立春大吉

「これ、前から疑問やってんけど」

 柔造は自宅の玄関先でうーんとうなって呟いた。
 ちなみに三徹目から帰った夕方である。自身の思考回路が可笑しくなっていることに彼は気が付いていない。

「何しとんの、あんた!風邪引くえ」

 玄関先に人が来る気配がしたから、来客かと思い出てきた蝮は、玄関の前でぼんやり佇む夫に思わず大きな声を上げた。

「お、蝮。ただいま」
「ただいまちゃうわ。はよ入りなされ」

 寒い寒いと繰り返して蝮は踵を返す。玄関先まで出てきたつっかけがさらさらと音を立てた。

「お前、これ分かる?」

 しかし、そんな蝮に構わずに柔造は玄関の柱に貼られた紙を指差す。

「なに?」

 そこで彼女は、ああ彼は寝ていないんだな、と気が付く。このところ休む間もない出張所での仕事のせいで、三日この家に帰ってきていなかった柔造は、多分寝ていない。寝ていない時の彼はどこか思考が鈍って、どうでもいいことによく引っかかる。

「隣町のお寺さんあるやろ。禅寺。あそこの住職さんからもろたんよ」
「……あれやっけ。金造が手伝いでよく行っとる寺?」
「ほうや。一月の三箇日過ぎてからやけど、今年入ってからもたまたま用事あってなあ。講の手伝いやけども。そん時もろてきたん」

 それに柔造はふうんと応じる。応じたが、自分が聞きたいのはそういうことではない、とぼんやり思う。思うが、それよりも早く暖かい家の中に入りたいという感覚がやっと出てきて、それは封殺された。

「はよ入って休みよ」
「そうするわ」

 もう一度踵を返して家の中に入る新妻に従って、柔造も玄関に入る。

「ああ、そういえばもう立春やね」

 先に上がった蝮がふと言った。そうだったろうか、と柔造は思いながら靴を脱ぐ。日付の感覚が狂っているようだった。

「立春過ぎたら」

 蝮がそう言ったのを聞くか聞かずかのうちに、ごとっと不穏な音がして、柔造は玄関先の床と仲良くなっていた。





「お?」
「阿呆!救急車呼ばなあかんかと思ったわ!」

 ぱちりと目を開けてグッと伸びをすれば、横に座っていた蝮から叱責が飛んできて、それから起き上がろうとしたそれに額をパシリとはたかれる。

「あれ?仮眠室違うの?」
「正真正銘あんたさんの実家や」
「おお、愛しの妻がおる。家で間違いないな」
「阿呆!」

 もう一たび言って、蝮は寝室に置いてある電気ケトルの電源を入れた。

「今お茶入れるさかい。少し大人しくしとき」
「あれ?俺落ちた?」
「直前まで話してたのに、玄関入った途端バタンて倒れたわ。救急車呼ぼうかと盾姉様と青くなったいうのに、気付いたらあんたはいびきかいてて。熱もないしなんともないみたいやったからナーガに部屋まで運ばせたわ」

 そう言って彼女はほうっと大きく息をつく。

「忙しいのは分かるけど、あんまり根詰めんでよ。体壊したら元も子もないやろ」

 電気ケトルが湯気を上げて、蝮は急須にお湯を入れる。ほどなくして緑の濃いお茶が柔造の湯飲みに注がれた。

「夜に緑茶もどうかと思うけど、頭痛くなったりしてるやろから緑茶で」
「すまんなあ、って、もう夜か?」

 そう言われて柔造はガバッと起き上がる。その動作にか分からないが彼女が言う通りずきりと頭が痛んだ。

「あかんわこれ。全然寝てへんのに変な時間に寝たからきた」

 額をおさえて湯飲みを受け取れば、蝮は困ったものだと言うようにもう一度息をついた。

「連勤の疲れも出てるんやろ」
「そうかなあ」

 そう言って柔造は緑茶を口に含む。苦味と甘みの両方が口に広がった。

「薬いる?痛み止め。置き薬あるえ」
「あー、大したことないし大丈夫や。もし明後日まであかんかったら出張所の医務室でなんかもらうから」
「明日休み?」

 訊ねた蝮に彼はうんとうなずく。何故だか知らないが、帰り際に所長である父から明日は休んでいいと言われた。駆けずり回っていたから疲れていたのは間違いなくて、特段の理由も聞かずに甘えることにしたけれど。

「八百造様にお礼言っとかんとね」
「ええやろ。有給やぞ?正当な職場権利!」

 そう言いながら緑茶を飲み干せば、頭の痛みもだいぶ和らいだ。

「そういうことと違うんよ」
「え?」

 不思議そうに蝮を見返した柔造に、彼女はほほほと誤魔化すように笑う。

「そういえばあんた、立春大吉の御札ずいぶん熱心に眺めてたなあ」
「おー、そやそや」
「あれ、今日まで待たんと小正月の前から貼ってたんやけど、今日気付いたんか?」

 話題を逸らすようなそれに、だけれど柔造は特に疑問も持たずに首を傾げた。

「いや?貼ってあるのは知ってた。ちゅうかこの時期は毎年貼ってある家も多いからなあ。ただあれ、なんやろなあってけっこう前から思ってん」

 ことりと枕元に蝮が置いていた丸盆の上に湯飲みを置けば、心得たもので蝮は二煎目を注ぐ。

「あ、すまん」
「ええよ。なんやろって立春大吉の御札やけど?」
「それは読めば分かるんやけど…あれなんか意味あるんか?普通の御札にしてはどこでも同しようなの貼ってるやろ?」

