怯えているのも、可愛いと言えば可愛い。だが、本意ではない。
「居候ってなんや」
「い…居候は、居候やろ」
不機嫌な俺の声と表情に、蝮は困惑と怯えでいっぱいの顔をした。
「居候ですか。そうですか」
「じゅうぞ…なに…?分からん…」
本当に怯えたように、ついでに、本当に俺が何に対して怒っているのか分からないように、蝮は俺の作務衣の袖を引いた。
「……」
「柔造…!」
泣き出してしまいそうだ。それはそれで可愛い。だが、やっぱり本意ではない。
「あーあ。新妻やと思ってたのに、当のお嫁さんは居候気分か」
「……っ!」
俺の一言に、蝮は真っ赤になる。それはもう、一瞬で。やっぱりこっちの顔の方がええ。可愛さ倍増。そう思いながら、俺は振り返る体勢の蝮の上半身を前に向ける。鏡に映った彼女と、後ろに立つ己は、まだ、夫婦と呼ぶには足りないものが多すぎるのかもしれない。
その存在を確かめるように、そっと、彼女の濡れた頬に手を添えて、それから俺は、シャンプーの甘い香りがする彼女の髪に唇を寄せた。その仕種一つに、蝮はぴくりと反応して、それからぎゅっと目を閉じる。
渡そうと思った世界を、渡せたなんて思わない。
世界どころか、狭い狭い明陀の中でさえ、まだ彼女を取り巻く思惑や目論見に満ちている。それは、多分、ずっと付いて回るのだと思う。彼女のことだから、きっとそれらに向き合わねばならないと思っているのだろう。その一つ一つを、振り払う手伝いをしたい。守りたい。全部を俺が背負うなんて、多分蝮は許してくれない。そういう女だ。その、芯の強さも愛おしい。だけれど今はまだ。そしてこれからも。
「お前は、もう一人と違う」
「柔…造…」
作務衣が濡れるのなんてお構いなしに、俺は蝮を後ろから抱きしめた。シャンプーやせっけんの匂いだけではない、蝮の香りがした。とても優しい香りがした。
様々な事が変わった。そしてこれからも、様々なことが降り懸かる。その全てを、共に乗り越えていけたらいい。
「俺がおるから」
だからもう、独りでどこかに行こうとなんて、しないでくれ。独りで抱え込まないでくれ。
蝮の白く小さな手が、彼女を抱きしめる俺の腕に重ねられた。やがてそれは微かに震える。彼女の頬は、シャワーで濡れていたが、目許から零れた滴は、鮮明に俺の目に映った。
「柔造…」
「大丈夫や。もう、大丈夫」
彼女を抱きしめる腕に力を込める。彼女の手が、力を込めた俺の手に縋りつく。それを俺は諾と取ろうと思う。優しい力で、しなやかな力で、歩いていこう。ゆっくりでいい。ゆっくりがいい。それで、きっと大丈夫だから。
彼女を抱きしめると、作務衣はぐっしょり濡れた。それでいい。雨が降ったら一緒に濡れよう。陽が差したら一緒に歩こう。雨の日も、晴れの日も、困難も、喜びも。一緒でいい。一緒がいい。
その小さな手を取る。これからずっと、一緒に歩む彼女の手を、確かめるように取る。
「お前、化学の成績どやっけ?」
「かがく…?」
「せや、化け学」
何を言い出すのか、というような顔をして、彼女はちょっと振り返る。それに俺は笑って見せた。
「プラチナってなあ、水につけても錆びんのや」
永遠の誓いを、君に捧げよう
=========
爆弾投下ありがとうございました。では踊りましょう。という。いろいろと本望です。
2012/4/5
2012/7/31 pixivより移動