纏わり付く。

何が?

纏わり付く。

過去が。
今が。
未来が。


カラギナン


 缶コーヒーが、甘ったるく口の中を支配した。
 冬。
 雪はまだ降らない。

「結婚」

 蝮は小さく冷たい夜の空につぶやく。

 結婚。

 夏から彼女を口説き続けた男は、根負けしたと言ってもいい蝮の一言に、気がついたら結納の算段を付けてしまった。
 結婚するのだ、とその段になって彼女はゆっくり思った。
 その男のことはもちろん好きだ。
 愛している、と言ったってちっとも大袈裟じゃない。

  缶コーヒーが少しずつ冷えていく。




「まーむーし!」

 ちゅっと可愛らしい音がして、気がついたら唇を奪われた。
 いつものことなので、気にはしない。自分も大概感覚が麻痺しているな、と脳の冷静な部分が考えた。

「待っててくれたん?」
「父様に届けもん」
「情緒がない!」

 不満そうに唇を尖らせた柔造を彼女はぼんやりと見つめた。

 詰所の裏口には、自動販売機があって、今年も『あったかい』飲み物が出回る季節になった。
 そこで缶コーヒーを買っていたら、なぜか中から柔造が出て来て、そうして気がついたら唇を奪われていた。

(目立つんやろか)

 蝮はふと思った。
 目立つのかしら?と。
 白銀の長い髪は、やはり、どこにいても目立つのだろうか、と思ったら、いっそのこと真っ黒に染めて、ばっさり切ってしまおうか、とまで思考が飛躍した。

 纏わり付くような髪が、疎ましかった。

(ちゃう)

 違う。己自身が、疎ましかった。

「蝮?どないした?」
「え…?」
「いや、ずいぶんぼんやりしとったから」
「…なんでもあらへん」

 そう言ったら、柔造は困ったように眉を下げた。

「そないに嫌か?」

 キス、と小さく付け足したら、蝮の色白な顔にサッと朱が上った。

「うるさい!」
「たあっ!何すんのや!」

 彼女は、気がついたらパチンと彼の頬を打っていた。
 だが、嫌ではない。そうぼんやり思ったら、頬を打った手を彼のあたたかな手が取った。

「ひゃっこい」
「ん」

 缶コーヒーは、もう完全に冷えていて、懐炉の役目すら果たさなかったから、あたたかい彼の手に触れているのは、嫌ではなかった。

嫌ではない。

キスも。
彼の温度も。

嫌ではない。

 だけれど、その向こう側を言語化するのは、少々骨が折れた。

「嫌いの反対の反対の反対」

 だから、意味もなく蝮は言った。息が白い靄になる。
 反対の反対の反対は‘好き’なのに、好きだとはっきり口に出すのは、どうしようもなく憚られた。
 今日だって、詰所の裏口から忍ぶように入って、父への届け物を済ませたら、挨拶もそこそこに出てきたのだ。

 合わせる顔がない。

 この建物の中にいる誰もに、合わせる顔がない。

 父にすら。
 目の前の男にすら。

 そう、少なくとも彼女は思っていた。

「蝮」
「何」

 短い会話に、深い意味は介在しないのに、蝮はただただ、この男と結婚するのだ、と思った。

「どうした?」

 やわらかな声がして、頬を撫でられる。

「あ…」

 滴が、彼の手を濡らす。
 泣いているのだ、と気がついたら、涙は止まらなくなった。
 何を言うべきなのか、分からない。

「どうして…」

 涙の合間に、ようよう声になったのは、膨大な問だった。


纏わり付くのは、恐怖に似ていた。
纏わり付くのは、畏怖に似ていた。


 喉元に張り付くように、声が出てこない。


 こんなにも彼が好きなのに。
 こんなにも彼を愛しているのに。


 言葉はいつも喉に張り付いて、結局音にはならない。


どうして私なの?
どうして貴方は好きだと言えるの?
どうして私は好きだと言えないの?
どうして?
どうして?

「ごめん」
「謝るようなこと、してへん」

 柔造はそう言って、彼女の細い身体を抱きしめた。

「なんも、してへん」

 それでも、息遣いの合間に、蝮は謝罪を繰り返した。

(嗚呼…)

 嗚呼、と嘆息のように彼女は思う。

許してくれなんて言えない。
助けてくれなんて言えない。

 だけれど、この熱を失うくらいなら、この身が尽きてもいいと思ったのだけは真実だと、信じてほしい。
 裏切りの感情の真ん中は、だけれどいつも、彼らを、彼を救おうと、それしかなかった。




(嗚呼…)

 嘆息のように、悲鳴のように彼女は思う。


この嘆きを
この叫びを


 理解しながら、彼はなお己を望むのだと、気がついてしまった。

どうして?
どうして?

 つまずいて、転んで、そうして、途方に暮れていると、どうしてか、いつもこの男がやってきて、この身を引き上げようとする。
 どろどろと纏わり付く様々な感情から、彼女を引き上げようとする。
 そう思ったら、涙は余計に止まらなくなった。


 嘆きが
 叫びが


 冬の乾いた空に吸い込まれる代わりに、彼の中に落ちた。

(嗚呼…ああ…)


 嘆きすら
 叫びすら


 彼は受け止めようとしているのだと思ったら、涙はやっぱり止まらなかった。
 だから彼女は、世界から切り離されたそこで、泣いた。


 纏わり付く感情。
 纏わり付く己。
 纏わり付く存在。


 そこには全てがあった。
 そこには全てがなかった。




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カラギナン:増粘安定剤、硫酸を多く含む

2012/12/9