 それに蝮は、ああそういうことかと玄関先で寝不足のために引っかかっていた柔造に合点がいった。柔造の知りたいことが分かったから、彼女は枕元から少し離れて机に向かうと、ノートになにごとか書き始めた。

「ん?どないしたん?」

 ゆっくりとお茶を飲みながらその妻の背中を眺めていた柔造に、蝮は書きこんだノートの一ページを見せる。そこにあったのは、彼女らしいさらりとした筆致で大きく書かれた「立春大吉」の四文字だった。それはボールペンで書かれていて、蝮は左手で持つそのノートを柔造に見せながら、右手にはフェルトペンを握っている。

「これが立春大吉」
「そやな」
「これを、こうすると謎解き完了」
「おい!?」

 その綺麗に書かれた四文字の真ん中を通る一直線を蝮はフェルトペンで書きいれた。

「目茶苦茶なやっちゃなあ」
「目茶苦茶と違うわ。見てみい」

 無残に縦線を入れられた有難い言葉のはずの立春大吉の文字を柔造はまじまじと眺める。そうすること数十秒。柔造は思いついたことを言ってみた。

「左右対称?」
「よくできました。そうや。四文字とも左右対称の文字なんよ。裏から読んでも同しに見えるように」

 謎解きに成功した柔造に、蝮はパラパラとその眼前でノートのページを繰ったり戻したりする。そうすれば確かに、黒で書かれたその文字は裏から透けて見えるそれでも同じに読めた。
 しかし、四文字が左右対称である、という謎解きに成功しても謎は深まる一方だ。

「えっと?左右対称だとなんかええことあるんか?」
「そこがミソでなあ。こう、玄関から鬼とか悪いものが入って来るとするやろ。玄関に入ったそこでそいつらが振り返って立春大吉の御札を見るの。すると裏っかわと気づかずに同し文字が見える。ほんでその玄関をまだ入ってへん家の玄関と勘違いするんやね。そやからそっちの家の方に入ろうとして、結果的にはその玄関から出ていってまう、っちゅうとんちみたいな禅寺の厄払いや」

 可笑しげに笑いながらいった蝮に、柔造はほうとうなずく。

「相変わらず物知りやなあ」
「阿呆申。こんくらい覚えておき。ほんまは今日から貼るらしいけどね、忙しやろからいつ貼ってもええってわざわざ住職さんからのお手紙も金造がもろてきて。まあでも気ぃついたらもう立春も過ぎるなあ」

 そう言って蝮はふと時計を見上げる。カチカチと動くそれはそろそろ夜中の十二時を回ろうとしていた。

「あんた、腹は空かんの?」
「ん?飯は明日でええ、なんか今から食うのは無理っぽい。あ、でも甘いもんとかある?祓魔に行った金造の分の書類も捌いたからやろか。なんか甘いもんが無性に欲しいわ。この時間やけど」

 その言葉になぜか蝮の顔がぱあっと明るくなる。不思議に思いつつも愛する妻の笑い顔であるから思わずにやけた柔造だった。

「十分待って!十分!」

 時計をちらりちらりと見やりながら、嬉しそうな声で言って蝮は立ち上がるとぱたぱたと階下へと向かっていった。

「十分?」

 饅頭とかでええんやけど、と柔造は彼女のいなくなった寝室の時計を見上げる。立春の夜の11時50分だった。





「わっ!?」

 彼女は言ったとおりに十分後の2月5日深夜0時に寝室に戻ってきた。手に持っていたのは手作りとわかるチョコレートケーキで、柔造は思わず驚いた声を上げる。

「フォンダンショコラ。今日焼いたのあっためてきたの」
「いや、美味そうやけどなんでまたそんな手の掛かるもんを…」

 柔造の疑問をよそに、蝮はやっぱり時計を見上げて、それから食べて食べてと柔造をせかした。

「美味い」

 一口食べて言えば蝮は嬉しそうに顔をほころばせる。

「おめでとう、柔造」
「へ?」
「今年はあてが一番乗りやな、春男」

 はるおとこ、なんてそれは不思議な言葉に聞こえる。
 まだ寒い冬だし、そもそもはるおとこなんて言葉があるのか微妙なところだ。夏男ならよく聞くが。
 そうしてそれから柔造は、ああそうか、昨日はもう立春だったのだ、と納得する。
 納得したけれど、それがどうしておめでとうなのか、どうして自分が「春男」なんて言われているのか、と思って首を傾げながらもう一口ケーキを食べる。食べてそれから、あ、と声を落とした。

「そういうことか」

 笑う蝮に柔造も二カッと笑った。

「ありがとな、蝮」

 よくよく考えれば、立春の次の日は彼の誕生日だった。




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柔造さん誕生日フライングゲット!

2015/02/04